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戸惑い

 遠くの方に……誰かが居る。


 それは、年端もいかないような小さな少女のように見える。

 華奢な身体。

 小さな頭。

 どうやら、こちらを向いて立っているらしい。


 しかし、ピントが合わないみたいに視界がぼやけていて、誰なのか輪郭すらはっきりと掴めない。

 目を細めてみても、何も変わらなかった。

 僕との間の距離が遠すぎて、そう見えているのだろうか。

 それとも、周囲を覆う薄暗い靄のせいなのだろうか。


 不思議なことに、辺りには何も見当たらない。

 壁も、天井も、床でさえも。

 自分がどこに立っているのかすら分からない、暗く閉ざされた空間。

 そこに、少女だけがぽつんと立っていた。

 声をかけようとする。

 しかし、思うように声が出ない。

 すると―――。


 ―――思い……。


 ……?

 なんだって?


 今、何か言ったのか?


 ―――思い出して……。


 か細い声が聞こえた。

 遠くから響いてくるようでもあり、すぐ耳元で囁かれているようでもある。

 奇妙な声だった。

 少女は動かない。

 ただ、こちらを見つめ続けている。


『思い出して、勇者ルーク』


「―――っ!」


 僕は息を切らしながら、ゆっくりとベッドから起き上がった。

 心臓が激しく脈打っている。

 何度か深呼吸を繰り返し、部屋の中を見回した。

 見慣れた天井。

 柔らかな寝具。

 窓から差し込む朝の陽光。


 ……夢だ。

 また、あの夢を見たんだ。


「また……」


 僕は額に手を当て、小さくため息をついた。


「また、この夢か……」


 世界を呑み込もうとした災厄である魔王。

 奴を倒してから、早くも数週間が経とうとしていた。

 最後の戦いの後、僕とイリアは母国であるエスト国の都へと、何とか帰還を果たすことができた。

 そこでは、疲れ果てていた僕たちのために、国がわざわざ別荘まで用意してくれていたのだ。

 最初の数日間は、文字通り泥のように眠っていた。

 身体のあちこちに残っていた痛みも、時間の経過とともに少しずつ和らぎ、ようやく普通の生活が送れるようになってきた。


 しかし、ここ最近になって同じような夢を頻繁に見るようになった。

 閉ざされた暗い空間に、その遠くに居る少女のような何か。

 顔も、服装も、はっきりとは分からない。

 それなのに、不思議と少女の姿だけは、目を覚ました後も頭に残っている。

 そして夢の中の少女は、毎回僕の名前を呼んで、こう言うんだ……。


『思い出して』


「……思い出したいのは、僕の方なんだけど」


 思わず、独り言が漏れた。

 魔王との最後の決戦の時、僕はその戦いの一部始終の記憶を全て失っている。

 イリアによれば、僕は魔王の部屋に現れた謎の空間に引きずり込まれて、一対一の戦いを強いられていたらしい。

 そしてしばらくすると、空間が突然消滅を始めて、意識を失った僕だけが戻ってきたのだとか……。


 しかし、それを聞いても僕は何も思い当たることがない。

 その話を聞いても、まるでかつての伝記を聞かされているような遠い気分になってしまう。

 それが自分自身の身に起こった出来事だという実感すら、どこか薄いのだ。


 確かに僕は魔王城にいた。

 確かに仲間たちと、魔王の間へと辿り着いた。

 けれど、そこから先の記憶だけが、綺麗に抜け落ちている。

 一体、あの最後の戦いで何があったのか……。

 少女の声と、失われた記憶。

 この二つは、何か関係しているのだろうか。


「はぁ……あまり深刻に考えてもしょうがないよな」


 僕は軽く首を振った。

 考えたところで、今すぐ答えが出るわけでもない。

 それに、せっかく平和になったというのに、いつまでも部屋に閉じこもっているのもどうかと思う。


「……そうだ」


 僕は立ち上がると、久々に出かけるための身支度を整え始めた。

 夢には悩まされているが、体調の方はありがたいことに、順調に回復に向かっていた。

 今日からなら、ある程度街を歩いても問題はないだろう。

 何より、あの帰還の日以来、都をゆっくり見て回る機会がなかったのだ。

 昔から知っている街が、今はどんな様子になっているのか。

 少し気になっていた。


「イリアは心配するかもなぁ……ごめん、イリア」


 今はこの部屋には居ない彼女に残すように、一言だけお詫びを述べる。

 どうせ帰ってきたら、また小言を言われるかもしれない。

 そんなことを考えると、思わず苦笑してしまった。

 僕はフードを深く被りながら、すっかり慣れたこの部屋を後にするのだった。


 *


 エスト国の中心であるこの都は、常にたくさんの人々で賑わっている。

 広い石畳の大通りには、様々な商店が軒を連ね、道行く人々の話し声や商人たちの呼び込みが絶えず響いていた。

 焼きたてのパンの香り。

 露店に並べられた色鮮やかな果物。

 通りの向こうから聞こえてくる、楽器の楽しげな音色。


 魔王討伐から数週間が経った今でも、街のあちこちには祝賀の名残が残っていた。

 建物の間に掲げられた横断幕も、まだ取り外されていない。

 広場では、何人かの子供たちが勇者と魔王の戦いを真似して遊んでいた。

 その光景を見て、僕は思わず笑みを浮かべた。

 実に…平和だ。

 こんな光景を、また見られるようになるなんて。


 僕は大騒ぎにならないように、なるべく目立たない服装で顔も隠すように努めていた。

 普段の鎧や剣も、今日は身につけていない。

 ただの街の住人に見えるような、簡素な服装だ。

 それでもやはり、分かる人には分かってしまうようで、何人かは僕を見かける度に喜んで声をかけてくれた。


「え!! まさか、勇者様!? お身体は大丈夫なんですか?」


「ああ。おかげさまで、もう随分と良くなりましたよ」


「勇者のお兄ちゃん~~! あたしたちの世界を守ってくれてありがとーー!」


「はは、どういたしまして!」


「勇者様、勇者様! 何か欲しいものがありましたら、遠慮なく申してくださいね!」


「いやいや、そんなに気を遣わなくても大丈夫ですよ」


 正直に言うと、僕はその熱量にかなり圧倒されていた。

 勇者として立ち上がり、仲間と旅をするときも、たくさんの励ましを受けていた。

 街を訪れるたびに、食事を分けてくれる人や、無事を祈ってくれる人もいた。

 そうした人々の厚意には、何度も助けられてきたものだ。


 でも、なんというか、それとこれとはまるで別の話のようだ。

 皆は文字通り僕を英雄として、少し大袈裟なくらいに気持ちを込めて接してくれる。

 商人たちは、自分の店の商品をただで持っていってほしいと勧めてくるし、道を歩けば知らない人から何度も頭を下げられる。

 中には、僕の手を握ろうとしてくる人までいた。

 こんなこと、以前なら考えられなかった。

 嬉しさと少しの戸惑いを感じながら、僕は改めて自分たちが成し遂げたことの大きさを感じたのだった。


「……ん?」


 ふと、路地裏の方が気になった。

 大通りの賑やかさとは対照的に、建物と建物の間に延びる細い路地は、昼間だというのに薄暗い。

 そこから、何やら言い争うような声が聞こえてきたのだ。

 少し覗いてみると、ガラの悪そうな男二人組が、一人の女性相手に強引に詰め寄っていた。


「や、やめてください! 嫌だって言ってるじゃないですか!」


「お茶するだけつってんだろ姉ちゃん~、連れないこと言うなよなぁ?」


「そうそう、そんなに警戒しなくてもいいじゃねぇかよ」


 男たちはにやにやと笑いながら、女性の進路を塞いでいる。

 女性が横を通り抜けようとすると、そのたびに立ちはだかっていた。

 ……全く。

 世界が平和になっても、それでもまだこんな典型的な小物が居るものなのか…。

 僕は呆れながら、そんな彼らに近づいた。


「ねぇ、君たち。もうやめてあげないと」


「ああああぁぁん??」


 明らかに単細胞そうな男が、睨みつけるようにこちらへ振り向いた。

 肩幅が広く、腕も太い。

 それなりに身体を鍛えているらしいが、女性に詰め寄るためにその力を使うのは、感心しないな。


「兄ちゃんよ、つまんねぇ正義感で俺らに口出すとなぁ……」


「……あ? お、おい! こいつもしかしてぇ!」


 どうやら、もう一人の男は僕が誰なのか気づいたようだ。

 彼の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「こうなるんだよぉ!」


 それでも聞く耳を持たない目の前の男は、勢いよく拳を振り上げた。

 僕は片手で制するように、その手首を掴んだ。

 もちろん素人相手なので、手加減はしているけど。


「ぐ……!」


「ほら、もうやめよう。僕も乱暴なことをするつもりは―――」


 ミシッ。


 ……ん?

 掴んでいる男の手首から、鈍い嫌な音が聞こえた。

 乾いた木の枝を、無理やり曲げたときのような音だった。


「いでででぇ!? おれ、折れちまうぅぅぅ!!」


「え? 僕、そんなに力を入れてるつもりじゃ……!」


 僕は予想外の反応に、思わず掴んだ手首を離した。

 すると男は、よろめきながらその場に膝をついた。

 掴まれていた手首を抱えるように押さえ、苦痛に顔を歪めている。


 ……おかしい。

 確かに、動きを止めるために手首を掴んだ。

 けれど、骨が軋むほど強く握った覚えなんてない。

 それなのに……。

 そんな僕の戸惑いをよそに、もう一人の男は血相を変えて叫び始めた。


「ひぃぃ! やっぱり、こいつあの勇者だぁ!! 魔王を殺したバケモンだぁぁ!!」


「な、なんだと! 早く言えよバカ!」


「お前が聞こうとしなかったからだよ、バカ!!」


「う、うるせぇ! とにかく逃げるぞ!!」


 そんな不毛なやり取りを繰り返しながら、二人組は飛び出すように僕の前から逃げていった。

 路地の奥へと消えていく二人を、僕は呆然と見送った。

 ……なんだったんだ?

 あいつら、それなりに身体は屈強そうに見えたけど、まさか手首を軽く掴んだだけであそこまで狼狽えるなんて。


 僕は自分の手のひらを見つめた。

 何の変哲もない、いつもの手だ。

 指を曲げたり、開いたりしてみる。

 別に、何かが変わったようには見えない。


 ……まあ、いいか。

 とにかく、揉め事は収まったんだ。


「あの……! あなた、もしかして本物の勇者様……?」


 すると、先ほどまであの男たちに絡まれていた女性が声をかけてきた。

 イリアと同じくらいの年齢だろうか。

 特に派手な感じはないが、すらりとした体つきと、どこか色っぽさを感じる女性だった。

 先ほどまでの怯えた表情はすっかり消え、今は驚きと喜びの入り混じったような顔をしている。


「うん、とんだ災難だったね。君は……」


「わ、私はアルマと申します! あの、勇者様がわざわざ助けてくださるなんて、なんてお礼を言えばいいのやら……」


「いや、いいんだ。助けたいと思ったのは僕の方だから。それじゃあ、気を付けて帰るんだよ」


 僕は軽く手を振り、踵を返した。

 今日は久々の外出だし、あまり面倒事に関わってイリアを心配させたくもない。

 それに…先ほどの手首の感触が、まだ妙に気になっていた。


 しかし―――。


「あの! ま、待ってください!」


 僕が立ち去ろうとすると、それを遮るようにアルマは僕の前へ回り込んだ。


「ちゃんと……ちゃんとお礼がしたいのです。私の家に寄っていただけませんでしょうか……?」


「え? 君の家に?」


「お願いです……! 勇者様とこうして話せるなんて、本当に夢のようで……! どうか、ほんの少しだけでも!」


 アルマは両手を胸の前で組み、目をうるうるとさせながら、上目遣いで僕を見上げてきた。

 その必死さに、断ることの罪悪感がどんどん重くなっていく……。


 いや、別にお礼なんて必要ないんだけどなぁ。

 それに、知らない女性の家に突然上がり込むのも、何だか気が引ける。

 けれど、こうして必死に頼まれると、どうにも断りづらい。


「わ、分かったよ。少し家で話すくらいなら……」


 すると、文字通り花が咲くようにアルマの表情が明るくなった。


「やったぁ! それじゃ、周りの人たちに目立つ前に早速行きましょう!」


「ちょ、ちょっと……! 何もそんなに急がなくても……!」


 アルマは僕の手首を掴むと、嬉しそうに駆け出した。

 先ほどまで怯えていたのが嘘のような勢いだ。

 僕はその変わりように戸惑っていたが、アルマは気にせず、僕を引っ張るようにして走り出すのであった。


 *


 アルマの家は、街の中心部から少しだけ離れた閑静な区画にあった。

 賑やかな大通りとは異なり、こちらは人通りも少なく、時折、近所の家から生活音が聞こえてくる程度だった。


 アルマの家は、ミニハウスとまではいかないが、それは一階のみの簡素な家だった。

 白い壁に木製の扉。

 窓辺には小さな鉢植えが置かれ、玄関先も綺麗に掃除されている。

 恐らく、一人で住んでいるのだろう。

 アルマは僕を居間へ通すと、手際よくお茶の準備を始めた。


「はい、どうぞ♪」


「ありがとう」


 アルマは淹れたてのお茶とお菓子を、僕の前に並べてくれた。

 華やかな香りが漂い、それだけでも身体が優しく温まるような気がする。

 小さなテーブルを挟んで、僕たちは向かい合うように腰かけた。

 室内は綺麗に整頓されていて、外から差し込む陽光も心地よい。

 見ず知らずの人の家とはいえ、なかなか落ち着いた雰囲気だった。


「勇者様って、本当に凄いですよねぇ……」


「え? どうしたの突然」


「だって、あれだけみんなが魔王の存在に怯えている中、期待を一身に背負い立ち向かって……」


「そして、打倒魔王を本当にやり遂げてしまうのですから!」


 アルマの目がキラキラと輝いている。

 まるで、昔話に登場する英雄を目の前にしているかのような表情だった。


「あ、ありがとう。そう言ってくれて幸いだよ、あはは……」


 こうして面と向かって言われると、結構恥ずかしいものだな。

 僕は気を紛らわすように、お茶を一口すすった。

 少し甘みのある、飲みやすいお茶だった。

 アルマはそんな僕を、じっと見つめている。


 ……ん?

 何だろう。

 さっきから、やけに熱心に見られているような気がする。


「……ねぇ、勇者様」


 アルマの声が、一段階低くなったような気がした。


「……アルマ?」


 アルマはするりと僕の隣に座り直し、一気に距離を詰めてきた。

 さっきまで向かいに座っていたはずなのに、いつの間にか肩が触れ合いそうなほど近くにいる。

 ふわりと、彼女の髪から甘い香りが漂ってきた。


「勇者様ってぇ……お一人身ですか……?」


 その声はとても妖しく、有無を言わせないような重たい響きがあった。


「な、何が言いたいの……?」


「……もしですよ」


 アルマは僕の顔を覗き込むように、小さく首を傾げた。


「もし、まだ婚約とかされていないのでしたら」


 彼女はそこで一度、言葉を区切った。

 そして、僕の腕へそっと手を伸ばした。

 アルマが僕に密着して、腕を絡めてくる。

 まるでそれは、獲物を狙った蛇がじわりと巻き付いてくるような、背中が冷たくなる感覚だった。

 身体が、自然と強張る。


「私と、結婚して頂けませんでしょうか」


「は……? 結婚……!?」


 僕は動揺して、カップのお茶を零してしまった。

 テーブルに落ちたお茶が、じわりと広がっていく。

 しかし、そんなことを気にしている余裕はなかった。


 頭の中が混乱する。

 アルマとは、さっき路地裏で初めて出会ったばかりだ。

 名前を知ったのだって、つい先ほどのこと。

 お互いに、どんな人間なのかも分からない。

 こんなのはいくらなんでも、あまりに突然すぎる。


「ああ、どうかそんな顔なされないで……」


 アルマは、僕の戸惑いなど気にも留めていない様子だった。


「私は確かにお金も名誉もありません……それでも、私は勇者様に生涯尽くしますわ」


 アルマの細い指が、僕の首筋を伝う。

 その感触に、思わず肩が跳ねた。

 それは不気味なくらい冷たくて、まるで死人に撫でられているような気分だ。


「お望みでしたら、何時でもお相手して差し上げます。特殊な要望でも、なんでもお聞きしますわ」


「や、やめろ……!」


 僕は思わず言葉を荒げた。

 アルマの手から逃れるように、少し身体を引く。

 そんな提案を聞きたくて、ここに来たわけではないはずだ。

 僕は、困っている彼女を助けただけだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


「なんでだよ……! いくら僕を慕ってるからって、なんでそんな軽々しい提案を!」


「軽々しい……?」


 アルマは、鼻で笑った。

 それは明らかに嘲笑を含んでいた。

 先ほどまでの、感謝に満ちた柔らかな表情とはまるで違う。


「良いじゃないですか~、軽々しくても」


「なんだと……?」


「勇者様のお役目って、魔王を倒したことでもう終わったのでしょう?」


「これからはこの国の英雄として、生涯遊んで暮らせることが保証されているはずですわ」


 アルマは薄く笑っていた。

 口元は細い三日月のように曲がり、底知れない笑顔を浮かべている。

 そんな彼女の目は僕ではなく、『勇者の男』だけを見ているようだった。

 先ほどまで、その瞳には純粋な憧れが宿っているように見えた。

 けれど、今は違う。

 目の前に座っている僕自身のことを、見ている気がまるでしないのだ。


「私にその幸せを少し、おすそ分けして頂くだけで良いんですよ? それだけで、私は満足ですから」


 アルマはそう言いながら、また一歩、僕との距離を詰めてきた。

 その顔には、相変わらず薄気味悪い笑みが浮かんでいる。


 ……こいつ……!

 まさか、最初からこれが目的で僕に食いついたのか……!

 英雄の僕にあやかって、他の人が得られない地位を得るためだけに、こんな愚かなことを……!

 胸の奥から、嫌悪感が込み上げてきた。


 僕が誰なのか。

 どんな人間なのか。

 何が好きで、何が嫌いなのか。

 彼女はそんなことを一つも知らない。

 それなのに、僕の隣に居るだけで得られるものについては、随分と詳しいらしい。

 僕は、少しずつ息苦しくなってきた。


「やめろ……」


「はい?」


「もうやめろ!!」


 僕はアルマが恐ろしくなり、思わずその身体を振り払うように両手で軽く押した。


 そう。

 軽く押しただけのつもりだった。

 彼女から離れたかっただけだ。

 決して、傷つけるつもりなんてなかった。


 しかし―――。


 ドカッ!!


「ぎゃ……!?」


 両手で押した次の瞬間、アルマは向かいの壁に全身を叩きつけられていた。

 鈍い衝撃音が、狭い室内に響き渡る。

 テーブルの上の食器が小さく震えた。


 僕は何が起こったのか、自分が何をしたのか、一瞬理解が追いつかなかった。


 ……え?

 今、何が……?


 アルマは壁にもたれるような姿勢で、苦しそうに顔を歪めていた。


「ちく……しょう……が……」


 そう言いながら彼女は僕を睨み付けると、そのまま地面に力なく崩れ落ちた。


 ―――静かだった。


 つい先ほどまで、あれほど賑やかに話していたアルマが、今は何も言わない。

 テーブルには、飲みかけのお茶が残されている。

 小さな窓からは、変わらず穏やかな陽光が差し込んでいた。

 後ろめたい暗闇のような静寂が、この家を包んでいた。


 う、嘘だ……!

 僕はそんなことになるほど、強く押したわけじゃないはずだ……!

 さっきの男の時といい、一体全体どうなっているんだ……。


 僕は震えるような感覚の残る両手を見下ろした。

 何も変わっていない。

 ごく普通の、自分の手だ。

 なのに、どうして……。


「あ、アルマ……」


 恐る恐る、地面で力なく伸びている彼女に近づいた。

 膝をつき、そっと声をかけてみる。


「アルマ……? 聞こえるか……?」


 返事はない。

 嫌な予感が、胸の奥を締め付けた。

 僕は慌てて彼女の様子を確かめた。


 意識は飛んでいるが、呼吸はしており、脈拍も大きく乱れてはいないようだった。

 幸いなことに、少なくとも命に関わるような様子は見られなかった。

 けれど、あれだけ強く壁に叩きつけられたのだ。

 見た目だけでは分からない怪我をしているかもしれない。


 ……どうしよう。

 僕は、どうしてこんなことを……。

 助けたはずの女性を、今度は自分が傷つけてしまった。

 その事実が、ひどく重くのしかかってきた。


 僕は彼女をそっと抱き上げ、寝室まで運んだ。

 ベッドの上に寝かせ、もう一度呼吸を確かめる。

 アルマは目を閉じたまま、静かに横たわっていた。

 このまま居て、目を覚ますのを待つべきだろうか。

 それとも、誰かを呼んでくるべきなのだろうか。

 頭の中では、そんな考えが次々に浮かんでくる。


 しかし、どうしてもあの瞬間が、頭から離れなかった。

 両手で押した感触。

 壁に叩きつけられた身体。

 彼女の、最後の表情。


 ……怖い。


 自分が、何をしてしまうのか分からないことが。

 僕はその場に留まることができず、逃げるように家を後にしてしまった。


 *


「はぁ……はぁ……」


 緊張なのか、それとも不安からなのか。

 僕の息は、激しい運動の後のように上がっていた。

 街へ戻ってきた僕は、ただひたすら歩き続けていた。

 どこへ向かうのかも、はっきりとは考えていない。

 とにかく、あの家からは離れたかった。

 アルマの顔を、これ以上思い出したくなかった。

 けれど、思い出さないようにすればするほど、あの薄い笑みが頭に浮かんでくる。


 先ほどまで温かく感じられた陽光が、今は妙に眩しい。

 人々の話し声も、やけに大きく耳に響いてくる。

 周りの人々は、そんな僕を見ても声をかけてくれる。


「あ! 勇者様!」


「勇者様、大丈夫ですか?」


「勇者様、お時間があればあなたに紹介したい話が……」


 僕は気にしないように、ただ前だけを向いて歩き続ける。

 なるべく、誰とも目を合わせないようにした。

 それでも、何人もの人々がこちらを見つめているのが分かった。

 みんなが、僕を見ている。


 ……でも。

 それは本当に『僕』を見てくれているのか?

 本当はみんな、『自分に都合のいい勇者』だけを見たいんじゃないのか?

 さっきのアルマだって、最初は心から感謝しているように見えた。

 僕に助けてもらえたことを、あんなにも喜んでいた。

 それなのに……。


 僕を見るみんなは笑っている。

 その笑顔は、本当に信じていい笑顔なのか?


「勇者様、よろしければこちらへ!」


 通りの向こうから、誰かが手を振っていた。


「勇者様! 是非、一度お話を!」


 別の誰かが、嬉しそうに近づいてくる。

 皆、笑っている。

 優しく、親しげに、何の疑いもない笑顔を浮かべている。

 けれど……。

 アルマのあの不気味な笑顔が……。

 行き交う街の人々に、重なるように見えてしまう。


 さっきまであんなに美しく感じられた街並みが、まるで別の場所になってしまったようだった。

 通りに掲げられた横断幕。

 華やかな飾り。

 笑い声。

 そのどれもが、つい先ほどまでは平和の象徴だったはずなのに。


 僕はフードをさらに深く被った。

 ……帰ろう。

 もう、ここには居たくない。

 自然と足早になっていく。

 やがて僕は、ほとんど逃げるようにして大通りを後にした。


 *


「お帰りなさいませ。ルーク……様……?」


 療養している別荘に帰ると、ハウスキーパーの女性が出迎えてくれた。

 彼女はいつものように丁寧に頭を下げたが、顔を上げると、少し驚いたように僕を見つめた。

 その反応から察するに、僕はとてもじゃないが優れた顔色には見えないのだろう。


「……すまない、僕は帰ることにするよ」


「へ? 帰るって、どこに?」


「サウスホール村だ。僕が育った故郷の村。今からもう帰るから」


「な、なぜ突然? まだそのお身体も完全には……! ちょ、ちょっと、ルーク様!」


 僕はそれだけ伝えると、さっさと二階の部屋に戻り、身支度を整え始めた。

 荷物を広げ、必要なものだけを手早くまとめていく。

 衣服に、旅に必要な道具。

 それから僅かな身の回りの品。

 せっかく用意してもらった立派な別荘だというのに、こんなふうに飛び出すことになるとは思わなかった。

 けれど、今はどうしてもここに居たくなかったんだ。


 僕の故郷の村は、ここの都とは比べることもできないくらい小規模で慎ましいところだ。

 大きな建物も、賑やかな商店街もない。

 畑と、古い家々と、のんびりとした時間が流れるだけの村。

 そこには、子どもの頃からの古い知り合いが住人のほとんどだ。


 僕が勇者になる前から、僕のことを知っている人たちだ。

 僕がまだ剣をまともに扱えなかった頃も、泥だらけになって遊んでいた頃も知っている。

 きっと、あの人たちなら……。

 逆に言えば、そこでならここよりも、落ち着いて過ごせるような気がする。

 早く帰りたい焦燥感を感じながら、僕は荷物を一つにまとめた。


「よし……! これで後は………」


 そこで、あることに気づいて思いとどまった。


「……イリア」


 そうだ、彼女に何も言わずに出ていくわけにはいかない。

 僕は机に向かい、筆と紙を取り出した。

 サウスホール村に帰ることは、イリアにも伝えておかないといけない。

 それでも、僕が一人でここを発ったことに、彼女がショックを受けるのは間違いないだろうけど。


 思えば、何度も彼女には心配をかけてきた。

 魔王城でも、帰還した都の入口でも。

 ようやく落ち着いたと思ったら、今度は勝手に街へ出かけて…こんな有様だ。

 ……情けないな。


 僕は一度、筆を止めた。

 アルマのことを、どう説明すればいいのだろう。

 いや、そもそも僕自身が、何が起こったのか分かっていない。

 とてもではないが、今の気持ちをうまく文章にできそうになかった。

 結局、手紙には故郷へ帰ること、少し一人で休みたいことだけを書き残した。


「ごめん、イリア。僕って、やっぱり心配ばかりかけてるよな……」


 僕は書いた手紙をハウスキーパーに渡し、イリアが戻ったら必ず手渡してほしいと頼んだ。

 彼女は困惑した様子だったが、最後には静かに頷いてくれた。


 僕はそのまま別荘を出ると、村まで運んでくれる馬車を何とか確保して乗り込んだ。

 馬車の客席のカーテンを閉め、とにかく誰にも見られないように注意した。

 やがて、車輪がゆっくりと動き始める。

 石畳の上を進む振動が、身体に伝わってきた。

 外では、相変わらず人々の楽しげな声が響いている。

 けれど、僕はカーテンを開けようとは思わなかった。

 もう、誰とも顔を合わせたくなかったのだ。


 都を抜けてしばらくしたあたりで、一度だけカーテンを開けて後ろを振り返る。

 エスト国の華やかな都が、どんどん遠ざかっていく。

 高くそびえる城壁。

 その向こうに連なる建物の屋根。

 遠くに見える、あの立派な王宮。

 そして、僕たちのために用意された、あの別荘も。


 数週間前、僕はこの街に帰ってこられたことが、あんなにも嬉しかった。

 もう戦わなくていい。

 ようやく平和な日々を過ごせる。

 そう思っていたのに……。


 僕は、そっとカーテンに手をかけた。

 その奥に見える空からは、いつの間にか灰色の分厚い雲が現れていた。

 青かった空が、少しずつ、その色を失い始めていた。

 僕は何も言わず、静かにカーテンを閉めたのだった。

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