第十一話 魔王はいなかった
最初に燃えたのは、倉庫ではなく、噂だった。
朝の広場に、まだ煙の匂いが残っている。
白い水差し亭の二階から降りたトオルは、入口の前で足を止めた。
いつもなら、水差しの横に数人が並んでいる時間だった。
薬の相談。荷運びの相談。帰ってこられる場所を探す相談。
けれど今日は、誰も並んでいない。
人々は広場の中央に固まっていた。
声だけが、先に走っている。
「獣人だってよ」
「薬草倉庫がやられたらしい」
「黒札をつけた連中が、夜に集まってたって」
「風下の街を閉じろ」
その声は、まだ怒りだった。
けれど、その声を誰かが紙に写せば、たぶん別の名前になる。
封鎖。撤去。整理。
人の暮らしは、紙の上では驚くほど簡単に片づく。
「黒札は、やっぱり合図だったんだ」
黒札。
その言葉が出た瞬間、トオルは喉の奥が詰まるのを感じた。
黒札は、拒絶ではなかった。
少なくとも、最初はそうではなかった。
余計な声をかけないでほしい。
今は近づかないでほしい。
壁を壊さず、壁越しに知らせるための、小さな印だった。
それが今、別の意味を着せられようとしている。
便利な印ほど、早く奪われる。
広場の端で、獣人の女が買い物籠を抱えて立っていた。
普段なら誰かが道を空ける。
今日は違った。
人々の体が、少しずつ彼女から離れている。
離れているのに、視線だけは近かった。
トオルは一歩踏み出した。
「それは、まだ」
言いかけたところで、腕を掴まれた。
セラだった。
「まだ言うな」
「でも」
「今ここで説明すれば、お前の言葉も燃える」
セラは広場を見ていた。
人ではなく、出口を。
出入口の狭さを。
人の輪がどこで固まり、どこで崩れるかを。
「まず囲いを解く」
「囲い?」
「人が人を囲み始めている」
セラは歩き出した。
黒い外套が、人混みの中に入っていく。
「王都警備隊だ。道を空けろ。話を聞く者は一列に並べ。怒鳴る者は後ろへ下がれ。風下の街の者に手を出した者は、その場で拘束する」
広場が、一瞬だけ静かになった。
セラの声は大きくない。
けれど、どこに立てば声が通るかを知っている。
イリスが少し遅れて駆け込んできた。
「セラ副官!」
「東側を見ろ。子どもを近づけるな。水差しの台をこちらへ寄せる。集まる理由を別に作れ」
「はい!」
イリスはすぐに動いた。
白い水差しを台ごと広場の端へ移す。
水を配る場所を作る。
そこに人を少しずつ流す。
ただ散らすのではない。
集まる場所をずらす。
ユンが帳簿を抱えて出てきた。
「薬の相談は、今日は中止ですか」
「中止にすれば噂が勝つだろう」
セラが答える。
「相談は受けろ。ただし一人で受けるな」
「わかりました」
ユンは顔色を変えずに、紙を二枚増やした。
薬の相談。経路。噂を聞いた場所。
最後の一枚を見て、トオルは少しだけ息を飲んだ。
ユンは淡々とペンを置いた。
「噂にも、通った道があります」
その声は小さかったが、トオルにはよく聞こえた。
広場の向こうで、子どもたちが黙っていた。
昨日まで赤や黄色の木切れを振り回していた手が、今日は下がっている。
ロッカも、エマも、カイも、人混みの外から大人たちを見ていた。
遊びで覚えた言葉が、大人の口に上るとどうなるのか。
たぶん、子どもたちは今、それを見ている。
セラが戻ってきた。
「倉庫へ行く」
「俺もですか」
「ああ。喋るなとは言わない。ただし、喋る前に私を見ろ」
「はい」
「返事が早い」
「重要な基準なので」
セラはわずかに目を細めた。
笑ったようにも見えたが、すぐに広場の出口へ向かった。
薬草倉庫は、風下の街へ向かう道の途中にあった。
王都の中心から見れば端。
風下の街から見れば入口。
こぼれ市から見れば、荷が一度姿を消すのにちょうどいい場所。
倉庫そのものは、燃え落ちていなかった。
黒く焦げているのは、扉の片側と外壁だけだ。
煙は出ている。
だが、焼け跡というより、焼けたことを知らせるための跡に見えた。
外壁には、黒い印が描かれている。
月を削ったような弧。
その下に、牙のような線。
周囲の人々が、それを遠巻きに見ていた。
「夜の牙だ」
誰かが言った。
その名前が、また別の誰かの口へ移る。
「夜の牙」
「風下の連中だ」
「人間を襲うって」
「薬を奪ったんだろ」
「だから言ったんだ。あの区画は閉じるべきだった」
言葉が早い。早すぎる。
トオルは外壁の印を見た。
黒い。荒い。怒りをそのまま壁に叩きつけたような線。
けれど、何かが引っかかった。
強すぎる。
見せるために描かれている。
人を怖がらせるのに、ちょうどいい位置にある。
「近づくな」
セラがトオルの前に出た。
倉庫の扉から、焦げた匂いと薬草の苦い匂いが混ざって流れてくる。
中で数人の警備兵が荷を調べていた。
倉庫番の男が、腕に包帯を巻いて座っている。
「獣人だ。間違いない」
男は誰にでも聞こえる声で言った。
「夜中に黒い影が来た。俺を突き飛ばして、薬を持っていった。火もつけた。あの印を見ろ。あれが証拠だ」
「顔は見たか」
セラが聞いた。
「黒い布を巻いてた」
「耳は」
「見えなかった」
「尾は」
「見えなかった」
「人数は」
「三人……いや、五人かもしれない」
「武器は」
「刃物だ」
「どんな刃物だ」
「だから、刃物だ!」
男は苛立ったように叫んだ。
周囲がざわめく。
トオルは男の包帯を見た。
血は滲んでいる。嘘ではない。
怖かったのも、本当だろう。
けれど、恐怖はいつも、正確にものを見るとは限らない。
セラが少しだけ視線を横へ動かした。
喋っていい、という合図ではない。
まだだ、という合図だった。
トオルは口を閉じる。
その時、倉庫の裏口から、灰色の影が出てきた。
痩せた男だった。
雨も降っていないのに、灰色の長外套は湿って見える。
裾には泥がつき、指先には黒いインクが残っていた。
片手には、半分だけかじった硬そうな果物。
もう片方の手には、革紐で縛られた紙束。
王立監査院の監査官、クロード・ヴァレル。
顔を見るだけで、トオルは少しだけ胃が重くなった。
「顔も耳も尾も人数も見ていない。見たのは、怖かったという事実だけか」
倉庫番の男が顔を上げる。
「誰だ、お前」
「王立監査院、クロード・ヴァレル。君の帳簿が臭かったので来た」
「帳簿?」
「火事の話をしているんだ」
「火事だから、まず帳簿を見るんだろう」
クロードは、だるそうに果物をかじった。
セラが眉をひそめる。
「監査院がなぜここにいる」
「偶然は三度続くと帳簿になる」
「またそれか」
「薬草の不足。こぼれ市への流出。黒札への風評。そこに都合のいい倉庫の小火。三度どころではない。なので来た」
クロードはそこで、ようやくトオルを見た。
「測量士」
「はい」
「焦げ跡だけ見るな。燃えたものより、燃えたことにされたものを見ろ」
「帳簿ですか」
「少しは覚えたらしい」
クロードは紙束を一枚めくった。
「君は痛みを見る。私は、その痛みに値段をつけた奴を見る。前にも言ったな」
「言い方が悪いことだけは、よく覚えています」
「生憎、私が買われているのは言い方じゃない」
セラが小さく息を吐いた。
「相変わらずだな」
「変わる理由も、必要もない」
クロードは焦げた扉を指した。
「燃やしたいなら、もっと燃やす。奪いたいなら、もっと静かに奪う。これは燃やした跡ではなく、燃えたことを見せるための跡だ」
周囲がざわついた。
倉庫番の男が立ち上がりかける。
「俺が嘘をついてるって言うのか」
「君が怖かったのは本当だろう」
クロードは紙束から一枚抜いた。
「だが、怖かったことと、帳簿が正しいかどうかは別だ」
男の顔色が変わった。
クロードは倉庫の中へ戻るように顎を動かす。
「来い。見るだけなら邪魔にはならない」
セラがトオルを見る。
今度は、行けという目だった。
倉庫の中は、焦げ臭かった。
薬草の束が棚に積まれている。
安い乾草。包帯用の綿。熱冷ましに使う葉。
そして、苦草。
苦草の棚だけが、妙に空いていた。
「抜かれているな」
クロードが言った。
「だが、抜かれ方が綺麗すぎる。夜中に襲われた倉庫番を突き飛ばして火をつけた連中にしては、ずいぶん落ち着いている」
彼は棚の下から木札を拾った。
汚れた通行札だった。
端に、こぼれ市の印がある。
セラの目が細くなる。
「マグダスか」
その名を聞いた瞬間、クロードの目がセラへ向いた。
「反応が早いな」
「今その話をするな」
「確か、士官学校の同期だったか」
「するなと言った」
セラの声は低かった。
トオルは、思わずセラを見る。
セラはトオルを見なかった。
クロードは肩をすくめる。
「名を出すにはまだ早い。本人がここにいた証拠はない」
クロードは札を裏返した。
「だが、網の匂いはする」
「匂いで人を裁くな」
「裁くのは私の仕事ではない。臭い場所を掘るのが仕事だ」
クロードは奥の棚を指した。
「焼け残った帳簿には、先月から同じ記載がある。苦草三束、破損。苦草五束、湿気により廃棄。苦草四束、輸送中紛失」
「実際は?」
「なくなっていない」
クロードは小さな帳面を開いた。
「こぼれ市で売られている。少し名前を変えてな」
トオルは息を詰めた。
苦草。リナが知っていた薬草。
黒札の人々が、余計な接触を避けながら必要としていたもの。
それが、燃えたことになって、別の道を通っている。
「今回の小火で、帳簿上はもっと消せる」
クロードは紙を閉じた。
「風下の仕業にすれば、なお都合がいい。怒りも恐怖も、紙を隠すにはちょうどいい煙になる」
トオルは焦げた壁を見た。
外の人々はまだ叫んでいる。
夜の牙。獣人。黒札。
その声の奥に、別の音が混ざっていた。
祈りの声だった。
倉庫の外へ出ると、白い衣をまとった数人が、怪我をした人々のそばに立っていた。
彼らは大声を出していない。怒鳴らない。責めない。
ただ、静かに膝をつき、包帯を差し出し、水を渡し、手を握っている。
胸には、金色の小さな太陽の印があった。
「セラさん。あれは」
「サンだ」
セラが短く答える。
イリスが少し声を落として補足した。
「救護と祈りの集まりです。正式な施療院ではありませんけど、身寄りのない方や、家族を亡くした方のところへよく行っています。水を配ったり、包帯を巻いたり、話を聞いたり」
「評判は?」
トオルが聞くと、イリスは少し迷った。
「助かった、という人は多いです」
その言い方に、トオルは少し引っかかった。
多い。でも、全員ではない。
「寒かったでしょう」
柔らかな声がした。
人々の輪の中央に、白と金の衣を着た人物が立っていた。
若くも、年齢を越えているようにも見える。
長い淡色の髪が肩に落ち、薄い布が光を受けて揺れていた。
その人は、怪我をした倉庫番の妻らしい女性の手を包んでいる。
「怖かったですね」
声は、ただ優しいだけではなかった。
責めない。急かさない。説明を求めない。
泣き方が下手な者の呼吸に合わせて、少しだけ言葉の速さを落としている。
「あなたが弱いからではありません。世界が、あなたを一人で立たせすぎたのです」
女性は泣いた。
その涙を見て、周囲の人々が静かになる。
静かになった、というより、ほどけた。
怒りで固まっていた肩が落ちる。
誰かを責めるために開いていた口が、息を吐くために使われる。
握られていた拳が、少しずつほどけていく。
トオルは、その光景から目を離せなかった。
正しいと思ってしまった。
今、この人たちに必要なのは、説明ではない。
構造でもない。
証拠でもない。
まず、自分が怖かったのだと認められる場所なのだ。
それを、この人は一言で作った。
「私はね、あの方の灯りで生き延びたんだよ」
近くにいた老女が、小さく言った。
腕に古い火傷の跡。
頭には色の褪せた布を巻いていた。
「息子を亡くして、冬を越せないと思っていた。誰もが私の涙を止めて、前に進ませようとした。そんな時、あの方だけが私に泣いてもいい、と言ってくれた」
老女は胸の太陽の印を慈しむように指で撫でた。
トオルは黙った。
彼女が救われたことは、嘘ではない。
だからこそ、出口が無い。
白い衣の人物は、女性の手を握ったまま、少しだけ身を寄せる。
「外は、またあなたを傷つけるでしょう。今はまだ、戻らなくていい。光の中で、私の声を聞いていなさい」
その言葉は、危ういほど甘かった。
戻らなくていい。
トオルの胸の奥で、何かが小さく動いた。
戻らなくていいなら。
測らなくていいなら。
見えたものを、誰かの形へ直さなくていいなら。
自分が傷つけたかもしれない言葉を、もう一度選び直さなくていいなら。
ほんの一瞬、楽になりたいと思ってしまった。
その瞬間、白い衣の人物がこちらを向いた。
目が合う。
太陽の下にいるような目だった。
遠ければ温かい。
近ければ、輪郭が溶ける。
そんな眼差し。
「あなたが、測量士さんですね」
その人は微笑んだ。
「セフィアと申します」
トオルは軽く頭を下げた。
「トオルです」
「よく見ておられる」
セフィアは近づいてきた。
歩き方に音がない。
「見える人は、疲れるでしょう」
声が、まっすぐ胸の奥へ入ってくる。
「人の痛みも、嘘も、言葉にならなかった願いも、あなたの中に入ってくる。けれど、それを受け取ったあなた自身の痛みは、誰にも見られない」
トオルは息を止めた。
それは、言われたくない言葉だった。
けれど、言ってほしかった言葉でもあった。
「疲れてしまったら、いつでもサンの灯りの下へ」
セフィアの手が伸びる。
「あなたが抱えたものを、私たちは否定しません。測らなくても、整えなくても、ただ置いてよいのです」
トオルの手が、わずかに動いた。
自分でも、動いたことに気づくのが遅れた。
その前に、黒い手袋が間に入った。
セラだった。
「この者の疲労は、職務上こちらで管理している」
セフィアは少しだけ目を細めた。
笑みは消えない。
「大切にされているのですね」
「運用している」
「それは、少し寂しい言い方です」
「寂しさで規則は変えない」
セラの声は冷たかった。
セフィアは責めなかった。
むしろ、少し悲しそうに微笑んだ。
「どうか、光が必要な時は」
「必要になったら呼ぶ」
セラは短く返した。
セフィアは一礼し、また怪我人の輪へ戻っていった。
イリスはその背中を見ていた。
「優しい人に見えます」
「たぶん、本当に優しいのだと思う」
トオルは答えた。
自分の手を見る。
触れられる前に止められた手。
その指先に、まだ熱が残っている気がした。
「だから、危ない」
イリスがこちらを見る。
「危ない、ですか」
「はい」
トオルは、まだ指先を見ていた。
「温めることと、抱きしめたまま離さないことは、違うんだと思います」
イリスは黙った。
その顔には、納得ではなく、迷いがあった。
それでよかった。
すぐに納得できる優しさほど、危ない。
夕方、トオルたちは風下の街へ向かった。
案内したのはリナだった。
彼女はいつものように、道の端を歩いた。
目線は前ではなく、屋根、路地、窓、足跡を順に拾っている。
「夜の牙を知っていますか」
トオルが聞くと、リナは答えなかった。
代わりに、細い路地へ入った。
壁には古い傷がある。
爪で引いたような線。
その上から、黒い布切れが結ばれていた。
夜の牙の印と似ている。
けれど、倉庫の壁にあったものよりずっと小さい。
「人間は、いつも大きく描く」
リナが言った。
「小さいままだと、敵にするには不都合だから」
「本物は?」
「隠す」
リナは黒い布切れを指先で弾いた。
「見せるための牙と、見分けるための牙は違う」
路地の奥から、小さな子どもが顔を出した。
片耳が少し欠けた、狐に似た耳の子だった。
トオルたちを見ると、すぐに引っ込もうとする。
けれど、リナを見ると足を止めた。
「リナ姉」
「奥へ行ってろ」
「ノク兄は?」
「今は名前を出すな」
子どもは口を閉じた。
それでも、小さく言った。
「昨日、薬くれたの」
リナの目が一瞬だけ揺れた。
子どもは逃げるように路地の奥へ消える。
リナはしばらく黙った。
「人間は嫌いだけど、夜の牙が正しいとは思ってない」
彼女は低く言った。
「でも、あいつらがいなかったら、夜を越せなかった子たちもいる」
トオルは何も言わなかった。
サンが救った者がいる。夜の牙が守った者もいる。
そのどちらも、事実だった。
路地の奥に、バルクが立っていた。
大きな体が、狭い道の半分を塞いでいる。
腕を組んだまま、トオルたちを見下ろした。
「来ると思った」
声は低い。
セラが前に出る。
「夜の牙の首魁に会いたい」
「会わせると思うか」
「思わない。だが、聞く必要がある」
「人間に聞かせる話じゃない」
「風下の街を閉じる話が王都で出ている」
バルクの耳がわずかに動いた。
リナが小さく息を吐く。
「早すぎる」
「噂は足が多い」
セラは言った。
バルクはしばらく黙った。
それから、路地の奥を見た。
「ノクスは、獣人ではない」
「人間族だ」
バルクは続けた。
「口減らしで、風下の街の入口に捨てられた。布にくるまれて、夜中に泣いていた」
「拾ったのは?」
セラが聞いた。
「ハウゼンだ」
バルクの声が、少しだけ低くなった。
「夜の牙の先代頭領。今は奥で寝ている。片脚は動かん。片目もほとんど見えていない」
リナは黙っていた。
その沈黙だけで、ハウゼンという名がこの区画でどう扱われているのか、少しわかった。
「ハウゼンは、人間の赤子を捨てなかった」
バルクは続けた。
「飯を食わせた。名をつけた。熱を出せば背負って医者を探した。だが」
バルクは言葉を切った。
「自分たちの夜も、少しずつ渡した」
「夜?」
「人間を信じるな。牙は最後まで隠せ。噛む時は迷うな。そういう夜だ」
トオルは、バルクの腰紐に提がっている小さな牙を見た。
以前、市場の柵の前で見た時は、護符なのか、合図なのか、わからなかったものだ。
「それは、夜の牙の印なんですか」
問いが出た瞬間、リナの耳が嫌そうに伏せた。
「違う」
答えたのはバルクだった。
「風下では、昔から牙を提げる者がいる。噛むためじゃない。噛まずに済ませるためだ」
「噛まずに」
「怒りを身体の中だけに置くと、いつか本当に噛む。だから外へ出す。俺はまだ噛んでいない、と自分に見せる」
バルクは腰紐の小さな牙に触れた。
「夜の牙は、その意味を変えた。隠していた牙を、振り上げる名にした」
トオルは何も言えなかった。
「そしてノクスは、ハウゼンに拾われた恩を、人間を憎むことで返そうとしている」
バルクの拳が、ゆっくり握られる。
「それが一番、厄介だ」
「それは」
「わかる、とは言うな」
バルクの声が低くなった。
トオルは口を閉じた。
バルクはじっと見ていた。
やがて視線を外す。
「お前が悪いわけじゃない。だが、その言葉は軽い」
「はい」
トオルはうなずいた。
軽い。
たぶん、本当に軽い。
リナが壁に背を預ける。
「ノクスは、人間を憎んでる。でも、あいつの手も顔も、人間のもの」
「そしてサンにとっては、救済の対象だ」
セラが言った。
リナの顔が険しくなる。
「救済?」
「奪われた人間の子、と彼らは言うだろう」
バルクの拳が鳴った。
「拾った命を、奪ったと言うのか」
「彼らなら言う」
セラは即答した。
トオルはセフィアの声を思い出した。
あなたが弱いからではありません。
今はまだ、戻らなくていい。
光の中で、私の声を聞いていなさい。
もしあの声がノクスに向けられたら。
あなたは奪われたのです。
本来なら、光の下で生きられたはずの方です。
それは救いではない。
ノクスの生きてきた場所を、丸ごと別の名前に変える言葉になる。
「マグダスは?」
クロードの声がした。
全員が振り返る。
灰色の外套の男が、路地の入口に立っていた。
「いつからいた」
セラが言う。
「君たちが重要そうな話を始める少し前から」
「最悪ですね」
イリスが思わず言った。
クロードは否定しなかった。
「マグダスはノクスをどう見ると思う」
トオルは少し考えた。
「使える駒、ですかね」
「正解に近い」
クロードは汚れた通行札を見せた。
「ノクスは人間であり、風下の街の子でもある。どちらにも属し、どちらにも刺さる。火種として高値がつく」
リナが唸るように言った。
「売り物みたいに言うな」
「売り物にする奴がいるから言っている」
クロードは札をしまった。
「私は、そういう奴が嫌いなんだ」
「正義感で?」
「違う」
彼はだるそうに目を細めた。
「薄汚れた帳尻は、見るに堪えない」
その時、路地の奥で物音がした。
黒い布が揺れる。
影が一つ、屋根から降りた。
人間の青年だった。
痩せている。
髪は黒く、少し長い。
目は夜の底のように暗い。
耳も尾もない。
けれど、その立ち方は、人間の街で見る若者のものではなかった。
道を正面から使わない。
壁を背にしない。
誰の手も届かない距離を、正確に知っている。
青年の首には、牙の飾りが下がっていた。
古い傷の入った牙だった。
磨かれてはいない。
飾りというより、誰かから預かったもののように見えた。
「ハウゼンの牙だ」
バルクが低く言った。
「噛まないために提げていたものを、あいつは噛むための名にしてしまった」
「バルク」
青年が言った。
「人間を奥に入れるな」
「話がある」
「人間はいつもそう言う」
青年の視線が、トオルたちを順に刺した。
セラ。イリス。クロード。トオル。
最後に、リナを見た。
「リナまで連れてきたのか」
「私は勝手に来た」
「そうか」
青年は口元だけで笑った。
「相変わらずだな」
リナは何も返さなかった。
セラが言う。
「ノクスだな」
「だったら?」
「薬草倉庫の小火について聞きたい」
「風下の街を閉じるための材料が欲しいか」
「閉じさせないために来た」
ノクスの目がわずかに動く。
「言葉だけなら何とでもいえる」
「だからこそ、ちゃんと疑え」
「それは覚えておく」
ノクスは壁の上に座るように片足をかけた。
「薬なら奪った」
イリスが息を飲む。
セラは動かなかった。
「火は」
「つけていない」
「印は」
「俺たちの印じゃない」
「似ている」
「似せたんだろ」
ノクスは倉庫の方角を見た。
「本物の牙は、あんなに大きく壁へ描かない。怖がらせたい奴が描く牙だ」
リナの言葉とつながった。
クロードが少しだけ笑った。
「証言が合った」
「お前は誰だ」
「帳簿を見る人間だ」
「なら帰れ。ここには数字なんかない」
「あるさ」
クロードは路地に落ちていた木札を拾った。
「空腹の数。薬の値段。通行料。捨て子一人にかかった飯。怒り一つを動かすのに必要な銅貨。全部、数字になる」
ノクスの目が冷たくなった。
「俺を値段にするな」
「君を値段にした奴を探している」
その言葉に、路地の空気が少し変わった。
ノクスは黙った。
トオルはその沈黙を見た。
怒りがある。疑いがある。
けれど、その奥に、一瞬だけ別のものが見えた。
拾われた夜。
捨てられた身体。
自分を拾った手に報いたいという思い。
ハウゼンから渡された名と、飯と、牙。
言ってはいけない。
トオルはそう思った。
今、それを言葉にしたら、この青年のいる場所を奪う。
だから、聞いた。
「倉庫から奪った薬は、どこへ」
ノクスはトオルを見た。
「言うと思うか」
「思いません」
「なら聞くな」
「でも、聞かないと、別の人が勝手に名前をつけます」
ノクスの眉が動いた。
「風下の者が薬を奪った。風下の者が倉庫を燃やした。風下の者が人間を襲う。そういう名前が、もう広場で走っています」
「走らせておけばいい」
「止まらなくなります」
「止まらなくなれば、人間も少しは怖がる」
リナが低く言った。
「その怖がった人間が、明日、風下の子を傷つけるかもしれない」
ノクスはリナを見た。
「なら噛みついてやればいい」
「そいつは、あんたを捨てた奴じゃない」
リナの声は鋭かった。
ノクスは唇を歪めた。
「人間を憎むなって?」
「言わない」
リナは即答した。
「でも、あんたが噛もうとしてるのは、あんたを捨てた奴じゃない」
路地が静かになった。
ノクスの手が、腰の短剣に触れる。
バルクが一歩前に出た。
「ハウゼンは、お前に飯を食わせた」
ノクスの目が、低く光る。
「その名を出すな」
「出す」
バルクの声は揺れなかった。
「あいつは、お前に名をやった。生きろとも言った。噛めとも言ったかもしれん」
「黙れ」
「だが、代わりに噛めとは言っていない」
ノクスの顔が、初めて歪んだ。
「じゃあ何のためだ」
声が荒くなる。
「噛まなかったから、俺たちは踏まれたんだろ」
誰もすぐには答えられなかった。
トオルも、セラも、イリスも。
ノクスの言葉には、理由があった。
理由があるからこそ、危なかった。
理由のある怒りは、止まりにくい。
その時、路地の外から白い光が差した。
小さな太陽の印をつけた青年が、入口に立っていた。
サンの信徒だ。
青年はノクスを見て、息を飲んだ。
「あなたが、ノクス……」
ノクスの目が細くなる。
「誰だ」
「セフィア様が、あなたを案じておられます」
空気が凍った。
信徒は気づかない。
「あなたは、奪われたのです。本来なら、光の下で生きられたはずの方です。風下の街で育ったことを、あなたの罪にしなくていいのです」
次の瞬間、ノクスが動いた。
速かった。
短剣が抜かれ、信徒の喉元に届く寸前で止まる。
止めたのは、バルクの腕だった。
巨大な手が、ノクスの手首を掴んでいる。
「放せ」
「殺すな」
「こいつは」
「殺すな」
バルクの声は低く、落ち着いていた。
「殺せば、お前が戻れなくなる」
ノクスの息が荒い。
信徒は腰を抜かし、その場に崩れた。
イリスがすぐに駆け寄り、信徒をノクスから離す。
剣は抜かない。盾にもならない。
逃げ道だけを作る。
「下がってください。今は言葉を重ねないでください」
「で、でも、セフィア様が」
「下がってください」
イリスの声が、少し強くなった。
信徒はようやく黙った。
ノクスはバルクの手を振り払った。
そして、信徒ではなくトオルを見た。
「見ただろ」
低い声だった。
「これが救いだ」
トオルは頷かなかった。
否定もしなかった。
ただ、言った。
「見ました」
ノクスは笑った。
虚ろな笑いだった。
「測量士。なら測れよ。俺は人間か。風下の街の子か。夜の牙か。サンの迷子か。マグダスの火種か。ハウゼンの牙か」
言葉が刺さる。
トオルはすぐには答えられなかった。
答えた瞬間に、どれか一つへ押し込めてしまう気がした。
だから、答えなかった。
「今、俺が決めることじゃない」
ノクスの目が少し開く。
「逃げるのか」
「逃げます」
トオルは言った。
「今ここで俺が決めたら、それすらも奪うことになる」
ノクスはしばらくトオルを見ていた。
やがて、短く笑う。
「自分は他の人間とは違う、とでも言いたげだな」
「俺は人間ですよ」
「なら俺の敵だ」
「本当にそうなのかを測るのが、測量士です」
ノクスは壁の上へ跳んだ。
黒い布が夜に混ざる。
「火は俺たちじゃない。薬は、必要な場所へ行った」
「どこへ」
セラが聞く。
「人間の帳簿には載らない場所だ」
「それでは守れない」
「載れば、奪われる」
ノクスはそう言い残し、闇へ消えた。
誰も追わなかった。
追えば、路地はたちまち牙となっただろう。
クロードだけが、足元の木札を見ていた。
「必要な場所、か」
「何かわかったのか」
セラが聞く。
「少し」
クロードは札を指で弾いた。
「ノクスが奪った薬と、倉庫で消えた薬の量が合わない。足りない分がある」
「マグダス?」
「おそらく。だが、狡猾で鳴らした奴のことだ。網を張った者は別にいるだろう」
「サンは?」
「寄付の名簿を見る必要がある」
クロードは灰色の外套を翻した。
「祈りは無料じゃない。救われる者の名簿と、救われない者の名簿があるはずだ」
夜が降り始めていた。
王都の灯りが、遠くで一つずつ点いていく。
その帰り道は、誰も口を開かなかった。
広場に戻ると、まだ人々が残っていた。
誰かが風下の街を閉じろと叫んでいる。
別の誰かが、サンの祈りを聞けと言っている。
誰かが夜の牙の名を恐れ、誰かが夜の牙を待っている。
白い水差しの横で、ユンが帳簿を書いていた。
噂を聞いた場所。噂を言った人。噂を聞いて動いた人。
紙は増えていた。
トオルはその前に立った。
「増えましたね」
「はい」
「整理できますか」
「今は無理です」
ユンは即答した。
「でも、無理だとわかる程度には書けています」
「それは、良いことなんですか」
「何も書かないよりは」
ユンはペン先をインクに浸した。
「噂は、形がないと全部になります」
「全部?」
「獣人全部。人間全部。黒札全部。サン全部。夜の牙全部」
ユンは顔を上げた。
「全部になる前に、線を引く必要があります」
「線を」
「はい」
ユンは紙の端を押さえた。
「全部になると、欄は作りやすくなります」
ペン先が、一度だけ止まる。
「でも、欄に入るのは、人です」
その言葉は、トオルの胸に残った。
全部になる前に、線を引く。
夜、白い水差し亭の奥の部屋に、三つのものが並べられた。
黒い牙の印が入った布切れ。
金色の太陽の小さな札。
こぼれ市の通行札。
クロードは外套の内側から、帳簿を綴じる時に使う細い朱紐を取り出した。
トオルが一瞬、言葉を探す。
「赤い糸、ですか」
「朱紐だ」
クロードは不快そうに言った。
「帳簿を綴じるためのものだ。縁を結ぶ趣味はない」
彼はそれを、三つの品の間に置いた。
結びはしない。
ただ、置いた。
「三つは間違いなく繋がっている、だが綴じるな」
クロードが言った。
誰もすぐには返さなかった。
セラは腕を組み、三つの印を見ている。
イリスは太陽の札から目を離せない。
ユンは新しい紙を用意している。
「一つにまとめると、帳簿は見やすくなる。しかし、見やすい帳簿ほど、後で高くつくものだ」
また怒られそうなので黙っていたが、
やっぱりこの人は、時々マティアスと似たようなことを言うと、トオルは思った。
振る舞いも違う、利害も違う、思想も違う。
でも、もしかすると在り方としては近いのかもしれない。
クロードは硬い果物をかじった。
「昔からそうだ。閉じる、撤く、整理する。帳簿の上では、どれも綺麗な言葉になる」
「まだ断定するな」
セラが言った。
「断定していない。仮置きだ」
「“繋がっている”と言った時点で、半分綴じているようなものだろう」
「生憎、私が買われているのは言い方じゃなくてね」
クロードは紙束をまとめる。
トオルは、三つの印を見た。
黒い布。
金の太陽。
汚れた通行札。
どれも、人を飲み込むほど大きく見えた。
牙は、守るために噛もうとしていた。
太陽は、救うために抱えようとしていた。
通行札は、困った人の必要に応えていた。
どれも、間違ってはいなかった。
しかし、間違っていないということは、正しいことを意味しない。
あの日から何度も反芻してきたことだ。
トオルは窓の外を見た。
広場の向こうで、誰かがまだ叫んでいる。
風下の街を閉じろ。
人間を討て。
光の下へ。
夜へ戻れ。
言葉が言葉を呼び、隣から隣へその火を移していく。
魔王という言葉も、たぶんそうだ。
誰か一人に、全部を押し込めるための名前。
魔王がいれば、話は簡単だ。
あれを倒せばよい。
あれを閉じればよい。
あれを罰すればよい。
けれど、ここにあるのは、そんな顔をした誰かではなかった。
救われた者がいる。
守られた者がいる。
値段をつけられた者がいる。
そして、その全部が誰かに使われようとしている。
今、必要なのは答えではない。
どの言葉が、どこから来て、誰の手で大きくなり、誰のところへ戻れなくしているのか。
それを測ることだった。
白い水差しのそばで、三つの印が小さな影を落としていた。
月の牙。
太陽の札。
市場の通行証。
どれも、魔王の顔はしていない。
だからこそ、怖かった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この第十一話から、物語はいよいよクライマックスに向かって動き出します。
こぼれ市、夜の牙、サン、それぞれが抱える正しい痛みをトオルたちはどう測り、現実の中に置き直していくのか。そこに注目しつつ読んでいただけると嬉しいです。




