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勇者ではなく、測量士  作者: Chroe


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13/16

第十二話 白い冠の下で



白冠宮の朝は、白かった。

白い石。白い柱。白い壁。白い布。

白いものが多すぎる場所では、汚れがよく見える。

けれど、汚れがよく見える場所ほど、誰かが先に拭いてしまう。

トオルは、廊下の端でそう思った。


昨夜、白い水差し亭の奥の部屋には、三つの印が置かれていた。


黒い牙の布。

金色の太陽の札。

こぼれ市の通行札。


クロードは、その三つを綴じなかった。

ただ、朱紐を間に置いただけだった。

三つは繋がっている。

だが、綴じるな。

それが昨日の結論だった。


そして今日、トオルたちは白冠宮の記録庫へ呼ばれている。


「記録庫って、勝手に入れるんですか」


トオルが聞くと、セラは前を見たまま答えた。


「勝手には入れない」

「じゃあ、今日は?」

「勝手ではない形にした」

「誰が」

「監査院の帳尻男だ」


嫌な予感しかしなかった。


白冠宮の奥にある記録庫は、特別広くはなかった。

ただ、天井が高い。

壁一面に棚があり、革紐で綴じられた帳簿、古い箱、封蝋のついた巻物が並んでいる。

湿気の匂い。古い紙の匂い。乾いた革の匂い。

人の声より、紙の沈黙の方が大きい場所だった。


クロードは、すでに奥の机にいた。

灰色の長衣。片手に古い帳簿。

もう片方の手には、今日も硬そうな果物。


「遅い」

「呼ばれた時間より早い筈だが」


セラが言う。


「記録は、来る者を待たない」

「記録庫の主みたいな顔をするな」

「主ではない。嫌われている客だ」


クロードは平然と言った。


その後ろで、記録係らしい老人が明らかに嫌そうな顔をしている。


「本当に嫌われてますね」


トオルが言うと、クロードは果物をかじった。


「好かれることは監査院の業務に入っていない」


机の上には、数冊の帳簿が開かれていた。

古い王令。通行権の記録。東門周辺の土地台帳。

戦傷者施療院の記載。風下の街に関する記録。


クロードは一冊を指で叩いた。


「風下の街には、先王期の特例がある」

「特例?」

「通行権、薬草採取権、一部自治権、夜間避難路の使用許可。現行帳簿では、そういう扱いだ」


セラの目が細くなる。


「知っていたのか」

「記録上はな」


クロードは、古い紙の一箇所を指した。


「だが、理由欄がない」


トオルは覗き込んだ。


そこには確かに、風下の街に関する権利が並んでいる。

けれど、その前にあるはずの由来が空いていた。

削れたわけではない。

はじめから空欄であるかのように、きれいに余白が残っている。


「空白ですね」

「空白とは、たいてい誰かが作るものだ」


クロードは別の帳簿をめくった。


「こちらには、アルベリク王期の褒賞記録がある。東門外縁部の土地付与、周縁義勇隊への恩賞、戦傷者施療院への予算」

「周縁義勇隊」

「獣人たちのことだ」


記録係の老人が咳払いした。


「正確には、風下東征義勇隊」


「ほらな」


クロードが言った。


「正確な名前は残っている。だが、なぜ残されたかが抜けている」


その時、扉の方で足音がした。

振り返ると、レティシア王女が立っていた。

薄い青の衣。手には扇。後ろには侍女が一人。

王宮の奥にもかかわらず、彼女は驚くほど自然に記録庫へ入ってきた。


「ここは、息苦しいわね」


レティシアは棚を見上げて言った。


「紙が多いからですか」


トオルが聞くと、彼女は首を振った。


「紙が多いのに、足りないから」


クロードが小さく笑った。


「殿下は記録係に嫌われる才能をお持ちのようだ」

「あなたほどではなくてよ」

「お褒めに与り光栄です」

「褒めていないわ」

「存じております」


セラが短く言う。


「殿下、なぜこちらへ」

「父上に聞いたの」


レティシアは開かれた帳簿を見る。


「風下の街は、なぜ今の場所にあるのか、と」

「陛下は何と」

「古い事情がある、と」

「それだけですか」

「それだけ」


レティシアの声には、怒りより諦めがあった。


「父上は、嘘はおっしゃらない。けれど、足りないことはよくおっしゃる」


トオルは、王宮で開かれた夜会のことを思い出した。


優しい子だ。


王は、レティシアの言葉を否定しなかった。

ただ、政治の話として受け取らなかった。

おそらく、この件も同じなのだ。

否定しない。

だが、引き受けない。


クロードは机の上に細い紙片を置いた。


「アルベリク王の最後の年、風下の街に関する再確認勅書が出ている」

「再確認?」


レティシアが扇を閉じる。


「風下の街の土地、通行権、薬草採取権、一部自治権を、王国が改めて認める内容です。さらに、戦傷者と帰還不能者のための施療院予算も含まれている」


クロードは紙片を指で押さえた。


「だが、正式登録されていない」


記録庫が、少しだけ冷えた気がした。


「なぜ」


レティシアが聞く。


「知らん」


クロードは即答した。


「知らんから、今こうして掘っている」

「ここにはないの?」

「ここには、結果だけがある」


クロードは理由欄の空白を指で叩いた。


「権利はある。特例もある。予算の痕跡もある。だが、なぜそれが必要だったのかがない」

「理由がない約束は」


レティシアが低く言った。


「優遇に見える」

「その通りです」


クロードは珍しく皮肉を言わなかった。

だから、その言葉は重くなった。


セラは、しばらく黙っていた。

それから、記録庫の出口を見た。


「風下へ行く」

「今から?」


トオルが聞く。


「帳簿だけでは足りない」


セラは言った。


「紙の外に残っているものを見る」


風下の街の入口には、古い石碑があった。

トオルは何度も通っていたはずなのに、意識して見たことがなかった。

石碑は低い。

背の高い草に半分隠れ、煤と雨染みで黒ずんでいる。

人間側から来ると、壁の影に紛れてしまう。

風下の街側から見ると、ちょうど路地の入口に立っている。


リナが、石碑の前にいた。

いつからいたのかわからない。


「やっと見たのか」


彼女は言った。

セラは石碑の前に膝をつく。


クロードも嫌そうな顔をしながら、石の文字を覗き込んだ。

文字は古い。

けれど、一部は読めた。


風下東征義勇隊。

東領奪還戦功。

白冠王アルベリク。

東風下居住地、ならびに通行、採草、夜間避難の権を認む。


ところどころ削れている。

特に最後の方は、誰かが刃物で傷をつけたように読みにくくなっていた。


「これは」


トオルが言うと、リナが石碑に手を置いた。


「人間は、ここを獣人区と呼ぶ」


彼女は低く言った。


「でも、この石にそうは書いてない」

「東風下居住地」


トオルは石の文字を読んだ。


「昔の名前?」

「今でも、こっちではそう呼ぶ年寄りがいる」


リナの指が、削れた文字をなぞる。


「戦で焼けた東の土地から、風と煙が流れてくる場所だった。だから風下。嫌な名前だけど、自分たちで選んだ名前だって、ばあさんたちは言ってた」

「この土地は」


「貰ったんじゃない」


背後から、低い声がした。


バルクだった。

その後ろに、年老いた獣人の男が一人。


杖をついている。

片脚を引きずっている。

片目は白く濁っている。


それでも、その立ち方には、倒れた者の弱さではなく、倒れても残った者の重さがあった。

リナが小さく姿勢を正した。


「ハウゼン」


ノクスを拾った男。夜の牙の先代頭領。

そして、おそらく、この石碑の時代を知る者。

トオルは、言葉を失った。


ハウゼンは石碑の前に立った。

彼の手は、長く、骨ばっている。

爪は欠けている。

手首には、古い革紐が巻かれていた。

そこに、小さな白い布が結ばれている。

同じ白でも、王宮の白には似ても似つかない。

戦場で一度血を吸ったあとに洗われたような白だった。


「アルベリクは、土地をくれたんじゃない」


ハウゼンは言った。


「返したんだ」


誰も動かなかった。


「この地は、誰かが善意で分けてくれた土地ではない」


ハウゼンは石碑に手を置く。


「帰る場所を失った者たちが、血と煙の中から戻ってきた場所だ。アルベリクは、それを見た」

「見た」


トオルは、思わず繰り返す。


「見た。数えた。なかったことにしなかった」


ハウゼンの声は、乾いていた。


「人間としてではない。獣人としてでもない。王国を守った者として数えた」


リナの耳がわずかに伏せる。


「だから、この土地を認めた。通行も、薬草も、夜の避難路も。お前たちはここにいていい、と奴は言った」


「だが、王が替わった」


バルクが言った。


「戦を知らない人間が増えた」


リナが続ける。


「知らないのは仕方ない。でも、忘れたまま値をつけられるのは違う」


クロードが石碑の傷を見ていた。


「削られているな」

「何度もな」


バルクは答えた。


「子どもがやったこともある。酔った兵がやったこともある。役人が、読みにくいから移せと言ったこともある」

「移さなかったのか」

「これは、ここにあるから意味がある」


ハウゼンは杖で地面を叩いた。


「ここで、アルベリクは俺たちの手を取った」


トオルは、その光景を想像した。


そこに生きた者たちを、なかったことにしなかった王。

血と煙の中から戻った獣人たち。

土地を与えるのではなく、王国の中に場所を刻む儀式。


そして、その意味が、世代を越えて薄れていく。


「人間には歴史でも」


リナが言った。


「こっちには、まだ昨日なんだよ」


その言葉で、トオルは初めて思い至った。

獣人は、人間より長く生きる。

人間の三代前が、彼らにとっては親の世代。

あるいは、自分自身の記憶。

人間側が「古い話」として棚にしまったものを、風下の街はまだ身体で持っている。

だから、怒りが古びない。

古びない怒りは、危うい。

けれど、それを古いものとして処理する側も、同じ危うさを孕んでいる。


「ノクスは、この話を」


トオルが聞くと、ハウゼンは顔を伏せた。


「聞いた」

「どう受け取りましたか」

「俺は、間違えた」


ハウゼンの声は、深く沈んでいた。


「この土地は、血で買った約束だ。そう教えた。人間は忘れる。忘れた相手には牙を見せろ。そうも教えた」


杖を握る手が、わずかに震える。


「だが、俺が本当に渡すべきだったのは、牙じゃなかった」


トオルは何も言わなかった。


「約束の方を渡すべきだった」


東から吹く風で、石碑の上の煤が少しだけ舞った。


ハウゼンはセラを見た。


「人間の副官」

「何だ」

「お前は、この石を読んだか」

「今日、読んだ」

「では、覚えろ」

「記録には残しておく」

「違う」


ハウゼンの声が強くなる。


「覚えろ」


セラは黙った。

それから、小さく頷いた。


「覚える」


トオルは、その一言を聞いていた。

紙に残すことと、覚えることは違う。

ユンなら、どう言うだろう。

忘れても、なくならない。

それを可能にするのが紙だ。

でも、紙に置いたものを誰も読まなければ、忘れたのと同じになる。


だから、覚える。


その時、リナが小さく舌打ちした。


「次は、あそこへ行くんだろ」


彼女は東門の外れを見た。

人間区へ戻る道と、風下の街へ入る道が分かれる場所。

そのあたりに、白い壁の建物が見えた。

太陽の印が、小さく光っている。


「リナ」


バルクが低く言う。


「行かなくてもいい」

「行く」


リナの声は短かった。


「私が行かないと、また勝手に話を作られる」


トオルは、その横顔を見た。

怒っている。

けれど、それだけではない。

行きたくない場所へ、自分の足で向かおうとしている顔だった。


東門の外れには、古い建物があった。

そしてそこは、今はサンの宿舎になっている。


壁は白く塗られ、窓には薄い布がかかっている。

入口には、金色の太陽の印。

けれど、建物の土台は古い石だった。

白く塗られた壁の下に、黒い焼け跡が残っている。


「ここは」


トオルが言うと、セラが答えた。


「旧戦傷者施療院だ」

「もとは王国軍の戦傷者を収容する施設だった。先王様の時代に、戦で傷ついた民、帰る場所を失った者、家族に戻れない者まで受け入れる場所へ広げられた」

「風下の街の中ではないんですね」

「境目だ」


セラは建物の裏手を見る。


「王都から見れば外れ。風下の街から見れば入口。どちらにも戻れない者が身を寄せるには、都合のいい場所だった」


リナは答えなかった。

ただ、建物の入口を見ていた。


そこから、一人の獣人の女が出てきた。

狼に似た耳。細い肩。薄い白の衣。

胸には、金色の太陽の印がある。


リナの手が、腰紐の黒札にかかった。


「母さん」


声は小さかった。

女は、リナを見た。

表情が少しだけ崩れる。

けれど、すぐに柔らかい笑みへ戻った。


「リナ」


その声は、よく似ていた。

リナの鋭い声を、何度も洗って、角を落としたような声だった。


「来てくれたのね」

「来たくて来たんじゃない」

「そう」


女はうなずいた。


「それでも、来てくれた」


リナの耳が伏せる。


「そういう言い方、やめて」


トオルは、息を止めた。

リナは人間が嫌いだ。

そう思っていた。

けれど、それだけではなかった。

人間の制度に傷つけられ、人間の言葉に場所を奪われ、人間の光に母を連れていかれた。

それが、リナの嫌悪の底にはある。


建物の中へ入ると、薬草と古い布の匂いがした。

白い衣の者たちが、静かに働いている。

祈る者。包帯を畳む者。水を運ぶ者。眠る者のそばに座る者。


倉庫前で見た小さな救済が、ここにもあった。


セフィアは、奥の部屋にいた。

窓辺に立っている。

光を受けても、年齢がよくわからない。

壁には古い絵が掛けられていた。

絵の中にセフィアがいる。

今と、ほとんど同じ顔で。

トオルが思わず絵と本人を見比べる。


セフィアは微笑んだ。


「不思議ですか」

「少し」

「白陽の秘儀を受けています」


セラが短く補足した。


「受けたものの老いを止めると噂されているサンの禁術だ」

「眉唾な話だが、戦傷者施療院は三十年以上前の施設。そしてサン成立の経緯を考えると全ての辻褄が合う」


「長く見続けるために、必要でした」


セフィアは静かに言った。


その言葉に、トオルは少しだけ寒くなった。

長く見る。長く救う。長く、忘れられない。

それは祝福なのか、呪いなのか。


「来ると思っていました」


セフィアは言った。


「呼ばれてはいない」


セラが返す。


「それでも、人は必要な場所へ来るものです」

「必要かどうかは、こちらで決める」

「ええ。そういうところが、あなたらしい」


セラの眉が少し動いた。


トオルは、セフィアを見た。

昨日よりも、彼女は遠く見えた。

近くにいるのに、遠い。


「ここは、施療院だったんですね」

「ええ」


セフィアは窓の外を見た。


「戦が終わったあと、人々は帰るべき場所へ戻されました」


戻されました。


その言い方が、少し引っかかった。


「家へ。村へ。職へ。家名へ。役割へ。王国民としての場所へ」


セフィアは静かに続けた。


「それが救いだと、誰もが思っていました」

「違ったんですか」


トオルが聞く。


「違う人もいました」


セフィアは振り返った。


「家が過去の傷を呼び起こす場所でしかなかった人。村に戻れば、戦で壊れた心を弱さとして責められる人。役割に戻れば、また笑うことを求められる人。泣くことすら許されず、前へ進めと言われる人」


トオルは、老女の言葉を思い出した。


誰もが私の涙を止めて、前に進ませようとした。


「私は、最初は戻していました」


セフィアは言った。


「戻る場所があるのは、よいことだと思っていたのです」


声は穏やかだった。

けれど、奥に沈んだものがある。


「でも、戻った人が、二度と朝を迎えなかった」


部屋が静かになった。

セラも何も言わない。


「戻った先で壊れた人がいました。戻れなかったことを責められた人がいました。戻ったふりをして、夜だけここへ泣きに来る人がいました」


セフィアは、あの時の老女と同じように、自分の胸元の太陽の印を指で慈しむように撫でた。


「だから私は、戻らなくていい場所を作ろうと思ったのです」


それは、正しかった。

少なくとも、その瞬間の彼女は正しい。

トオルはそう思った。


「獣人も、ここへ?」


トオルが聞いた。

セフィアはうなずいた。


「ええ。戦で傷ついたのは、人間だけではありません」


彼女の視線が、リナの母へ向く。


「風下の街の方々も、多く傷つきました。長く夜に置かれ、牙を握らなければ生きられなかった方々です」


リナの耳が、鋭く立った。


「夜じゃない」


声は小さかった。

けれど、部屋の空気が変わった。

セフィアはリナを見る。


「リナ」

「夜じゃない。うちだ」


リナは母を見た。


「牙じゃない。手だ。あんたが私の頭を撫でた手も、あんたに苦草で護符を結んでもらった私の手も、同じ手だ」


リナの母は、何も言わなかった。

ただ、胸の太陽の印に指を添える。

セフィアは悲しそうに微笑む。


「あなたのお母様は、ここでようやく眠れたのです」

「眠れたんだろうね」


リナは言った。


「私の隣じゃなくて」


その言葉は、刃物ではなかった。

けれど、部屋の中にいた誰もが動けなくなった。


リナの母が、初めて顔を歪めた。


「あなたを捨てたかったわけじゃない」

「知ってる」

「私は、あそこでは息ができなかった」

「知ってる」

「夜の中で強くあろうとすると、私はあなたを怖がらせる母になってしまった」

「知ってる!」


リナの声が割れた。

バルクが一歩動きかけ、止まる。

セラも動かない。

ここは、止める場ではない。


リナは息を荒くしていた。


「知ってるから、嫌なんだよ」


母は、目を伏せた。


「ごめんなさい」

「謝らないで」


リナはすぐに言った。


「謝られると、私が許さなきゃいけなくなる」


その言葉に、トオルは胸を掴まれたような気がした。

謝罪もまた、相手の場所を奪うことがある。

セフィアは静かに言った。


「私は、獣人の方々を憎んでいません」

「知ってる」


リナはセフィアを見た。


「だから余計に胸糞悪いんだ」


セフィアの目が、わずかに揺れた。


「あなたは、私たちを傷ついた人として見る。夜に置かれた人として見る。牙を握らされた人として見る」


リナの指が黒札に触れる。


「でも、そこは私たちの場所だった。牙は、誰かに握らされたものだけじゃない。生きてきた形なんだよ」


セフィアは、すぐには答えなかった。

リナは続ける。


「休めって言われて、母さんは戻ってこなくなった」


母が一歩前へ出ようとする。

リナは首を振った。


「今は、近づかないで」


それは拒絶ではなかった。

少なくとも、トオルにはそう見えた。

壁を壊さず、壁越しに知らせるための言葉。


黒札と同じものだった。


リナの母は、足を止めた。


「わかった」


短い答えだった。


それだけで、リナの肩が少しだけ下がった。


バルクが低く言う。


「セフィア」


呼び捨てだった。


「逃がしたことを責める気はない。休ませたこともだ」


セフィアはバルクを見る。


「だが、光の側からこちらを夜と呼ぶな」


セフィアは黙った。

長い沈黙だった。

やがて、彼女は静かに頭を下げた。


「私は、そう呼んでいたのですね」

「呼んでいた」


バルクは答えた。


「声にしなくても、ずっとな」


トオルは、セフィアの横顔を見た。

彼女は獣人を憎んでいない。

むしろ、傷を見ている。

ただ、見た傷に、彼女の言葉で衣をかけてしまう。

それは優しさだった。

だけど、その優しさは人が自分で立ち上がる力までも奪ってしまっていた。


「ここは、戻らなくていい場所ですか」


トオルが聞いた。

セフィアはゆっくりと彼を見る。


「そうありたいと思っています」

「戻れなくなる場所ではなく?」


セフィアは答えなかった。

リナの母も、バルクも、リナも、セラも、誰もすぐには言わなかった。

問いだけが、白い部屋の中に残る。


「私は」


セフィアが、ようやく言った。


「戻れなかった人々を、何度も見ました」

「はい」

「だから、戻らなくていいと言いました」

「はい」

「でも、戻るかどうかを、その人自身が決める場所を、私はどれだけ残せていたのでしょう」


それは、答えではなかった。

けれど、初めてサンの中に置かれた問いだった。


トオルは、黙っていた。


その問いを自分の答えにしてはいけないと思った。

部屋の入口から、若い信徒が声をかけた。


昨日、ノクスに短剣を向けられた青年だった。

顔色はまだ悪い。

首元に、小さく赤い痕が残っている。


「セフィア様」


彼はリナたちを見て、少し身を固くした。

それから、セフィアを見る。


「私は、間違えましたか」


声が震えている。


「私は、あの人を救いたかっただけです」


セフィアは、青年へ歩み寄った。

手を伸ばす。

だが、触れる前に止めた。


「あなたは、傷つけました」


青年の顔が歪む。


「でも」

「救いたかったという思いは、消えません」


セフィアは言った。


「けれど、救いたかったからといって、相手の生きた場所を奪ってよいことにはなりません」


トオルは、息を止めた。

それは、セフィア自身にも向けられた言葉のように聞こえた。

青年は泣きそうな顔で頷いた。


「はい」

「今日は休みなさい」

「はい」


青年は下がった。

セフィアは、しばらくその背を見ていた。


「私も、同じ間違いをします」


彼女は言った。


セラが静かに返す。


「知っている」

「厳しいですね」

「職務だ」


セフィアは少し笑った。


「あなたは、人を光の中へ入れようとはしない」

「私は、通れる幅を見るだけだ」

「だから、トオルさんはあなたの隣にいるのですね」

「それを決めるのは、私ではない」


セラは即答した。


トオルは少しだけ苦笑した。

その言い方は冷たい。

でも、今は少しだけありがたかった。


旧施療院を出る頃には、夕方だった。

白い壁に、夕日があたっている。

白は赤く染まる。

けれど、夜になるとまた白く見えるのだろう。

トオルは、白冠宮の名を思い出した。


血のついた冠を、白い布で包んだ宮。

弔いの白。隠す白。忘れる白。

白にも、いろいろある。


夜、トオルたちは再び白冠宮へ戻った。


記録庫には、マティアスがいた。

いつものように焼き菓子を持っている。

ただし、今日は食べていなかった。

机の上には、クロードが見つけた未登録の勅書の写しが置かれている。


レティシアもいた。


扇を閉じたまま、紙を見つめている。


「父上は、この紙を見ていないのね」


彼女が言った。


「おそらく」


クロードが答える。


「見ていないことと、責任がないことは別です」


レティシアは小さく息を吸った。


「わかっているわ」


マティアスは冷めた茶に手を伸ばした。


「陛下は、争いを嫌う」

「平和を望むことは、悪いことではありません」


トオルが言う。


「悪くはない」


マティアスは答えた。


「だが、平和を望むことは、争いを避けることとは違う」


その言葉は、白い壁に静かに落ちた。


「アルベリク様は、血を見た王だった」


マティアスは続けた。


「だから、血を流した者を数えた。獣人も、人間も、兵も、帰れなかった者も」

「今の王は」


レティシアが言う。


「流れた血を、見ないようにしている」


マティアスは、少しだけ目を伏せた。


「そうとも言える」


クロードが未登録の写しを指で叩いた。


「この紙は、王国が継ぐべきだった約束だ。風下の街の権利。旧施療院の予算。帰還不能者の保護」

「それが消えた」

「登録されなかった」


クロードは言い直した。


「消した者がいるのか、登録しなかった者がいるのか、登録されないようにした者がいるのか。そこはまだ違う」

「保守派、ですか?」


トオルが聞く。


クロードは鼻で笑った。


「測量士の言葉にしては随分雑な分類だな」

「すみません」

「謝る必要はない。実際、雑に消費されている名だ」


クロードは紙束を閉じた。


「白冠王の褒賞を過剰な譲歩だと見た者はいた。風下の街の自治を税の穴だと見た者もいた。施療院を金食い虫だと見た者もいた」

「では、全員が悪だと?」


レティシアが聞いた。


「いいえ」


マティアスが答えた。


「人間の兵の遺族にも、不満はあった。自分たちの家には何も戻らず、獣人たちには土地が与えられたように見えた者もいる。財務は財務で、戦後の金が足りなかった。兵站も壊れていた。誰も余裕などなかった」

「でも」


セラが言う。


「余裕がなかったことと、約束を曖昧にしていいことは別だ」

「そうだ」


マティアスは頷いた。


レティシアは、写しの紙に触れた。

その手が、少し震えている。


「これは、裁かれるべきものね」


誰もすぐには答えなかった。

裁く。

その言葉は、王宮では重い。


「誰を?」


クロードが聞いた。


レティシアは顔を上げる。


「まだ、わからない」

「良い答えです」

「褒めているの?」

「珍しく」


レティシアは少しだけ苦笑した。


トオルは、未登録の勅書を見た。

紙は薄い。古い。少し端が欠けている。

けれど、そこにはたしかに約束が残っていた。


消えた紙。削れた石碑。

境界に建つ白い施療院。

老いを止めたようなセフィア。

長く生きる獣人たち。

短く忘れる人間たち。

光の下で眠れた母。

その隣で眠れなかった娘。


同じ王国の下で、時間の流れ方が違っていた。


人間にとっては歴史。

獣人にとっては昨日。

セフィアにとっては、未だ明けない夜。

リナにとっては、まだ帰ってこない母。


トオルは、ようやく少しだけわかった気がした。


三つの印は、それぞれが現在の火だった。

けれど、その燃えやすさは、昨日や今日のものではない。

白い冠の下で、長い間乾いていたものに、火がついただけだった。


レティシアが言った。


「父上に、この紙を見せます」


マティアスはすぐに言わなかった。

セラも。

クロードだけが、果物をかじる。


「見せるだけでは足りない」


彼は言った。


「でしょうね」

「誰がその場にいるかを決めるべきです。王女一人で持っていけば、また慈悲にされる」


レティシアの眉が動く。


「わかっているわ」

「ならいい」


クロードは紙束をまとめた。


「それに、まだ足りない」

「何が」


セラが聞く。


「理由欄の空白は見えた。石碑も見た。施療院も見た」

「だが、なぜ空白になったのかは、まだ見ていない」


記録係の老人が、露骨に嫌な顔をした。


「今日はもう遅い。明日にしろ」


セラが言った。


クロードが少しだけ不満そうに目を細める。


「記録は待たない」

「人間は寝る」

「獣人も寝るわ」


レティシアが言った。


「王女も寝る。監査官は知らないけれど」

「監査官も寝ますよ」


トオルが言うと、クロードは果物をかじった。


「必要ならな」

「今がその必要な時です」


レティシアは、未登録の勅書の写しを見る。


「明日、続きを見るのね」

「はい」


クロードは短く答えた。


「記録庫には、奥がある」


トオルは棚の向こうを見た。


そこには、まだ扉があった。


白冠宮の記録庫の奥。

誰が読んでも同じ場所へ辿り着けるように整えられた棚の、そのさらに向こう。


クロードは鍵束を懐にしまった。


「次に見るのは、綴じられなかった記録だ」


その夜、白冠宮の外へ出ると、空は暗かった。

王宮の白い壁だけが、月の光を受けて浮かんでいる。


トオルは立ち止まった。


「セラさん」

「何だ」

「王国そのものを測ることになるんですか」


セラはすぐには答えなかった。

門の方を見る。警備兵の立ち位置を見る。階段の影を見る。

それから、短く言った。


「測らずに済むなら、その方がいい」

「はい」

「だが、もう紙は出てきてしまった」


セラは歩き出す。


「出てきた紙は、誰かが読む必要がある」


トオルは、その背中を追った。

今度は、追いかけるためではなく、同じ道を通るために。


白い冠の下で、消えたはずの約束が、まだかすかに息をしていた。






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