一回表、終了
「すっご…」
綺麗に整備されたベンチで試合を眺めていた私、重垣唯はただただそのプレーに感嘆の声を漏らすことしかできなかった。もし、マウンドからさっきのプレーを見れたらどれほど嬉しかったのだろうかと、ついつい考えてしまう。
まぁ、私の指の怪我がなかったら、背番号1の代わりに投手登板している笹原さやかの代役である、彼女が助っ人出場することもなかったわけだが。
「うへー」
私と同じような感想を持っていたのだろう。横にいた廣谷先生が、小さくうめいた。
その二つの声は、たった二人しかいないベンチでさえ響かない小さなものだった。しかし、互いが互いの声を聞き取れるほど近い距離だったので、それが独り言になることはない。
「ナイスプレーだよ、桜花ちゃん!」
双葉咲のよく通る声がグラウンドに響く。キャッチャーマスクを外していた彼女の表情は、横顔でも分かる満面の笑み。
やはり、試合中の彼女は少しだけ雰囲気が変わる。普段はもっとおとなしく、表情が硬い子だ。
…"○○が好きだ"と語る人は多い。"こういう所が好きなんだ"と、そう付け加えて。
だけれど、それが誰かと同じくらいになることは決してないことを、私は知っている。
そして、それに注ぐことのできる情熱や愛も人によって違うものだ。
だから、彼女のような分かりやすい子は結構気に入っている。
さて、褒められた一瀬桜花はというと、Kと大きく描かれた帽子の鍔を摘みながら軽く会釈をする。
黒髪のぱっつんで、肩につかない程度のショートボブ。
青藍の瞳を持つ彼女の目つきは鋭く、人が寄りつかないであろう威圧感さえ覚えてしまう。いや、170ちょっとありそうな身長も影響しているかも知れない。あと、目元にある古傷もその理由に含まれるかも。
…ああ、ずっと何かに似てるなと思っていたけど、あれだ、"日本人形"だ。髪型はもちろんだが、可愛らしさと恐怖感が同居しているこの感じ、とても似ている。
ただ、彼女も別ベクトルで分かりやすい子だなと、プレーを見て確信した。
「あの子って、咲ちゃんの呼んできた助っ人ですよね。確か、中学で全国出てたっていう」
「双葉さんいわく、すごいピッチャーらしいねぇ」
私がふわっとした話の振り方をしたのと同様に、廣谷先生もふわっとした回答を出してきた。
…私もあまり人のことを言えないけど、この先生は野球を全くといっていいほど知らない。
まぁ、新しい野球部顧問として配属された新人教師が、偶然野球に詳しくなかっただけの話だ。きっと、よくあることなのだろうと思う。
それはそれとして、立ち振る舞いからか、話し方からか、文学少女をそのまま大人にしたような外見からか…。ついつい頼りないなぁと思ってしまう。
「学校側からしたら、そんなすごい子を見逃せないと思うんですけど、どうなんですか?」
言葉に発してみてから、あまり良くない質問だったなと少しばかり後悔した。
「えっと、うちの夙河女子高校の立ち位置から見たら、"野球部に大会実績を作らせるために、好選手である一瀬さんを是が非でも入部させたいのではないか"…っていうこと?」
「はい、まぁ、そんな感じです」
質問の伝えかたの方は、先生の理解力によって多少マシにはなった。しかし、その影響で内容の方が具体的になってしまい、さらに良くなさが増した気がする。
「…うーん、先生の立場からじゃ何も言えないなぁ」
困ったように微笑みつつ答えてきた。…即説教、みたいなのを警戒していた訳ではないが、少しだけ安心する。
ほんの少しの緊張が解けた私は、マウンドの方を睨むように見つめている外野手に視線を移した。
…一瀬桜花。彼女がどういう理由で野球を辞めてしまったのか。私にはほんの少し分かる気がする。
あの目つきには、見覚えがあるから。
「…正直に言うとね、重垣さんの言ったこと、間違ってないよ」
急に、横からそんな声が聞こえた。先ほどと比べて音量を下がった声は、あまり大きく言えない内容であることを示唆しているのだろう。
「頼まれたの、教頭先生に。"一瀬桜花を野球部に勧誘しろ"ってね…」
「先生は、それでどうしたんですか?」
反射的に質問が出てくる。彼女が野球を辞めてしまった理由に近づける気がしたから。
「教師として以前に、人としてさ。
その人が既に辞めたことを、自分たちの都合で無理やりやらせるのは、絶対に違うんじゃないかなって思ったんだ。
だから、勧誘は一度もしてないよ」
その考えに相当な自信を持っているのだろう。私の目を見て、廣谷先生は迷うことなくそう言い切った。
それに対して私は、ほんの少し感心というか、感動というか…。とりあえず、私の中で先生の株価が上がった。
「…それはそれとして、一つだけ質問したことはあるんだ。
この試合で、投げてみないかってね」
「…断られた感じですか」
それに対して、先生は小さく頷いた。
あの後も快音は響いたものの、無失点でスリーアウト。さっさとベンチに戻りたいなと、グローブをジャージの破けた場所に被せて軽く駆ける。
「ナイスプレーだった」
さっきまで駆けるように歩いていた三塁手の月樹さんが、ベンチ手前で私に一言声をかけてきた。
上品な紫色の髪が、帽子の調整をする場所の下の部分に一本結びをすることによって、綺麗にまとめられている。
左目の方に流している前髪と、帽子の影の中には綺麗な顔立ちとつり目が隠されていた。
「どうも」
軽く会釈をしてからベンチに入る。
すると、聞きなれない声で注目を集めてしまったのか、使命感のように数人が近づいてくる。
「次もかっこいいプレー頼むよ、桜花ちゃん」
その中の一人、バットを片手に持ち、ヘルメットを被った長い白髪が、私の頭を帽子越しにぽんぽんと叩きながらそう言った。しかし、ベンチ内はほんの少し暗く、その上ヘルメットの影で顔はほとんど見えない。だから、どんな目つきをしていたかは私には分からなかった。
それでも、口角を上げたニヤケ顔だったのは、その言い方と行動と一瞬見えた口元で察せた。
「どうも」
私の声を背に受けつつ、彼女はベンチから出ていく。
…誰だったのだろうか。いや、野球部であることは当然わかる。
しかし、そのポジションにいてくれないと名前がわからない。私はスタメン表を覚えているが、まだポジションと顔が結びついていないのだ。
いや、一番か二番なのはその装備と行動から分かる。なら消去法で…
「お姉ちゃんだよ、私の」
甘城六花に真横からそう言われて、相手が二番打者の甘城四季さんだと分かった。
言われてみれば、妹の方も白髪だ。それでも気づかなかったのは、纏う雰囲気や声の質感がかなり違う系統だからだろう。多分、姉はつり目で表情豊かで口数が多いのだろうなと、教室での妹の方の様子から予想しておいた。
「あと、良い守備だったよ」
甘城六花のその言葉に続いて、投手の笹原さやかも近寄ってくる。
「あの、私からも礼をさせて。あれのお陰でちょっと冷静になれたから、ありがとう」
ちょうど肩につく長さのミドルヘアーは、パステルピンク色だった。しかし、名前や髪色のイメージと異なり、彼女の顔つきは枯れている大人そのものだ。
どこか精力が抜け落ちていて、ピッチャーには向いていないだろうなと余計ながら考えてしまった。
「…どうも」
軽く会釈をしたのちに、私はベンチへと腰掛ける。
ベンチに残る一部の選手たちは、まだ私のことを囲んでいる。まるで転校生になった気分だ…。
「応援してあげないと、三谷さん拗ねちゃうよ?」
何かを聞こうとしたであろう選手たちを遮るように、最前列端にいた廣谷先生がそう言った。
当然、試合の様子を見なければと考えたのだろう。先生の方を見た選手たちは、一斉にグラウンドの方へ向いた。
私もその視線につられてみると、ちょうど投球練習が終わったタイミングだったようだ。大きく、試合再開のコールが響いた。
明るい緑髪が一度こちらの方を向いて、"あとでね"と囁くような声を発した。
"うん、またあとで"と、私も小さく返す。
それを合図に、各々ベンチに着席し始めた。
ベンチの選手が試合を眺めているのを尻目に、私はグローブをつけたままの左手をじっくりと眺めた。先ほどのプレーが、まだ脳内のこびりついて離れない。
興奮は、未だに冷めないままだった。
「さすが桜花ちゃん、守備もサイコーだった!」
隣に座っていた双葉さんが、急に顔を近づけてきてそう言った。ベンチから注目を浴びない程度の声量ではあったが、その行動には流石に驚く。
…なんか、妙にテンション高いな。楽しそうなのはいいことだが、ちょっと距離感がバグってる気がする。
「まぁ、外野は元からやってたんで、これぐらいは…」
小さく言葉を返している最中、パシンとミットの音が響いた。私はその音の方ではなく、それを鳴らしている方を見た。
また、ミットの音が響く。それに空振り音が混ざり、遅れてストライクコールとアウトコールが響く。
熱は、現実によって急速に冷却された。




