第一話「記憶が戻った日、推しはアホだった」
意識が、浮かび上がってくる。
水の底から引き上げられるような感覚だった。重い。頭が痛い。体が、やけに窮屈だ。
ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井があった。
白い。高い。そして、やたらと豪華だ。
(……ここ、どこ)
起き上がろうとして、気づく。体が小さい。手が細い。髪が、やたらと長い。
鏡台に映った顔を見て、エリゼ・フォン・クラヴィエは三秒固まった。
(あー)
(そういうことか)
前世の記憶が、濁流のように流れ込んでくる。
地方都市で生まれ、気づいたら番を張っていた高校時代。
特攻服の似合う女だったと、今となっては遠い話だ。
それから心を入れ替えて、真面目に勉強して、法学部に進んで、卒業して――
そこで、ぷつりと途切れている。
(死んだんかな、私)
妙に冷静な感想だった。
そして今ここに、エリゼ・フォン・クラヴィエとして存在している。
乙女ゲーム「星降る学園の恋歌」の、悪役令嬢として。
(待って待って待って)
ゆっくりと状況を整理する。法学部仕込みの頭を、久しぶりにフル回転させる。
エリゼ・フォン・クラヴィエ。侯爵令嬢。婚約者は次期宰相候補のアルノルド・ヴァイス。ゲームの中では主人公に突っかかる嫌な女として描かれていたが、よく読めば境遇に同情できる部分もあった。
そして今の時系列は――
(入学後……しかも、しばらく経ってる?)
窓の外、青々とした木々が見える。春ではない。初夏だ。
つまり、ゲームはすでに動き始めている。
(主人公、もう動いてるやん)
エリゼは額に手を当てた。
「星降る学園の恋歌」のヒロイン、リリア・ローズ。男爵家出身の小柄な少女で、ふわふわしたピンクの髪が目印だ。天真爛漫で人懐っこく、悪意がない。本当に悪意がない。だからこそ厄介だった。
攻略対象は五人。
王太子・レオナルド。その従者・クラウス。騎士団長の息子・ガイウス。教皇の息子・セシル。
そして――
(アルノルド)
エリゼの推し。難易度最高の、知性派ルート。
攻略するには知力と政治学の成績を一定以上まで上げなければイベントが解放されない、やり込み勢御用達の最終ルートだ。
(リリアはまだそこまで知力上げてへんはず。アルノルドルートはまだ入ってない)
それだけが、唯一の救いだった。
◆◆◆
翌朝。
エリゼは学園の中庭を、あくまで優雅に歩いていた。侯爵令嬢らしく、背筋を伸ばして、微笑みを絶やさず。
そして、見つけた。
噴水の前のベンチ。木漏れ日の中に、二人分の人影。
一人は見覚えのある薄い金髪の少年。整った横顔。手元には分厚い本。
もう一人は――ピンクの髪の小柄な少女。
(……リリア・ローズ)
エリゼの目が、細くなった。
アルノルドは本を持ったまま、リリアの話を聞いていた。いつもなら興味なさそうに切り上げるはずの会話を。口元に、かすかな笑みを浮かべながら。
(あ、あかん)
エリゼの胸の中で、何かがざわついた。
怒りではない。もっと静かで、冷たい感情だ。
(あいつ、もう引っかかってる)
ゲームの序盤、アルノルドルートはまだ開放されていないはずだった。しかしそれはあくまでゲームの話だ。現実では、リリアの引力はゲームのフラグとは無関係に働く。
天真爛漫で、無邪気で、悪意のない笑顔。
それに当てられているアルノルドの横顔は――
(私が好きなアルノルドやない)
エリゼは静かに、その場を離れた。
自室に戻り、窓際の椅子に深く座る。
脳裏に浮かぶのは、遠い記憶だ。
◆◆◆
八歳の頃。父に連れられた王城の夜会。煌びやかで、うるさくて、知らない大人ばかりで。こっそり抜け出したら、廊下で完全に迷子になった。
泣きそうだったが、泣けなかった。侯爵家の娘がそんな情けない姿は見せられないと、意地だけで背筋を伸ばしていた。
そこへ、一人の少年が通りかかった。
名前も知らなかった。ただ、少年は何も言わずに隣に座って、本を広げた。
「うるさい場所が嫌いなのは私も同じだ。ここは静かでいい」
それだけ言って、ただ隣にいてくれた。
泣きそうだとか、迷子だとか、一切触れなかった。
(あれが、アルノルドやったんか)
ゲームをやりながら、なぜこんなに好きなのかわからなかった。でも今ならわかる。
あの日、名前も知らない小さな女の子の隣に、ただ座ってくれた。
それだけのことが、ずっと心に残っていたのだ。
(だから、あかんのや)
エリゼは立ち上がった。
あの人は、数字で割り切れないものを大切にする人だ。損得じゃなく、人の痛みがわかる人だ。
それが今、ピンク頭一人に視野を狭められようとしている。
婚約者の立場も、周りへの影響も、この国の均衡も。
全部見えなくなる前に。
エリゼ・フォン・クラヴィエは、静かに、しかし確かに決意した。
根性、叩きなおしたる。
笑顔のまま。




