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勇者ではなく、測量士  作者: Chroe


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14/16

幕間 灰家の記録



翌朝、白冠宮の記録庫の前に集まったのは、トオルとセラ、そしてクロードの三人だけだった。


白い廊下は、まだ朝の冷たさを残している。

遠くで侍女の足音がし、さらに遠くで兵の号令が聞こえた。


昨日、ここでクロードは言った。


次に見るのは、綴じられなかった記録だ。


その言葉だけが、夜のあいだずっと、トオルの中に残っていた。


レティシアも、マティアスもいない。

トオルがそれに気づくと、セラが先に答えた。


「殿下は来ない」

「聞く前に答えましたね」

「顔に出ていた」

「マティアスさんもですか」

「来ない」


セラは記録庫の扉を見た。


「殿下は、昨日の紙を陛下にどう見せるかを考えなければならない。見つかった紙が、そのまま王女の訴えにならないように」


クロードが、だるそうに続ける。


「焼き菓子公は、その場に誰を置くかを調整している。内務、財務、施政、警備、監査。誰が最初に読むかで、同じ紙でも意味が変わるからな」


「焼き菓子公」

「不服か?私なりに精一杯の敬意を込めたつもりだったが」


やっぱり同族嫌悪かもしれない、そう言いかけた言葉を飲み込む。


「紙にも、入口があるんですね」


トオルが言うと、クロードは少しだけ目を細めた。


「覚えが良くなってきたじゃないか」


褒めているのかどうかは、相変わらずわからない。


セラが短く言った。


「今日は、王女の場でも、執政官府の場でもない」

「では、何の場ですか」

「さしずめ現場、とでもいったところか」


トオルは、そこでようやく聞いた。


「あの」

「何だ」

「昨日、綴じられなかった記録、と言いましたよね」

「ああ、言ったな」

「綴じられなかった、というのは、どういう意味ですか。捨てられた記録とは違うんですよね」


クロードはすぐには答えなかった。

記録庫の扉を開ける。

乾いた紙の匂いが、朝の廊下へ流れ出た。


「捨てられた記録なら、まだわかりやすい」


彼は中へ入りながら言った。


「誰かが消した。誰かが隠した。誰かが燃やした。そう言えるからな」

「綴じられなかった記録は、違うんですか」

「違う」


クロードは、正面の棚の前を通り過ぎた。


これまでトオルたちが見てきた棚は、王国がすでに名前を与えた記録を補完するためのものだった。

王命。布告。戦功録。裁定書。保証状の写し。

それらは棚札を持ち、索引を持ち、誰が読んでも同じ場所へ辿り着けるように整えられていた。


「そこではないんですよね」


トオルが尋ねると、クロードは振り向かずに答えた。


「そこにあるのは全て、綴じ終わった記録だ」

「綴じ終わった」

「王国が、これはこういう話だ、と決めた紙だ」


セラが足を止める。


「では、これから見るのは」

「決めきれなかった方の紙だ」


クロードは記録庫のさらに奥へ進んだ。


「綴じれば、どちらかの言い分になる。捨てれば、なかったことになる。残せば、棚の中で邪魔になる」


彼は少しだけ息を吐いた。


「そういう紙は、人知れず奥へ行く」


正面の書架の陰に、低い扉があった。

扉というより、古い棚を区切るための格子に近い。

人ひとりが通れるほどの幅しかなく、錠前には薄く埃が積もっている。


クロードは懐から鍵束を取り出した。

鍵束には、監査院の小さな印と、内務卿の封蝋痕が残っていた。


「隠されていたわけではない」


鍵を差し込みながら、クロードは言った。


「では、なぜ誰も見なかったんですか」

「探し方を知らなければ、それは存在しないのと同じだからだ」


鍵が回った。乾いた音がした。

扉の向こうには、正面の書架よりも低い棚が並んでいた。

棚札は古く、文字の一部が擦れている。

東領関係。異議付き写し。未綴じ記録。理由欄不一致。


トオルは、その文字を目で追った。

未綴じ。

それは、捨てられた記録ではなかった。

けれど、正式な記録にもなりきれていなかった。

王国が、綴じることも、捨てることもできなかった紙たち。


記録庫には、血の匂いがなかった。

焼けた柱も、泣き声も、逃げ遅れた者の足跡もない。

あるのはただ、棚だった。棚札だった。封じられた箱だった。

同じ幅に切り揃えられた紙の束だった。


整っていた。


だからこそ、トオルには見えてしまう。

ここで、何かが壊されたのではない。

壊されたあとで、きちんと片づけられているのだと。


クロードは、最初の箱を引き出した。


「東領保全評議会関連。王宮に残った写しだ」


セラの眉が、わずかに動いた。


「東領保全評議会……」

「反乱軍ではない。少なくとも、当人たちはそう名乗っていなかった」


クロードは箱を開けた。


「保全、それが彼らの言う大義だった」


中から出てきた紙は、どれも乾いていた。

乾いて、軽くて、きれいだった。


クロードは一枚目を開く。


「東領土地整理台帳」


次の紙。


「薬草採取地保全記録」


さらに次。


「不法小屋撤去一覧」


トオルは、その文字から目を離せなかった。

不法小屋。

そこに住んでいた人の名前は、なかった。


クロードが読み上げる。


「不法小屋、撤去済み」


紙をめくる。


「無許可薬草棚、整理済み」


さらにめくる。


「一時滞在者、退去済み」


セラは黙っていた。

トオルは、ようやく口を開いた。


「これだけ読むと」


声が、自分のものではないように聞こえた。


「何かを片づけただけに見えます」

「そう書いてあるからな」


クロードは紙を置いた。


「問題は、何を片づけたことになっているかだ」


彼は別の箱を引き寄せた。

その箱には、王宮の整った封ではなく、古い布紐が巻かれていた。

紙の大きさも揃っていない。

墨の濃さも違う。

手跡もまちまちだった。


「風下側の聴取記録だ。正式証言として採用されなかったものも混じっている」

「採用されなかった?」


セラが聞いた。


「日付が曖昧。場所の呼称が王国地図と一致しない。証言者が署名できない。証言内容が台帳と食い違う」


クロードは、一枚を抜き出した。


「理由はいくらでも作れる」


トオルは、その紙を見た。

文字は歪んでいた。

誰かが聞き取り、別の誰かが書いたものらしかった。


夜半、火。

家三つ。薬棚二つ。焼失。

老女一名、煙を吸い倒れる。

子ども二名、灰を布に包み持ち出す。


クロードは、さきほどの台帳を隣に置いた。

不法小屋、撤去済み。

二枚の紙は、同じ日付を持っていた。


「同じ日ですか」


トオルが言った。


「同じ日だ」

「同じ場所ですか」

「同じ場所だ」


クロードは、二枚の間に指を置いた。


「焼かれた家が、ここでは撤去済みになっている」


その言葉は、記録庫の奥で、妙に静かに響いた。

セラは何も言わなかった。

灯りの火が小さく揺れた。


トオルの目の奥に、短い景色が立ち上がる。

火は、屋根の端から入った。

乾いた草が、ぱち、と鳴った。

薬草棚に火が移る。

束ねられた葉が黒く縮む。

誰かが水を探す。

誰かが子どもを抱える。

誰かが、もう戻れないと知って、家の柱に手を置く。

青年だったハウゼンは、焦げた戸板を引きずり出した。

熱くて、掌の皮が剥けた。

それでも離さなかった。


家だった。


燃えたあとでも、それは家だった。


同じ朝、別の場所で、一人の書記が羽根ペンを置く。

不法小屋、撤去済み。

インクは、まだ濡れていた。


トオルは息を吸った。

記録庫の空気は冷たかった。

火の匂いなど、どこにもなかった。


「家を焼いたのは兵だ」


セラがぽつりと言った。

クロードが顔を上げる。


セラは、紙を見ていた。


「でも、家じゃなかったことにしたのは、紙だ」


クロードは少しだけ目を伏せた。


「そうだ」


彼は、別の束を取り出した。


「そしてこれは東旧領奪回戦の戦功録だ」


王国の正史に残された戦功録は、立派だった。

白冠軍の進軍。東領の奪還。薬草倉庫の回復。王国旗の再掲揚。

先王アルベリクの名。

そこには、王国が取り戻した土地の名前が整然と並んでいた。

だが、風下の街の者たちの記録は小さかった。


風下東征義勇隊、案内協力。搬送補助。薬草地確認。


「補助」


トオルは呟いた。

クロードは何も言わず、さらに薄い付属記録を開いた。

紙の端は虫に食われていた。

文字はところどころ欠けている。

それでも、いくつかの名は読めた。


ハウゼン。灰家衆。夜明け前の渡り。東峠背面誘導。負傷兵搬送。薬草路確保。


セラが紙に近づいた。


「灰家衆……」

「風下の口承では、そう呼ばれているらしい」


クロードは言った。


「家を焼かれた者たちだ」

「王のために戦ったのか」


セラが聞く。


クロードは首を横に振った。


「最初から王のためだったかはわからない。だが、少なくとも、彼ら自身の記録では違う」

「何のために」

「帰るためだ」


沈黙が落ちた。


帰るため。

それは、王国の戦功録には書きにくい言葉だった。


クロードは付属記録を読み上げる。


「夜明け前、灰家衆、風下谷旧路を通り、白冠軍一隊を東峠背後へ導く。同時刻、負傷兵十二名、薬草二籠を西路へ搬送。道標なし。風向きと岩湿りをもって進路を定む」


トオルは、紙の上の言葉を目で追った。


「これ、補助じゃないです」

「補助ではないな」


クロードは言った。


「王国軍が歩けなかった道を、彼らが歩いた。王国軍が見えなかった夜を、彼らが読んだ。王国軍が戻せなかった兵を、彼らが運んだ」


セラは、戦功録と付属記録を見比べた。


「なら、旧領奪回戦は」


トオルは言いかけて、止まった。

クロードが続きを言った。


「王国だけの勝利ではない」


また、短い景色が立ち上がる。

夜明け前だった。

空はまだ青くならず、足元の草だけが湿っている。

ハウゼンは片手を上げ、白冠軍の兵たちを止めた。

誰も声を出さなかった。

人間の兵には、道が見えなかった。

だが、風下の者たちには見えていた。

倒れた草。鳥の沈黙。湿った岩。風の匂い。


「こっちだ」


若いハウゼンは、声ではなく手で示した。

その背で、誰かが負傷兵を担いでいた。

別の誰かが、薬草の籠を抱えていた。

灰を入れた小さな袋を首から下げた者もいた。


家は燃えた。

だが道はまだ燃えていない。


その合図で、彼らは夜を渡った。


トオルは、目を閉じた。

見えた気がした。

いや、見えてはいけないのかもしれない。

これは自分の記憶ではない。

誰かの痛みを、自分の物語にしてはいけない。


だから、トオルは目を開けた。

紙を見る。

紙の上に残ったものだけを見る。


クロードは、次の箱を開いた。

そこには、古い封蝋が残っていた。


白冠の印。


その横に、見慣れない刻印が押されている。


「風下谷保証状」


セラが言った。


「原本ではない。だが、原本に近い写しだ」


クロードは慎重に紙を開いた。

そこには、条項だけではなく、理由が書かれていた。


旧領奪回戦における灰家衆の案内、搬送、薬草路確保の功により。

風下谷および周辺採取地への居住、利用、通行の権利を、王国は保証する。

夜間搬送路は、傷病者搬送および薬草運搬のため、王国による一方的封鎖を禁ずる。

争いある時は、王国側と風下側、双方の確認者を置く。

施療補助および灯火中継所への支援を認める。


「灯火中継所……」


トオルがその言葉を拾った。


クロードは別の小さな記録を取り出した。


「街の灯の前身だ」


セラが顔を上げた。


「街の灯が?」

「今のように依頼や審査や記録を扱う組合ではない。最初は、帰還路と夜間搬送路の中継点から始まった」

「そういえば、ロイドさんがそのようなことを言っていた気がします」


クロードは、古い名簿を開いた。

灯番名簿。灰家帰還者受入帳。薬草仮置き所一覧。王都側協力宿控え。夜間搬送中継所支給記録。


トオルは、その文字を見つめた。

街の灯。

それは、最初から立派な組織だったわけではない。

夜を越すために、道の途中へ置かれた小さな、ただの灯りだった。


焼けた家へ、すぐには戻れない者がいた。

薬草を持って王都へ向かう途中で、夜を越さなければならない者がいた。

傷を負った兵を、朝まで寝かせる場所が必要だった。

名前を確認できない子どもを、まず濡らさずに置く場所が必要だった。

王都へ帰るにも、風下へ戻るにも、まだ一晩だけ足りない者がいた。

そういう人たちのために、道の途中へ灯りが置かれた。

水がある。火がある。寝かせる床がある。薬草を一晩置ける棚がある。


王国側と風下側、双方の確認者が顔を合わせられる場所がある。


「あの灯りが見えたら」


セラが言った。


「今夜は越せる」

「そういうものだったらしい」


トオルは、記録の端に残った古い文を読んだ。


灯を借りた者は、返済の義務を負わず。

ただし、次に灯を必要とする者を拒まぬこと。


胸の奥に、何かが触れた。

困った人が、次に困る人のために灯りを残す。

返済ではない。恩の鎖でもない。

ただ、自分が越えた夜に、次の誰かが迷わないように、小さく灯りを置く。


「サンとは違う」


トオルは言った。

言ってから、自分の声に驚いた。

セラがこちらを見た。

トオルは言葉を探す。


「サンは、ここにいていい、と言う場所でした。でも、街の灯は……」

「通るため、明日向かう方向を決めるための場所だ」


セラが引き取った。


「そのはずだった。とはいえ、善意は費用欄に載らなければ続かない。実際、街の灯も何度も潰れかけている」


クロードは、灯番名簿を閉じた。


ヘンリックなら、きっと費用を問うだろう。

ハインなら、灯番の配置を問うだろう。


トオルには、その問いが以前よりも少しだけ違って見えた。

冷たい問いではない。

灯りを灯りとして残すための問いでもある。


クロードは、灯番名簿の下から、もう一つ薄い束を引き出した。

他の紙束とは違い、白い布紐で結ばれている。

布紐の端には、金色の小さな太陽印が押されていた。


「これは何ですか」


トオルが聞くと、クロードは紙束を机の上に置いた。


「サンの、古い救済名簿と配給帳簿だ」


セラの目が細くなる。


「なぜ、ここにある」


「旧戦傷者施療院の引継ぎ記録に付いていた。あそこは元々、王国の施療補助を受けていた場所だ。完全な官の施設でもなく、完全な民の施設でもない。そういうものは、扱いに困る」


クロードは布紐を解いた。


「捨てれば、王国が救済を放棄したことになる。綴じれば、王国がサンの救済と配給に責任を持ったことになる」

「だから、未綴じ」


トオルが言った。


「そうだ」


紙束の最初には、名簿があった。


家族なし。

帰還先なし。

夜間発作あり。

正規施療院受入不可。

苦草、定期必要。

配給、隔日。

祈り同席希望。

接触、要注意。


人の状態が、短い言葉折りたたまれて並んでいる。

トオルは、胸の奥が少し冷えるのを感じた。


救うための名簿だ。

たぶん、本当にそうだった。


名を書かなければ、誰が薬を必要としているのか分からない。

誰が夜に一人で倒れるのか分からない。

誰が家族の名を聞かれるだけで息が詰まるのか分からない。


書かなければ、届かない。

けれど、書けば、並ぶ。

並べば、数えられる。

数えられるならそれは、別の誰かにも使える。


「そしてこっちが配給帳簿だ」


クロードは次の紙束を開いた。


白陽救護袋。

苦根粉。

乾燥根菜。

包帯布。

小蝋燭。

眠り草、少量。

寄進者名、無名。

経路、東門外縁便。


トオルは、紙の端に押された小さな印を見た。

どこかで見た形だった。


セラが先に言った。


「こぼれ市の通行札と似ている」

「似ているだけなら、よくある」


クロードは、懐から汚れた札を取り出した。

薬草倉庫の裏で拾った、こぼれ市の通行札だった。


「だが、紐の結びが同じだ。荷の重さの書き方も同じ。日付も近い」


彼は、別の帳簿を横に並べた。


薬草倉庫の損耗記録。


苦草三束、破損。

苦草五束、湿気により廃棄。 

苦草四束、輸送中紛失。


次に、こぼれ市の控え。


苦根粉、三袋。

東門外縁便。

引取、白印。


最後に、サンの配給帳簿。


白陽救護袋、二十。

苦根粉、三袋。

配布先、旧施療院周辺および風下境界。


三枚の紙が、机の上に並んだ。


倉庫では、消えたことになっている。

こぼれ市では、名前を変えている。

サンでは、配られている。


セラは、しばらく黙っていた。


「サンが盗ませた、という証拠ではない」

「ない」


 クロードは即答した。


「マグダスが直接渡した、という証拠もない」

「それもない」


「だから、綴じるなと言っている」


クロードは三枚の紙の間に指を置いた。


「サンは受け取った。マグダスは流した。倉庫では消えたことになった。どの手が最初に伸びたかは、まだ分からない」


トオルは、サンの名簿を見た。


そこには、知っている名前はなかった。

けれど、知っている種類の痛みが並んでいた。


戻る場所がない者。

戻る場所を聞かれたくない者。

薬を必要とする者。

夜に誰かの声を必要とする者。

人に近づかれたくないのに、一人では越せない者。


「でも」


トオルは言った。


「これで助かった人もいますよね」


「いるだろうな」


クロードは答えた。


「だから面倒なんだ」


その言い方は冷たかった。

けれど、否定ではなかった。


クロードは、救済名簿の一行を指で叩いた。


「サンは、人を救うために名を書く」


次に、こぼれ市の控えを叩く。


「マグダスは、その名を需要に変える」


最後に、薬草倉庫の損耗記録を叩いた。


「王都の帳簿は、消えたことにする」


紙の音だけが、記録庫の奥に残った。


「祈りは無料に見える」


クロードは言った。


「だが、薬草も、布も、蝋燭も、根菜も、勝手には湧かない。誰かが運ぶ。誰かが隠す。誰かが名を変える。そしてそこに、誰かが値をつける」


セラは、白い布紐を見ていた。


「セフィアは知っていたと思うか」

「出所まで知っていたかは分からない」


クロードは言った。


「だが、問わないことを選んだ可能性はある」


トオルは、旧施療院でのセフィアの声を思い出した。


戻らなくていい場所。

泣いてもいい場所。 

光の中で声を聞く場所。


あれは、嘘ではなかった。


嘘ではないから、人が集まる。

人が集まるから、名簿ができる。

名簿ができるから、必要が見える。

必要が見えるから、誰かが値をつける。


「救いにも、通る道があるんですね」


トオルは言った。


クロードは、わずかに目を細めた。


「そうだ」


セラが低く続ける。


「道があるなら、そこに関所もできる」

「市場もできる」


クロードが言った。


「そして、椅子も置かれる」


トオルは、サンの救済名簿と、こぼれ市の控えを見比べた。


同じではない。

だが、同じ通路を使っている。


夜の牙は、家を焼かれた者たちが継承した怒りだった。

サンは、戻れない者たちを抱えるために居場所を作った。

そしてこぼれ市は、その二つの間を流れる必要に値をつけた。


悪を為すのに必ずしも悪意が必要とは限らない。

ここにあるのはただ、それぞれにそうならざるを得ない理由があり、結果的にそうなってしまったという必然だけ。


クロードは、白い布紐を結び直さず、そのまま机の上に置いた。


セラが、保証状の話に戻す。


「しかし、いよいよもってこれは、特例とは言えないな」

「少なくとも原本に近い写しでは、そう読める」


クロードは言った。


「では、こっちは?」


彼は、もう一枚の紙を出した。

元老院の整理写し。

そこにも条項はあった。

夜間通行。採取権。立入制限。施療補助。灯火中継所への支援。

だが、やはり理由欄がなかった。

旧領奪回戦の功。焼かれた家への帰還。薬草路の確保。傷病者搬送。

それらが、すべて消えていた。


「残っているのに」


トオルは呟いた。


「消えている」


クロードは、二つの紙を重ねた。


「約束は残った。しかし、理由が消えた」


セラが低く言う。


「理由が消えた約束は、特例に見える」

「そして、特例に見える保証は」


クロードが続けた。


「不満の燃料になる」


トオルは、紙の上に線を引きたくなった。

東領保全評議会。焼かれた家。灰家義勇軍。風下谷保証状。

理由欄の消失。夜間通行への不信。街の灯。

夜の牙。サン。こぼれ市。マグダス。


線は繋がっていく。

繋がりすぎるほどに。


「待て」


クロードが言った。

トオルの手が止まる。


「まだ綴じるな」


トオルは、ペン先を上げた。


「でも、繋がっています」

「繋がっている。だが、同じではない」


クロードは、紙の上の名を指した。


「東領保全評議会が家を焼いた。元老院が理由を薄めた。治安局は今、封鎖を考えている。マグダスが薬に値をつけ、ノクスが牙を剥き、セフィアが人を抱え込んだ」


一つずつ、指が紙を叩く。


「それぞれ別の手だ」

「はい」

「一つの悪に綴じれば、誰が何をしたかが消える」


トオルは、ペンを握り直した。


「でも、同じ椅子に座っています」


クロードは、少しだけ黙った。


「そうだ」


そして言った。


「だから椅子そのものを測る。そこに座った者を悪にするな」


この世界に、魔王はいなかった。

けれど、魔王が座れる椅子はあった。


東領保全評議会は、土地を台帳で奪った。

マグダスは、必要を帳面で囲った。


家を不法小屋にした手つきと、薬を借金に変える手つき。

採取を盗みに変えた手つきと、抜け道を商品に変える手つき。

帰還を反乱に変えた手つきと、逃げ場を負債に変える手つき。


同じではない。

だが、似ていた。


王国が理由を忘れた場所には、誰かが座る。

マグダスは、そこに座った男だった。


「この道」


セラが言った。

声が、わずかに掠れていた。

トオルは顔を上げた。

セラは、古い地図を見ていた。

風下谷から王都東側へ伸びる細い線。

途中で途切れ、古い橋の印を越え、さらに細くなって、王都外縁の倉庫跡へと繋がっている。


「知っているんですか」


トオルが聞く。


「閉じた」


セラは言った。


「私が」


沈黙が落ちた。

クロードは何も言わなかった。

トオルも、言葉を探せなかった。


セラは地図を見ていた。


「当時の記録では、密売路だった。逃亡にも使われていた。怪我人も出ていた。閉じる理由はあった」

「はい」


トオルは、それだけ言った。

セラは、古い保証状の地図に指を置いた。


「でも、これは救護路の末端だ」


誰も否定しなかった。

セラは目を伏せなかった。


「私は、知らずに閉じた」


それから、短く息を吐いた。


「だが、知らなかったことは、開けなかった理由にはならない」


トオルは、ユイの声を思い出した。





もう、私を見ないで。





見えてしまうこと。

見えたものを、自分の答えにしてしまうこと。

そして今、見えていなかったことで、人が道を失ったこと。


見えることだけが危ういのではない。

見えていないこともまた、人を閉じる。


クロードは、最後の紙束を開いた。


「明日の会議に提出されるであろう案だ」


セラが目を通す。

夜間通行制限。黒札登録。薬草採取地の王宮管理。こぼれ市摘発。

夜の牙関係者の洗い出し。獣人区の監視強化。サン救護所への一時収容要請。


どれも、間違いではなかった。

これまでの全てと同じ。

間違いではないからこそ、どうしようもなく取りこぼしてしまう。


トオルは、古い撤去記録と、明日の非常措置案を見比べた。

言葉は違う。時代も違う。

けれど、同じ手つきがあった。

閉じる。登録する。管理する。整理する。収容する。

その先に、誰がどこへ行くのかは、書かれていない。


セラが言った。


「閉じるなら、期限を設けるだけじゃ足りない」


トオルは顔を上げた。

セラは、古い地図を見ていた。


「なぜその道があったのかも、書かないといけない」


クロードは、風下谷保証状の理由欄を指で押さえた。


「なら、明日の会議にこれを議題として出す」

「誰が出すんですか」


トオルが聞いた。


「監査院が出せば、紙の話になる」


クロードは答えた。


「内務卿が読めば、形式の話になる。施政局が受ければ、手順の話になる。財務卿が見れば、費用の話になる。警備隊が持てば、現場の話になる」


トオルは、自分の手元の紙を見た。

線を引いた紙。

そこには、まだ結論を書いていなかった。


「俺が言うことじゃないんですね」

「そうだ、お前が言えば、それは預言や導きになる」


クロードは静かに言った。


「だが、王国が読むなら、それは記録として扱われる」


セラが地図を畳んだ。


「それでも、測ったのはお前だ」

「はい」

「なら、置け。握るな」


トオルは頷いた。


記録庫を出る時、灯りは一つずつ落とされた。

棚は、何も言わなかった。

紙は、ただ残っている。

残した者の手つきも、消された者の声も、同じ棚に入っている。

記録は、過去を救わない。

焼かれた家は戻らない。

灰を袋に入れた子どもの夜も、若いハウゼンの掌の火傷も、

セラが閉じた道の先で薬を待っていた家も、

紙一枚では救えない。


それでも、記録は杭になる。

もう一度、測るための杭に。


セラは古い地図を抱えていた。

クロードは、保証状の写しとサンの名簿を持っていた。

そしてトオルの手には、線を引いた紙。


けれど、その紙の一番上には、結論を書かなかった。

代わりに、空白を残した。


誰が、何を引き受けるのか。

それは明日、王国が書くべき欄だった。





ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

この幕間では、「何が起きたか」だけでなく、「それがどんな言葉で記録されたか」を扱いました。


家だったものが、紙の上では家ではなくなる。

その時、本当に失われるものは何なのか。


次話から、物語はいよいよ第一部の最終局面へ向かっていきます。

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