キャッチボール
30分弱かけて家に着く。いつもより早い、4時を少し超えたぐらいの時間に。当然、まだ日は高い。
手に持ったスポドリは、夏への移り変わりを予感させる強い日差しと暑い気温のせいか、いつの間にか温かくなってしまった。
「おかえり、姉貴」
ダイニング兼キッチンに入ると、リビングのソファの方から声が聞こえた。私からの角度では、声の主は見えない。
「ただいま、若葉。…野球部は?」
「テスト二週間前につき休みー」
ソファに寝転がっているであろう彼は、ぶっきらぼうにそう答えた。…テスト週間にしては、やけに長い気がする。まぁ、そんなことどうだって良いか。
「ずいぶん息荒いな」
誰に話しかけたのか想像もできないその言葉を無視し、私は冷蔵庫のお茶を取り出した。
コップを一つ取り出し、それにお茶をなみなみ注ぐ。ゴクゴクと一気にそれを飲んだ私は、身体中に水分が行き届いたことを実感できた。
手に持っていたスポドリは…、とりあえずお茶と共に冷蔵庫に入れておく。
さて、なぜ彼がここに居るか、なんとなく察しのついている私はすたこらさっさと自分の部屋に戻ることにした。
「なら、勉強頑張れ」
「キャッチボール付き合ってくれ」
同じタイミングに発声された音が混ざり合う。しかし、私にはその言葉が鮮明に聞こえた。
振り返ると、ソファの背もたれに左手をかけ、膝を座面に乗せているだろう彼と目があった。
「勉強がん」
ため息をゆっくりとついてから、もう一度言い直そうとすると、黒色のグローブが飛んできた。
それは、玄関に置かれていた私のグローブだ。やはり、持っていたのはこいつだった。
「頼むよ、ボール触ってないと落ち着かないからさ」
「チームメイトでも誘ったら?」
「今すぐにでもやりたいんだよ。姉貴にも分かるでしょ、この感覚」
同意を求めるその言葉が、妙に私を責め立てているように感じた。その事に憤りを覚えた私は、絶対に付き合ってやるものかと意地を張ろうとする。
そのはずだが、私の体は自然と手にグローブをはめていく。
同時に、体がまた少しづつ火照っていく。いつの間にか、憤りは消えていた。
「…まぁ、なら良いけどさ。制服着替えてくる」
「待っとくからゆっくりで良いぞ」
今すぐやりたいってのはなんだったんだ。心の奥底から思ったその言葉は、口から出てこなかった。
私は学校の通学路にあるひっそりとした小さな公園に、彼を引き連れた。
いつもの…とはもう言えないか。まぁ、昔よく遊んだ公園でない理由はもちろんある。
「ほら、誰もいないでしょ」
誰かを言い聞かせるように、私はそう呟いた。
「そりゃ誰もいなかったって言われたから、わざわざここに来たんだからな。居られちゃ困る」
当たり前のことを言い返してくる弟に、私は何も言わなかった。
「とりあえず距離短めで」
そう言いつつ、彼は私から距離を取る。
その後、ポケットに入れていただろう白球を投げてきた。
山なりに飛んでくるそのボールは、当然私が目的地。だから、私はグローブを構えた。
ポスっと、なんとも引き締まらない音が鳴った。その音が、頭に染み付いて離れない。グローブに入ったボールからも、全く目が離せない。
ふと、あの時の歓声がフラッシュバックする。私に向けられているものではない歓声を聞きながら、何も入っていないグローブをじっと見つめたあの夏の日のそれが。
秒針を数回刻む程度ほどの短い時間。しかし、数刻とも思えるほど長い時間、私はボールを見続けていた。
その後、グローブで覆いながらそのボールを右手で握りしめた私は、なぜあの時は取れなかったのだろうかと、何度も、何度も自問した。
「…やっぱ、未練タラタラじゃん」
静寂を切り裂いて、彼は私にそう言った。怒りと呆れ、様々な感情をその一言に乗せて。
「いや…、…ボールにハエがくっついてたもんだからさ」
咄嗟に出た嘘はまったく機能を果たしていないようで、ため息を吐かれてしまった。
「なんで、…いや違うな。俺にとって、姉貴が野球を辞めようが続けようが、そんなことはどうだって良い」
目線を下に逸らして、彼はそう言った。
…再び静寂が訪れる。それに耐えられなくなった私は、ボールを投げつつ自分の疑問を口にする。
「…じゃあ、あんたは何が言いたいのさ。わざわざこんな狭い公園にまで連れてきてさ」
シリアスになってしまった空気を茶化すような口調と、ちょっとした冗談。"ここに連れてきたのはあんただけどな"、と苦笑しながらでも言ってくれれば、この話も終わりにできるのだけど。
「助っ人、引き受けてくれ。頼む」
普段は少し…いや、かなり世間を舐め腐ったような目つきをしているやつだが、ジッと睨むようにとも表現できるそれを見てしまった私は、冗談を言えるような心境ではなくなってしまった。
…助っ人、ねぇ。
全く、私はただ……。
…ただ、姉弟仲良くキャッチボールしたかっただけなのに。




