第二話「推しの根性、叩きなおします」
翌日の放課後。
エリゼは学園の渡り廊下に、アルノルドを呼び出した。
使いを出す時、文面は簡潔にした。
「折り入ってお話があります。放課後、西棟の渡り廊下にてお待ちしております」
それだけだ。婚約者からの呼び出しを無視するほど、アルノルドは非常識ではない。
◆◆◆
夕暮れ時。人通りが絶えた頃、廊下の角に人影が現れた。
薄い金髪。涼しい目元。手には今日も本を持っている。
(相変わらず整った顔しとるな……)
推しを前にした瞬間、前世のゲーマー魂が疼いた。
しかしエリゼはその感情を即座に奥底へ押し込んだ。今は令嬢だ。侯爵家の娘だ。
そして――やるべきことがある。
「待たせた」
「いいえ、今来たところです」
完璧な笑顔で返す。アルノルドはちらりとエリゼを見て、それから廊下の先へ視線を流した。
「用件は何だ。手短に頼む、まだ読み終えていない資料がある」
(あ、こいつ今めちゃくちゃ軽くあしらいよった)
エリゼの頬が、わずかに引きつった。しかし笑顔は崩さない。
「手短に済みますよ。五秒で」
「……五秒?」
アルノルドが怪訝そうに振り返った、その瞬間。
エリゼの足が、静かに動いた。
重心が低い。音がない。前世で叩き込まれた体の動きが、貴族令嬢の体に宿っている。
アルノルドの足元が払われた。
「――っ」
体勢を崩す。床に叩きつけられる、その直前。
エリゼの腕がするりと背中に添えられて、倒れる勢いをそのまま受け流した。
気づいた時には、アルノルドは床に押さえ込まれていた。
視界いっぱいに、エリゼの顔が映る。
満面の笑みだった。
そしてこぶしが一つ、アルノルドの顔面の数センチ手前で、ぴたりと止まっていた。
「……っ、何を」
「あら、ごめんなさい」
声は甘い。笑顔は崩れない。しかし目が、まったく笑っていない。
「転びそうだったから支えようとしたら、こうなってしまいました」
「支えた結果が這いつくばらせることか」
「細かいことは気にしないでください」
アルノルドの目が、エリゼの止まったこぶしと、その笑顔を交互に見る。
エリゼはにこりと笑みを深くして、静かに口を開いた。
「アルノルド様。あなた今、この国が傾きかけているの。わかってます?」
「……何?」
「レオナルド殿下が、男爵令嬢に入れ込んでいる。従者のクラウスもそれを黙って見ている。騎士団長の息子も、教皇の息子も、みんなあの子に引き寄せられつつある」
アルノルドの目が、鋭くなった。
エリゼは続ける。
「次期宰相になる人が、周りで何が起きてるか気づいてへんの。それとも、気づいてて放置してるの?」
「……」
「どっちにしても、あかん」
一拍。
「知らないなら教えてあげます」
笑顔のまま、声だけが低くなった。
「知ってて放置してるなら――」
止まったままのこぶしが、ほんの少しだけ前に出た。
「次は寸止めしません」
長い沈黙が落ちた。
渡り廊下に、夕風が通り抜ける。
アルノルドはエリゼの目を見ていた。笑っているのに笑っていない、その目を。
やがて、静かに口を開いた。
「……離せ」
「はい、喜んで」
エリゼはすっと身を引いた。アルノルドが起き上がり、服の乱れを整える。
その所作は乱れていないが、いつもより少しだけ、時間がかかった。
向かい合う。
アルノルドはエリゼを見た。婚約者。侯爵令嬢。政略で結ばれた相手。それ以上でも以下でもないと思っていた。
しかし今この瞬間、この女が何者なのか、アルノルドには全くわからなかった。
「……一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「なぜそこまで知っている」
エリゼは少し考えるような間を置いてから、微笑んだ。今度は、少しだけ本物に近い笑顔で。
「女の勘、とでも思っておいてください」
「……」
「それより」
エリゼは踵を返しながら、肩越しに振り返った。
「次に会う時までに、どう動くか考えておいてくださいね」
夕暮れの廊下を、歩いていく。背筋が伸びていた。足音がない。
アルノルドはしばらく、その背中を見ていた。
(なんだ、あの女は)
婚約者と過ごした数年間で、一度も見せなかった顔だった。
気づけば、床に押さえ込まれた時のことを思い出していた。
笑っているのに、目が笑っていなかった。怒っているのに、声が静かだった。
そして、こぶしは――止まっていた。
(あれは本気で殴れる人間の寸止めだった)
アルノルドは手の中の本に視線を落とした。
今日初めて、ページを開く気になれなかった。




