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勇者ではなく、測量士  作者: Chroe


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第十三話 勇者がいらなくなる国



王都ラグナには、古い鐘がある。

白冠宮の一番高い塔に吊るされ、普段は鳴らされない。

戴冠でも、祭りでも、婚礼でも使われない。

古い戦の記録では、その鐘が鳴る時、王都は一つの敵を定めることになっている。


最後に鳴ったのは、東領奪還戦の時。

およそ三十年前だ。

その鐘の音が導いた結末は、王都の人間なら誰もが知っているだろう。

奸賊の征伐、華々しい戦果。そして王国の統一。


誰が言い出したのか、民はそれを勇者の鐘と呼んでいた。


朝、その鐘楼を見上げる人が増えていた。


「鳴らせばいいんだ」


広場で男が言った。


「もう、誰が悪いか調べてる場合じゃない。勇者を呼べ。強い奴に決めさせろ」

「風下の街を閉じろ」

「夜の牙を討て」

「サンに怪我人を預けろ。あそこなら落ち着く」

「黒札を持ってる連中を全部調べろ」


言葉は、前の日よりも固くなっていた。

噂はまだ噂だった。

けれど、人の口を渡るたび、少しずつ命令の形に近づいている。


白い水差し亭の前で、ユンは新しい紙を広げていた。

必要な薬。経路。所在。噂の出所。

昨日から帰っていない人。

サンの救護所へ行った人。

風下の街へ戻れなかった人。


紙が増えている。


トオルはそれを見て、思わず言った。


「棚みたいですね」

「棚ですよ」


ユンは即答した。


「今はまだ、床に散らばっているだけなので」

「散らばっていると?」

「踏みます」


ユンは淡々とペンを置いた。


「踏んだ人は、踏んだことに気づきません。踏まれた人だけが痛いです」


広場の向こうで、人々が白冠宮の方を見ている。

誰かがまた言った。


「勇者を呼べ」


その声を聞いて、ロッカが肩をすくめた。

子どもたちは、昨日のように測量士ごっこをしていない。

カイは白い水差しの台を運び、エマは足元の石を避けるように並べ替えていた。

遊びの中で覚えたことが、本当の広場で重さを持ち始めている。


ノアが白い水差しに水を足しながら、小さく言った。


「勇者って、何をする人なんでしょうね」


トオルは答えようとして、止まった。

勇者は悪を倒す人。

魔王を斬る人。

誰かの代わりに決める人。

そのどれも、今の王都には必要そうに見える。


「たぶん」


トオルは言った。


「みんなが、自分では持てないものを代わりに持ってくれる人です」


ノアは水差しの口を布で拭いた。


「それは、楽ですね」

「はい」

「でも」


ノアは、広場の中央に固まった人々を見た。


「その人が倒れたら、全部落ちますね」


トオルは頷いた。


その時、セラが白い水差し亭の中から出てきた。

手に一枚の羊皮紙を持っている。

顔が険しい。


「白冠宮から非常措置案が出た」


広場の声が遠くなる。

セラは紙を広げた。


「風下の街の夜間封鎖。黒札所持者の登録。薬草流通の王宮管理。こぼれ市の一斉摘発。サンへの臨時救護委託。夜の牙関係者の密告奨励。王都警備隊の現場裁量拡大」


ノアの手が止まった。


「全部、必要そうに見えます」

「そうだ」


セラは紙を折った。


「だから危ない」

「止められますか」

「止めるのではない。通す形を変える」


セラは鐘楼を見た。


「閉じる命令は一行で済む。だが、開け直す手順を、誰が持つ」


トオルは羊皮紙を見る。

風下の街を閉じる。黒札を登録する。サンに預ける。夜の牙を探す。

どれも、線を引いているように見える。

だが、引いた線の外へ出る道が書かれていない。


「解除条件がない」


トオルが言うと、セラが頷いた。


「非常時の形ほど、先に解除条件を書く。解除できない命令は、命令ではなく檻だ」

「トール」


セラが言う。


「白冠宮へ行く。お前は図を持て」

「図?」

「敵の勢力図ではない」


セラは広場を見た。


「帰れなくなる道の図だ」


白冠宮の会議室は、広く、明るかった。

窓から見える王都は静かに見える。

広場の怒鳴り声も、風下の街の路地の匂いも、こぼれ市の湿った通行札も、ここまでは届かない。

だからこそ、紙の上の命令は滑らかに見えた。


長机の向こうには、財務卿ヘンリックが座っていた。

その隣に、施政局長官ハイン。

少し離れて、王都警備隊長グレン。

さらに、治安局長官ダミアンと、治安局の役人たちが並んでいる。


内務卿ヴィクトルは、長机の端に静かに座っていた。

黒い衣。

銀の細い鎖。

書類の端を押さえる指に、王宮の封蝋を扱う者の癖が残っている。

彼はまだ何も言っていない。

けれど、誰かが「王命」と口にするたび、わずかに目を動かしていた。

王命として書けるか。

前例に触れないか。

封蝋を押したあと、何が王国の言葉になるのか。


たぶん、彼はそこを見ている。


その向かいには、薬草倉庫を管理する市場の代表者と、白い衣の者たちがいた。

金色の太陽の印。

その中央に、セフィアが座っている。

昨日までと同じ穏やかな姿だった。


けれど、トオルの目には少し違って見えた。

彼女の指先が、胸元の太陽の印に触れたまま、時々止まる。

誰かが「救護」と言うたびに、彼女は頷きかける。

だが、その頷きは最後まで降りない。

言葉を持っている。

でも、その言葉を出す前に、自分で一度止めている。


レティシア王女は、上座ではなく少し脇に座っていた。

けれど、全員が彼女の視線を意識している。


そして、壁際にはイリスが立っていた。

鎧は着ていない。

正式な席もない。

長机から一歩下がった、記録係と警備兵の間のような場所だった。


トオルはそこで初めて、彼女に気づいた。

イリス自身も、なぜ自分がここにいるのか、まだ半分わかっていないような顔をしている。

トオルは小声でセラに聞いた。


「イリスさんもいるんですか」

「グレン隊長が出席を要請した」


セラは前を見たまま答えた。


「現場報告者として」

「現場報告者」

「黒札を出した獣人が人々に囲まれるところを、実際に見ている。こぼれ市で自分の不用意な言葉で場を動かしてしまったこともある。そして広場で、人を囲まない位置に立つ訓練もした」


セラは少しだけ声を落とした。


「この場にいる者の多くは、札を紙の上で見る。イリスはずっと、人が札を見た時にどう動くのかを現場で見てきた」


トオルはグレンを見た。

グレンは壁際のイリスを見ていない。

見ていないが、彼女がそこにいることを忘れていない立ち方だった。


「兵の運用方針を決める会議で、現場を見ていた兵の報告を聞かないのは危険」


セラは短く言った。


「そういう判断だ」


イリスは、壁際で背筋を伸ばしていた。

手は膝の横で固く握られている。

彼女は、発言するために呼ばれたわけではない。

けれど、聞かれた時に、見たことを答えるためにそこにいた。


「薬草流通については、王宮管理へ移すべきです」


財務卿ヘンリックが言った。


「民間倉庫とこぼれ市を経由する限り、同じことは繰り返されます。王宮が一括して棚卸し、配給する。これが最も早く、費用も見積もれる」


クロードが、だるそうに紙を一枚置いた。


「早いな」

「必要です」

「必要と早いは違う」


ヘンリックの眉がわずかに動く。


クロードは気にしない。


「確かに王宮が薬草の流通を握れば、棚卸しはしやすくなる。損耗も、横流しも、補償も、全てが費用欄に載るだろう」

「なら」

「だが、王宮の流通路に手が届かない者が確実に出る。こぼれ市は確かに王国の汚点だ。だが、闇に身を寄せるしかない者たちもいる」

「では、放置しろと?」

「放置ではなく、まず帳簿を押さえろと言っている。通行札と薬草の流れを切り分ける前に一斉に潰せば、肝心の数字が消える」


施政局長官ハインが、机の上の図を見た。


「薬草倉庫、東門、こぼれ市、風下の街、街の灯の黄札記録。これを分けて処理する必要がありますね」

「実務上は?」


レティシアが問う。


ハインはすぐに答えた。


「落としどころは王宮独占ではなく、公開棚卸しです。王宮、監査院、街の灯、薬師組合、風下の街の確認者を一名ずつ置く。薬草の移動には、最低二者の記録を必要とする」


ヘンリックが目を細める。


「費用は増える」

「増えます」


ハインは頷いた。


「ただし、こぼれた分を後から探す費用よりは安く上がる可能性がある」


クロードが小さく笑った。


「珍しく財務向けの言葉を選んだじゃないか」


ハインは無視した。


「それに、風下谷保証状には薬草採取地と夜間搬送路に関する記載があります。王宮管理に移す場合も、その理由欄を併記しなければ、特例を取り上げたように見える」


ヴィクトルが、初めて口を開いた。


「見える、ではなく、そう読まれる」


声は低く、乾いていた。


全員の視線が彼へ向く。


「王命として出すことはできる。薬草流通の管理、倉庫の棚卸し、仮配給。形式上は可能だ」


ヴィクトルは書類を一枚持ち上げる。


「だが、理由欄なしには封蝋できない。風下谷保証状が現在も有効ならば、採草権と夜間搬送路に触れる措置には、王国側の理由だけでなく、風下側の確認欄も必要になる」


会議室に、薄い沈黙が落ちた。

理由欄。

その言葉が、ここでも出てきた。


トオルは、記録庫の奥で見た空白を思い出した。

約束は残った。

だが、理由が消えた。

理由が消えた約束は、特例に見える。

そして、特例に見える保証は、不満の燃料になる。


セラが頷いた。


「それなら通せる」


次に、治安局長官ダミアンが黒札の登録制を提案した。


「黒札を持つ者は、少なくとも確認対象にするべきです。今、市民はあの札を恐れている」


会議室の何人かが頷いた。

黒札。

その言葉が出た瞬間、壁際のイリスの肩がわずかに動いた。

だが、彼女は口を開かなかった。

セラはイリスを見ない。

代わりに、グレンが静かに言った。


「イリス・ノルテ」

「はい」


イリスの声が、少しだけ上擦った。


「広場で、黒札をつけた者が囲まれかけた時の状況を報告しろ」

「はい」


イリスは一度、足元を見た。

長机から出口までの距離。

自分が立つ位置。

発言した後、自分の言葉が誰の方へ流れるか。


それを見てから、顔を上げた。


「黒札そのものよりも先に、人の輪ができました」


会議室が静かになる。


「人々は、札を見て下がったのではありません。札を理由に、相手を見ました。体は離れたのに、視線だけは近くなりました」


ダミアンが眉をひそめる。


「つまり、危険視されていたということだ」

「はい」


イリスは頷いた。


「でも、登録すれば、それはもっと強くなります」

「なぜ」

「登録簿は、誰が見られるのですか」

「警備隊と治安局が」

「取り消せますか」

「取り消す?」

「黒札は、ずっと持つものではありません。今は近づかないでほしい、という札です。登録した後、必要なくなった時に、本人がその登録を取り消せないなら」


イリスは少し息を吸った。


「それは距離の印ではなく、危険人物の名簿になります」


ヴィクトルが、指先で机を一度だけ叩いた。


「登録制にするなら、解除条項が必要だ」


ダミアンは抗弁する。


「治安上の記録を、本人の意思で消せというのですか」

「消す、ではない。効力を止める条件を併記する、という意味だ」


ヴィクトルは淡々と言った。


「黒札の登録が王命の下に置かれた瞬間、それは本人の距離表示ではなく、王国による分類になる。分類するなら、分類の理由と、分類を解く条件が要る」


セラは何も言わなかった。

ただ、イリスを見ていた。


イリスは続けた。


「黒札を登録するより、黒札を囲む行為を罰してください。黒札をつけた人へ近づく時の手順を書いてください。名乗ること。目的を言うこと。返事を待つこと。返事がなければ離れること」

「それでは遅い」


ダミアンが言った。


「はい」


イリスは頷いた。


「でも、恐れだけで囲んでしまえば、次からもう誰も札を出せなくなります」


その言葉を受けて、グレンが口を開いた。


「警備隊としては、その運用なら可能だ」


全員の視線が、彼へ向く。


「黒札所持者の登録ではなく、黒札への接近手順と、黒札を理由に囲んだ者への拘束基準を作る。兵に必要なのは、誰を疑うかではなく、どの距離で止まるかです」


セラが短く言った。


「隊長の意見に賛成します」


イリスは少しだけ目を伏せた。

手柄や成長を認められたわけではない。

だが、彼女の見たものは、手順になった。


レティシアが次に、白い衣の一団を見た。


「サンへの臨時救護委託については」


白い衣の者たちが姿勢を正す。

セフィアは、静かに顔を上げた。


「私どもは、傷ついた方々をお預かりする用意があります」


以前と同じ声だった。

けれど、そこで彼女は一度止まった。


窓の外を見る。

東門の向こう。風下の街の方角。

その指先が、胸元の太陽の印を一度だけ押さえる。


「恐怖の中にいる方に、手続きを求めるのは酷です。まずは、眠れる場所が必要です」

彼女は言葉を選び直すように、続けた。


「ただし」


白い衣の者たちが、わずかに動く。


「その場所が、本当に安心できる場所なのか、それとも、戻れなくなってしまう場所なのかを、彼らを預かる私たちは確かめなければなりません」


トオルは息を止めた。

あの時、彼女の中に置かれた問いが、ここまで来ていた。

セフィアはレティシアを見た。


「救護所として協力します。けれど、入る手順と同じように、出る手順も書いてください」


ダミアンが驚いたように顔を上げる。


「サンの側から、それを求めるのですか」

「ええ」


セフィアは静かに答えた。


「救われた者が、私たちの灯りの証になってしまわないように」


会議室に、浅い沈黙が落ちた。

セラが紙を出した。


「では、条件を書く」


彼女は一つずつ読み上げた。


「一つ。水、食事、睡眠は祈りより先に提供する。

 二つ。救護者と要救護者の単独接触を避ける。

 三つ。入所時に帰還先、帰還できない理由、帰還したくない理由を分けて記録する。

 四つ。三日に一度、本人に外へ出る選択肢を提示する。

 五つ。救護を受けない者を信仰の欠如として扱わない」


白い衣の者たちがざわついた。

セフィアは、そのざわめきの中で、目を閉じた。


「細かいですね」

「人を返す手順は、細かくなければならない」


セラが返す。


「抱えるのは簡単だ。返すのが難しい」


セフィアは、少しだけ笑った。


「あなたは、本当に寂しい言葉を選ばれるのね」

「寂しさで規則は変えない」

「ええ」


セフィアは頷いた。


「けれど、今はその寂しさが必要なのでしょう」


トオルは黙っていた。

セフィアが迷っている。

迷いながら、それでも手を離そうとしている。

それは、以前の彼女にはなかった姿だった。


「こぼれ市については」


ダミアンが口火を切る。


「治安局としては、一斉摘発が妥当と考える。通行札、薬草、夜の牙への支援。すべてがあそこを通っている」

「すべてではない」


クロードが被せるように言った。


「だが多くは通っている」

「通っているから潰す。そう言うなら、通っていたものも消える」


ダミアンの目が鋭くなる。


「監査院は、また紙を待てと言うのか」

「違う。先に押さえるべきものを間違えるなと言っている」


クロードは古い写しを机に置いた。


「風下谷保証状には、夜間搬送路の一方的封鎖を禁ずる条項がある。理由は、傷病者搬送と薬草運搬だ。こぼれ市は汚い。だが、その汚れた道には、昔の搬送路の残骸も混じっている」


ヴィクトルがその紙を受け取り、封蝋痕を見る。


「写しではあるが、内務の記録形式には合っている」

「有効ですか」


レティシアが問う。


「少なくとも、無視して布告を書くことはできません」


ヴィクトルは淡々と答えた。


「こぼれ市の摘発は可能です。しかし、通行札と薬草帳簿を押さえる前に道そのものを閉じてしまえば、王国はまた理由欄を消すことになるでしょう」


「また、ですか」


レティシアが小さく言う。

誰も答えなかった。

答えなくても、記録庫の奥で見たものがそこにあった。

不法小屋、撤去済み。

家三つ、薬棚二つ、焼失。


同じ日付。

同じ場所。

違う言葉。


「では、こぼれ市は一斉摘発ではなく」


施政局長官ハインが紙に書き込む。


「通行札、薬草帳簿、倉庫印、密売路の確認を先に行う。居住者と通行者と売買者を分ける。逃亡防止ではなく、所在確認から始める」


グレンが頷いた。


「兵を入れるなら、出口を塞がない配置にする。追い詰める形にすれば、夜の牙も、ただ逃げ場を探しているだけの者も同じ動きになる」


「遅い」


ダミアンが痺れを切らしたように言った。


「市民は早い答えを求めている」

「早い答えを求めている時こそ、勇者の鐘はよく響く」


レティシアが静かに言った。


ダミアンは口を閉じた。

会議が一度止まった。


休憩という名目で、人々が部屋を出ていく。


トオルは窓際に立った。

白冠宮の下に、王都が広がっている。

遠くで風下の街の屋根が見えた。

煙はもうない。

だが、見えない火はまだ残っている。


クロードが隣に来た。


「勇者になり損ねた顔をしているな」

「そんな顔してますか」

「している」

「なりたかったわけじゃありません」

「なりたくなくても、人は手頃な空席に座るものだ」


クロードは硬い果物をかじった。


「気をつけろ。今の王都には、魔王の席と勇者の席が空いている」

「座らないようにします」

「座らないだけでは足りない」


クロードは会議室の机を顎で指した。


「椅子を、片付ける時だ」


夕方、バルクが白い水差し亭へ来た。

店の扉をくぐるには大きすぎる体を、少しだけかがめて入ってくる。


「ハウゼンが会うと言っている」


セラの目が細くなった。


「誰に」

「測量士に、ではない」


バルクはトオルを見た。


「お前は聞くだけだ」

「では、誰に」

「ノクスにだ」


風下の街の奥には、昼でも暗い場所がある。

屋根が低く、布が何重にも張られ、隣の家の音が壁越しに聞こえる。

通る者は少なく、通る者は互いの顔を知っている。


そこに、古い部屋があった。

入口には牙の印はない。

代わりに、小さな木片が吊るされている。

傷の多い手で削ったような、粗い鳥の形だった。


ハウゼンは、奥の椅子に座っていた。

石碑の前で見た時より、さらに小さく見える。

それでも、部屋に入った瞬間、空気が変わった。

この人がかつて夜の牙を束ねていたのだと、全員が改めて実感した。

怒鳴らずとも、人を止めるだけの重さ。


ノクスは壁際に立っていた。

腕を組み、顔を背けている。


「呼んでない」


ノクスが言った。

ハウゼンは笑った。


乾いた、低い笑いだった。


「俺も、呼ばれた覚えはない」

「なら帰れ」

「お前に、渡しそびれていたものがあってな」


ノクスの眉が動く。

バルクが入口に立ち、リナは窓際にいる。

セラは部屋の出口を見た。

トオルは何も言わず、壁際に立った。

ハウゼンの白く濁った目が、ノクスを捉える。


「倉庫の薬を取ったそうだな」

「必要だった」

「ああ、必要なものは、取れ」


ハウゼンは言った。


ノクスが一瞬だけ顔を上げる。


「だが、火はつけるな」

「つけてない」

「ならいい」


それだけだった。

ノクスの肩が、わずかに緩む。

けれど、次の言葉でまた固まった。


「ノクス、子どもを牙にするなよ」


部屋の空気が止まった。

ノクスの声が低くなる。


「誰がそんなことを」

「お前だ」

「俺は守ってる」

「俺も、そう思っていた」


ハウゼンは膝の布に手を置いた。


「守るために集めた。守るために隠した。守るために噛めと言った」


ハウゼンの指は太く、節が潰れていた。

その腕で、赤子だったノクスを抱いたのだろう。


「俺は、お前に生きろと言った」


ノクスは動かない。


「噛めとも言った。人間を信じるなとも言った。牙は最後まで隠せとも言った」

「なら」

「だが、俺の牙になれとは言っていない」


ノクスの顔が歪んだ。


「今さら言うな」

「今さらだから言う」

「遅い」

「ああ、遅いな」


ハウゼンは頷いた。


否定しなかった。


「俺たちは、お前を拾った」


声が少しだけ低くなる。


「だが、拾った子に俺たちの夜まで背負わせてしまった」


ノクスの手が震えた。


「やめろ」

「それは、拾ったとは言えんのかもしれんな」

「やめろ!」


ノクスが壁を殴った。

古い木が軋む。

誰も止めなかった。


トオルは唇を噛んだ。

言いたいことがあった。

拾ったことは嘘ではない。

救ったことも嘘ではない。

背負わせたものだけを分ければいい。

けれど、それを今、自分が言ってはいけない。


ハウゼンが言うべきことだった。

そして、ノクスが聞くかどうかは、ノクスのものだった。


ハウゼンが、ゆっくり息を吐いた。


「お前が継ぐなら、俺の怒りじゃない」


ノクスは睨む。


「お前はあの夜、俺が伸ばした腕を継げ」

「腕?」

「拾え」


ハウゼンは言った。


「捨てられた子を拾え。帰れない者を隠せ。腹を空かせた者に飯を食わせろ。必要なら噛め。だが、噛むために子どもを育てるな」


ノクスの目が揺れた。


「それで守れるのか」

「守れなかったから、俺はこうなった」


ハウゼンは自分の片脚に触れた。


「だが、憎ませるだけでもやっぱり守れなかった」


沈黙が落ちた。

外で、風下の街の子どもの声がした。

すぐに大人の声がそれを呼び戻す。


ノクスは顔を背けた。


「俺には、もうわからない」

「なら、わからないまま噛むな」


ハウゼンは言った。


「わからない時は、夜を長くしろ。朝まで待て」


ノクスはしばらく黙っていた。

それから、低く言った。


「あの通行札」


クロードが目を上げる。


「売った奴を知ってる」


ハウゼンは何も言わなかった。

ノクスは入口へ向かった。


「協力じゃない」

「わかっています」


イリスが反射的に答えた。

ノクスは少しだけ振り向く。


「お前に言ってない」

「すみません」

「謝るな」


ノクスは出ていった。

その背中を、ハウゼンは見ていた。

白く濁った片目で、見えないものまで見ようとするように。


同じ頃、東門の外れにあるサンの宿舎では、白い衣の者たちが集まっていた。

臨時救護所の条件が白冠宮で読み上げられたことは、もう伝わっている。

水、食事、睡眠は祈りより先に提供する。

単独接触を避ける。

三日に一度、外へ出る選択肢を提示する。

救護を受けない者を信仰の欠如として扱わない。


どれも、セフィアが守ろうとしてきた灯りを、少しずつ手から離す条件だった。


若い信徒が言った。


「セフィア様、これでは私たちの役目が疑われてしまいます」

「疑われるべき時もあります」


セフィアは静かに答えた。


「光が眩しすぎる時は、目を開けている人に聞かなければなりません」


信徒たちは黙った。


その輪の少し外に、リナの母がいた。

薄い白の衣。

胸の太陽の印。

指先には、苦草で護符を結んでいたころの細い傷がまだ残っている。


リナもいた。

入口の近く。

中には入っているが、部屋の奥までは来ない。

壁を壊さず、壁越しにいる距離だった。


セフィアは、リナの母を見た。


「あなたは、ここで休んでいてよいのです」


母は小さく頷いた。


「はい」


その返事に、リナの耳が少し伏せた。

母はリナを見た。

そして、ゆっくり言った。


「私は、ここで眠れました」


声は震えていた。


「あなたの隣では、眠れなかった」


リナは何も言わない。


「あなたの側では、私は強くなろうとしてしまった。風下の街に戻れば、牙を持った母にならなければいけないと思っていた」


母は、自分の胸元の太陽の印に触れた。


「ここで初めて、私は怖いまま眠れました」


セフィアは微笑んだ。


けれど、母はその微笑みへ向かって続けた。


「でも、これからどこで朝を迎えるかは、私が決めます」


部屋の空気が止まった。


セフィアの笑みが、少しだけ薄くなる。


「あなたは、ここを離れたいのですか」

「わかりません」


母は答えた。


「風下へ戻れるかも、わかりません。リナの隣で眠れるかも、わかりません。いつかまた、ここに帰ってくるかもしれません」


リナの指が、黒札に触れる。

母はそれを見て、少しだけ笑った。


「でも、それは、私が自分で決めたい」


セフィアは黙った。


「セフィア様」


母は言った。


「私は、あなたに救われました」


言葉は、嘘ではなかった。


「でも、私が生き延びたことは、あなたのものではありません」


白い部屋に、何かが落ちた。

重いものではない。

固く閉じていた結び目が、ひとつほどける音に近かった。

セフィアは、リナの母を見つめていた。


長い沈黙のあと、彼女は小さく息を吸った。


「そうですね」


声が、少しかすれていた。


「あなたは、私の灯りの証ではありません」


そう言ってセフィアは一歩、リナの母の前に進む。

手を伸ばしかける。

けれど、触れない。


「あなたが生き延びたことは、あなたのものです」


リナの母は、目を閉じた。

涙はこぼれなかった。

代わりに、肩が少しだけ下がった。


リナが、壁際から小さく言った。


「戻ってこいとは言わない」


母がリナを見る。


「でも、こっちを夜と呼ばないで」


母はしばらく黙った。

それから、頷いた。


「呼ばない」

「私も」


リナは言葉を探す。


「そこを、檻とは呼ばない」


母の顔が、ほんの少しだけ歪んだ。

泣きそうな顔だった。

でも、泣かなかった。


「ありがとう」

「礼は、まだいらない」


リナはそっぽを向いた。


「今はまだ、近づかないで」

「わかった」


母は、足を止めた。

壁がある。

でも、声は届いた。


その瞬間だった。


セフィアの髪が、わずかに揺れた。

光を受けて淡く輝いていた髪の根元に、細い銀が走る。

誰かが息を飲んだ。


「セフィア様」


若い信徒が立ち上がる。

セフィアは手で制した。


「来ないで」


その声は、今までより弱かった。

けれど、初めて誰かにすがらない声だった。

頬に皺が走る。

白い手の甲に、年輪のような筋が戻る。

背筋が、ほんの少しだけ丸くなる。

長く止まっていた時間が、一度に流れ始めていた。


「秘儀が」


信徒が震える。


「ほどけています」


セフィアは、自分の手を見た。

老いていく手を、驚いたように、そして懐かしむように見た。


「これが」


彼女は小さく笑った。


「私の時間だったのですね」


信徒たちが駆け寄ろうとする。

その前に、あの老女が立った。

倉庫前で、セフィアの灯りで冬を越したと言っていた老女だった。


「行かせてあげなさい」

「でも、セフィア様が」

「置いていかれるんじゃない」


老女の声は穏やかだった。


「セフィア様が、あるべき所へ帰るんだ」


信徒たちは泣いていた。

でも、手を伸ばさなかった。

セフィアは椅子に座った。


リナの母が、少し離れた場所に膝をつく。

触れない距離。

それでも、そこにいた。


リナは入口の壁に背を預けたまま、顔を逸らしている。

セフィアは、それを見て微笑んだ。


「光の中に置くことだけが、救いではなかった」


声は、もう細かった。


「外へ出る背中を、見送ることも、救いだったのですね」


彼女は窓の外を見た。

日が沈みかけている。

太陽の光は、もう弱い。

けれど、弱い光の中で、セフィアは満足そうだった。


「返して」


唇が動く。


「よかった」


それが、最後の言葉だった。

セフィアは目を閉じた。

白い衣の中で、老いた人間の身体が、静かにその生を終えた。

誰も、彼女を神とは呼ばなかった。

少なくとも、その場では。


遠く、白冠宮の塔が夕日を受けていた。

勇者の鐘は、まだ鳴っていない。


こぼれ市の奥は、夜になると明るくなる。

正規の灯りではない。

布で隠したランタン。

手元だけを照らす小さな火。

通行札を確かめるための青い石。

誰にも見られたくない者ほど、ここでは光を必要とする。


マグダスは奥の椅子に座っていた。

仕立てのよい上着。金の指輪。泥のついた靴。

以前のような笑みはまだあった。

けれど、今日は少し違って見えた。

笑っているのに、どこか疲れている。

人を食い物にする男の顔だけではない。

何度も同じ言い訳を自分に聞かせ、その言い訳を商いの形にしてしまった男の顔だった。


「正しい人間が雁首揃えて、よく集まったもんだ」


マグダスは言った。


「王都警備隊、監査院に、今度は風下の若い牙か。白冠宮は、よほど鐘を鳴らしたくないらしい」


クロードが前に出た。


「通行札の話をしに来た」

「通行札は必要な奴に渡しているだけだ」

「売っている、ではなく?」

「金を取らなければ、次の札は作れないからな」

「偽札も?」

「本物が手に入らない者にとっては、通れる札が本物だ」


クロードは無表情だった。


「薬草は」

「必要な人へ」

「隠れ家は」

「帰る場所のない人へ」

「夜の牙には?」

「怒っている者にも、道は必要だ」

「サンには?」

「祈る者にも、薬は必要だ」


マグダスはにこやかに言った。

「どちらが勝っても、怪我人は出る。怪我人が出れば薬が要る。薬が要れば道が要る。道が要れば、俺のところへ来る」


その一人称が、少しだけ素に戻っていた。


トオルはそれに気づいた。

この男は、ずっと芝居をしている。


商人の芝居。

悪人の芝居。

必要悪の芝居。


けれど、その下に、まだ別のものがある。


「最初から、そうだったんですか」


トオルは思わず聞いた。

セラがこちらを見る。

今ここで踏み込むな、という目ではなかった。

ただ、測るなら慎重にしろ、という目だった。


マグダスはトオルを見た。


「何が」

「最初から、必要に値段をつけていたんですか」


マグダスは笑った。


笑いは、少しだけ薄かった。


「最初は、ただ通した」


その言葉で、セラの目が動いた。


「東の抜け道が閉じられた翌朝だ。女が来た。薬が要る、名前は出せない、正規の門は通れない。そう言った」


セラの指が、剣の柄に触れた。

だが、抜かない。

マグダスは続けた。


「通した。銅貨は取らなかった。いい話だろう」


誰も返さない。


「次の日、別の男が来た。三日後、子どもを連れた婆さんが来た。次の週、逃げた兵が来た」


マグダスの声は、軽くなかった。


「みんな、必要だった。薬が必要だった。名前を消す必要があった。明け方まで隠れる場所が必要だった」


クロードが静かに言う。


「それで値段をつけた」

「値段をつけなければ、続かなかった」

「それから?」

「それから、値段を上げた」


マグダスは、ようやく笑った。


自分を嗤うような笑いだった。


「続けるためじゃなく、握るためにな」


セラの声が低くなる。


「マグダス」

「お前が閉じた道だ、セラ」


マグダスは彼女を見た。


「お前は正しく閉じた。俺は間違って開けた。さて、どちらの方が多く生かした?」


部屋が静かになった。

嫌な問いだった。

トオルは息を止めた。


セラは、すぐに答えなかった。

昔の彼女なら、きっと「違法な道だ」と切ったかもしれない。

今は違った。


「数えたのか」


セラが聞いた。


マグダスの眉が動く。


「何を」


「お前が通した者を。死んだ者を。値を上げた者を。戻れなくなった者を。全部数えたのか」


マグダスは黙った。


クロードが帳簿を開く。


「数えていないなら、それは商いとは言えないな」

「監査官様らしい」

「帳尻だ」


マグダスは、しばらくクロードを見ていた。

そして、小さく笑った。


「帳尻、か」


彼の笑いはもう、全てを握ろうとした強かな商人のものではなかった。


セラは一歩前に出た。


「昔、私は閉じた。出口を置かずに」

「そうだ」

「その穴に、お前は値をつけた」

「ああ」

「今度は違う」


セラは言った。


「穴を閉じる前に、出るための足場を作った」


白い水差し。黄札。黒札。救護所の出口。薬草の棚卸し。

所在の欄。帰ってこられる場所。


それらが、彼女の言葉の後ろにあった。


「必要は、もう一人の手に握らせない」


その時、奥で物音がした。

右耳に金の輪をつけた男が、裏口へ向かって動く。

イリスが反射的に追いかけようとする。

だが、途中で止まった。

出口を塞がない位置。

逃げる者を追い詰めるのではなく、逃げ道の先を見た。


「左の木戸!」


イリスが叫んだ。


「そこから出ると、荷置き場に子どもがいます!」


逃げようとした男が一瞬止まる。

その一瞬で、バルクが前に出た。

剣は抜かれなかった。

イリスは息を荒くしていた。

手は震えている。

けれど、彼女は「助けます」とは言わなかった。

ただ、子どもが巻き込まれる場所を先に見た。


セラが一度だけイリスを見る。


「よく見た」


それだけだった。

イリスは、泣きそうな顔で頷いた。

奥から男が引きずり出された。


右耳に金の輪。

左手の薬指がない。

笑う時、奥歯を隠す男。


ノクスは一歩だけ近づいた。

それ以上は近づかなかった。


「噛まないのか」


マグダスが言った。

ノクスは短く答えた。


「今日は、夜が長いからな」


その意味を、トオルは少しだけ理解した。

わからない時は、夜を長くしろ。

朝まで待て。

ハウゼンの言葉だった。


マグダスは、もう笑わなかった。


白冠宮に戻る頃には、夜が深くなっていた。

会議室には、まだ人が残っている。

非常措置案は、半分以上書き換えられていた。

風下の街の夜間封鎖は、全面封鎖ではなく、三つの通行路に分けられた。

各通行路には、王都警備隊、風下の街の年長者、監査補助の三者が立つ。

閉じる条件と、再び開ける条件が同じ紙に書かれた。


さらに、理由欄が追加された。

旧領奪回戦における風下側の功。風下谷保証状。夜間搬送路の存在。薬草運搬と傷病者搬送の必要。


閉じる理由だけではない。

閉じてはいけない理由も、同じ紙の上に残された。


黒札は登録制ではなく、意味の再掲示と誤用罰則になった。

黒札を理由に人を囲んだ者は拘束される。

黒札をつけた者に近づく場合は、名乗り、目的を告げ、返答を待つ。


薬草流通は王宮独占ではなく、公開棚卸しと第三者監査へ変わった。


こぼれ市は一斉摘発ではなく、通行札と薬草帳簿の押収から始める。


サンの救護所は協力を認められた。

だが、入る手順と同じように、出る手順が掲示されることになった。


夜の牙は討伐対象ではなく、関与者と風下の街の住民を分けて扱う。


風下の街の代表窓口に、リナとバルクの名が仮に置かれた。

ノクスの名は、どこにも書かれていない。

書けばまた、そこから狩りが始まるだろう。


「遅い」


治安局長官ダミアンが言った。


「この手順では、市民が納得しない」


セラが返す。


「市民を納得させるために、戻れない者を作るな」

「責任は誰が取る」


会議室が静かになる。

その問いは、強かった。

責任。

誰か一人が持ってくれれば楽になるもの。


だから人は勇者を欲しがる。


レティシアが立ち上がった。


「私が署名します」


周囲がざわつく。


「殿下、それは」

「ただし、私一人の命令にはしません」


レティシアは紙を見た。


「警備隊、監査院、風下の街の代表、救護所、薬草倉庫、街の灯。それぞれの署名欄を作ります。解除条件にも同じ署名を必要とする」


ヴィクトルが、静かに口を開いた。


「王女殿下の単独命令ではなく、臨時共同措置として私が形式を整えます」

「形式を?」


レティシアが問う。


「はい」


ヴィクトルは書類を見た。


「王命にすれば早い。だが、王命にすれば、次に誰かがまた、同じ言葉で閉じられる。臨時共同措置として、理由欄、解除条件、確認者、異議申し立ての欄を置くべきです」


クロードが小さく笑った。


「内務卿が面倒なことを言う日もあるんだな」


ヴィクトルは表情を変えない。


「形式は、面倒でなければ人を守れません」


ダミアンが顔をしかめる。


「煩雑すぎます」

「そうです」


レティシアは頷いた。


「一人で決めるより、煩雑になります」


彼女は鐘楼の方を見た。


「だから、勇者がいらなくなる」


その言葉は、会議室の中で静かに落ちた。

強い言葉ではなかった。

誰かを鼓舞する声でもない。

けれど、紙の上に置かれると消えない重さがあった。


トオルは黙って聞いていた。

それは、自分が言うべき言葉ではない。

この国の王女が、この国の紙に置くべき言葉だった。

夜明け前、最初の見回りが始まった。


勇者の鐘は鳴らなかった。


代わりに、細かい手順が動き出す。


王都警備隊が二人。

風下の街の年長者が一人。

監査院の補助が一人。

街の灯の記録係が一人。

そしてサンからは、白い衣を着た若い女が一人。


彼女は胸元の太陽の印に触れたまま、門の向こうを見ていた。

昨日までなら、彼女は祈りの言葉を先に口にしたかもしれない。

今日は違った。

手には、水袋と小さな紙を持っている。


トオルは少し離れて、その列を見ていた。

誰も勇者には見えなかった。

剣を高く掲げる者はいない。

名乗りを上げる者もいない。


足取りは眠そうで、何度も紙を確認している。

どの門を開け、どの門を閉じ、誰の名前を書き、どの時点で戻るのか。

面倒くさい。

遅い。


けれど、ひとりではない。


風下の街へ続く門の前で、昨日は閉じられていた扉が、細く開いている。

リナがその隙間に立っていた。

バルクは少し後ろで腕を組んでいる。


サンの若い救護係は、リナの黒札を見て、足を止めた。

近づかない。

名乗る。


目的を告げる。

返事を待つ。

彼女は手元の小さな紙を見た。

それから、顔を上げる。


「サンの救護係、ミーラです」


声は少し震えていた。


「怪我人が出た時のために、水と包帯を持ってきました。近づいても、よいですか」


リナは少しだけ彼女を見た。

そして、黒札を腰紐に結び直した。


「まだ」


ミーラは頷いた。


「待ちます」


それだけだった。

それでも、トオルには十分に見えた。

セラが隣に来る。


「何を見ている」

「勇者がいないところです」

「そうか」


セラは門の方を見た。


「まだ、いないだけだ」

「はい」


トオルは頷いた。


「だから、今日も測ります」


セラは少しだけ息を吐いた。


「喋りすぎるな」

「はい」

「一人で測るな」

「はい」


東の空が、少しずつ白くなっていく。

白冠宮の塔は、朝の光を受けて静かに立っていた。

鐘は鳴らない。

鳴らないまま、門が細く開いている。


その隙間を、一人ではない足音が通っていった。




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