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帰る場所

 僕はエスト国の都から離れて、故郷のサウスホール村へと向かっていた。

 都からサウスホール村までは、複数の地域を横断しなければならない。

 最初に乗った馬車だけでは辿り着けず、途中の町で違う馬車に乗り換える必要すらあった。

 ここ数年間は都に帰ることすらままならない旅を続けていたのだ。

 故郷までの道のりも、すっかり久しぶりになってしまった。


 それでも、半日ほどかけることで確実に村には近づいていた。

 広々とした道は段々と狭くなり、所々に舗装の老朽化が目立ち始めた。

 石畳の隙間から雑草が伸び、道端には小さな水たまりが残っている。

 馬車が通るたびに土埃が舞い上がり、窓の外には広々とした田畑や、まばらに建つ民家が見えるようになってきた。

 一見すると寂れているように思えるが、僕にとっては慣れ親しんだ安心できる光景だ。


 ああ、そうだ……この道だ。

 子どもの頃、友達と一緒に走り回った道。

 よく転んで膝を擦りむき、村の大人たちに叱られたこともあったっけ。

 そんな昔の記憶が、窓の外の景色とともに少しずつ蘇ってくる。


「あ、ここです! ここで降ろしてください!」


 ようやく僕は、村の入口に辿り着いた。

 馬車がゆっくりと停車する。

 ここまで丁寧に送り届けてくれた御者にお金を渡し、僕は荷物を抱えながら馬車を降りた。


「本当に、ありがとうございました」


「いえいえ、お気をつけて!」


 御者はそう言いながら軽く帽子を上げると、馬車を走らせて去っていく。

 僕はその後ろ姿をしばらく見送った後、改めて目の前の村を見つめた。


『ようこそ、緑豊かなサウスホール村へ』


 村の入口にある古びた案内板には、そう書かれている。

 ここが僕が生まれ、育った場所だ。

 何年も離れていたはずなのに、この古臭い看板も、近くに生えている大きな木も、ほとんど昔のままだった。

 懐かしい。

 ……でも、不思議だな。


 こうして村の入口に立っているというのに、なぜか帰ってきた実感があまり湧いてこない。

 勇者として魔王を倒す決意を固めた時は、もう生きて故郷へ戻れない覚悟も決めていた。

 もし生きて帰れたなら、どんな気持ちになるだろう。

 昔は何度も、そんなことを考えていたものだ。

 しかし、今はこうして帰ることができたなんて、まるで夢のようだった。

 僕は大きく息を吸い込んだ。

 土と草の匂いが、胸いっぱいに広がっていく。


「……ただいま」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。


「ルーク……?」


 不意に、近くから声がした。

 振り返ると、畑仕事をしていたおじさんが、驚いたようにこちらを見つめていた。

 その手から、持っていた農具が滑り落ちる。

 ガシャン、と乾いた音が響いた。


「……え?」


 おじさんは何度か目を瞬かせると、僕の顔をじっと見つめた。

 そして、次の瞬間。


「ルークじゃないか! よっしゃあ! あのルークが帰って来たんだあ!!」


 それは、村中に響き渡るほどの大きな声だった。


「えっ、ちょっと……!?」


 僕が何か言うよりも早く、おじさんは畑から飛び出してきた。

 すると、その大きな声に反応して、村の各所から人々が集まってきた。


「何だって!? ルークが!?」


「おい、本当か!?」


「ああっ! ルークだ! 本当に帰ってきたんだね!」


 気づけば、僕の周りには大勢の村人たちが集まっていた。

 僕を見た途端に、思わず涙を流す人。

 踊るように跳ね回り、生還を祝う人。

 何度も肩を叩いて、笑いながら声をかけてくれる人。

 村中が突如として、激しい歓喜の輪に包まれたのだ。


「よく無事に……! 本当に、本当に良かったなぁ……!」


「ガハハ! だーから言っただろう!」


「ルークの坊主なら、魔王如きに負けるわけねぇって、俺ぁ信じてたんだぜ!」


「あはは……皆さん、お久しぶりです…!」


 僕は少し照れくさくなりながら、何度も頭を下げた。

 懐かしい顔ばかりだった。

 少し老けた人もいれば、僕の記憶より随分と背が伸びた子どももいる。

 けれど、その笑顔や声は、昔とほとんど変わっていない。


 僕は生まれた時から、ここの村人たちに育てられてきたも同然だった。

 というのは、僕は物心がついた時から家族にあまり恵まれてこなかったのだ。

 父はエスト国の勇敢な兵士だったが、僕が生まれてすぐに戦争で命を落としたらしい。

 母親は、その後を追うように病気で早くに亡くなってしまった……。

 だから、僕には両親と一緒に過ごしたという記憶がほとんどない。


 それでも、決して孤独な幼少期だったわけではなかった。

 村人たちはそんな僕を憐れむのではなく、村全体で僕を息子のように大切にしてくれたのだ。

 鍛冶屋のおじさんは、僕に剣術の稽古をつけてくれた。

 八百屋のおばさんは、いつも美味しいものを食べさせてくれた。

 学校の先生は、わざわざ僕のために時間を別に設けて授業もしてくれたっけな。


 剣術の稽古で疲れ果てて帰ってきた日。

 先生に叱られて落ち込んだ日。

 友達と喧嘩をして、泣きながら村を歩いていた日。

 そんな時には、いつも誰かが声をかけてくれた。

 僕には、血の繋がった家族はほとんどいなかった。

 けれど、この村そのものが、僕にとっては大きな家族のようなものだったのだ。


 そして何より、この村の村長であるラスリーさんには、とても大きな恩がある。

 ラスリーさんは、自分の家の部屋を僕に無償であてがってくれたんだ。

 それもただ場所をくれたわけではなく、僕のことをもう一人の家族のように、ずっと世話をしてくれた。

 食事を共にして、勉強を見てくれて、時には厳しく叱ってくれたこともあった。

 僕が勇者として旅立つことを決めた時も、最後まで話を聞いてくれたのはラスリーさんだった。

 その人がいなければ、今の僕はなかったと言っても過言ではないだろう。


「ルーク……」


 その時だった。

 僕の周りにできた人だかりをかき分けるように、一人の老人が歩み寄ってきた。

 ……ラスリーさんだ。


 少しやつれた顔だった。

 白髪も、前より増えている気がする。

 背中も、心なしか以前より丸くなったように見えた。

 それでも、その優しく澄んだ瞳はずっと変わっていない。

 僕は思わず笑顔になった。


「ただいま、ラスリーさん」


「……ああ、お帰りルーク」


 お互いに、言葉数は多くはなかった。

 それでも、この短いやり取りには、言葉にできないたくさんの思いが込められている。

 ラスリーさんは、僕の肩にそっと手を置いた。

 その手は昔と変わらず温かかった。


「……疲れたろう、ルーク。まずはゆっくり私の家で休みなさい」


「お前の部屋はずっとそのままにしてある。帰ってくると信じて、毎日掃除もしてたんだ」


「ありがとうございます、ラスリーさん」


 僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 ずっと、僕の帰りを待っていてくれたんだ。

 しかも、いつ帰るか分からない僕のために、部屋の掃除までしてくれていたなんて……。

 ラスリーさんは僕の顔を見て小さく頷くと、手を二回ほど叩いた。

 パン、パン、と乾いた音が辺りに響いた。


「さあ、皆! 気持ちは分かるが、ルークに道を開けてやりなさい! 今の彼には休息が必要なのだ!」


「は、はい! すみません、村長!」


「そうだな、疲れてるだろうしな!」


「ルーク! また元気になったら、ゆっくり話そうな!」


 人々は名残惜しそうにしながらも、僕たちのために道を開けてくれた。

 相変わらず凄い統率力だ。

 それもそのはず、ラスリーさんは三十年以上もここの村長を一任している。

 リーダーシップがあるだけでなく、村の皆が困窮しないように、あらゆる努力を惜しまず、この村を守ってきたのだ。


 村に何か問題が起これば、まず最初に動くのはいつもラスリーさんだった。

 収穫が少ない年には村人たちの生活を気遣い、身内同士で揉め事が起きれば、間に入って話を聞いてくれた。

 そうして自然と、この村の誰もがラスリーさんに対して頭が上がらない状態になっていった。

 僕にとっても、そんな彼は尊敬すべき大人だった。

 そして、何よりも大切な家族の一人だったのだ。


 *


 村の人たちの温かい視線を感じながら、僕とラスリーさんは家まで歩いて向かうことにした。

 道の両脇には、昔から変わらない家々が並んでいる。

 窓辺には洗濯物が干され、どこかの家の台所からは、夕食の準備をしているらしい香りが漂ってきた。

 道端では小さな子どもたちが遊んでいたが、僕たちに気づくと嬉しそうに手を振ってくれる。

 そんな光景を見ていると、少しずつ肩の力が抜けていくような気がした。


 都のように華やかではない。

 大きな建物も、豪華な商店もない。

 けれど、ここには僕の知っている生活があった。


 周りの家からは少しだけ離れたところにある二階建ての一軒家。

 ここがラスリーさんの家だ。

 来客にも対応できるように、他の家よりは広めに作られているが、決して豪邸というものではない。

 屋根も壁も、長い年月の中で少しずつ色褪せている。

 けれど、手入れは行き届いていて、玄関の周りも綺麗に掃除されていた。


「さあ、入りなさい」


「はい!」


 家の中に入った途端、懐かしい家の匂いを嗅いで、僕は思わず童心に帰ったような気持ちになった。

 古い木材の匂い。

 台所から微かに漂う、香辛料の香り。

 どこか埃っぽいのに、不思議と落ち着く空気。


 ああ……。

 本当に、帰ってきたんだな。


 僕はそのまま早足に、自分の部屋がある二階へと上がった。

 階段の軋む音まで、昔と同じだった。

 部屋の扉の前までくると、僕は少しの間立ち止まっていた。


「………」


「おい、どうしたルーク?」


「いや、はは……なぜか、少し緊張しちゃって」


 それを聞いたラスリーさんは、どこか可笑しそうに笑った。


「ハッハッハ! 何を言っとるんだ。魔王を倒した勇者が、自分の部屋を前に怖がることなかろうに」


「ほらほら、入った入った」


 ラスリーさんに背中を押されるように、僕は自分の部屋の中に入っていった。


「あ……! うわ……!」


 そのあまりにも懐かしい光景に、目頭が熱くなる。

 ラスリーさんの言う通り、部屋は僕が旅立つ前の状態そのままだった。

 勉強机があり、近くには本棚と、そのすぐ側にはおもちゃ箱。

 そして、今の僕からしたら少し小さく見える、愛用のベッド。

 どれもが僕の帰りを待っていたかのように、次々と視界に飛び込んできたのだ。


 机の上には、昔使っていた筆記用具が置かれている。

 本棚には、子どもの頃に何度も読み返した冒険譚の本が並んでいた。

 おもちゃ箱の隅からは、木で作られた小さな剣の柄が覗いている。

 あれは確か、鍛冶屋のおじさんが作ってくれたものだった。

 当時の僕は、それを本物の剣のように振り回していたっけ。

 今となっては、随分と可愛らしいものに見える。

 僕は思わず笑ってしまった。


「……まずは、ゆっくり休むといい」


 ラスリーさんはそれだけ言い残すと、僕の部屋を後にした。

 扉が、静かに閉まる。

 部屋に一人きりになると、僕は改めて周囲を見回した。

 不思議な気分だった。

 何年も離れていたはずなのに、昨日までここで生活していたかのような気さえする。


 僕はまるで壊れものを扱うかのように、部屋の物を順番にそっと撫でながら歩いた。

 机の表面には、昔つけてしまった小さな傷が残っている。

 本棚の端にも、見覚えのある欠けた部分があった。

 どれも、ここで暮らしていた僕自身の痕跡だ。


 そのうちベッドの前に着くと、そのまま全身を委ねるように勢いよく横になった。

 ぽすん、と柔らかな音がした。

 ……ああ、この感触だ。

 都の別荘にあったベッドと比べれば、ずっと小さくて、寝具だって上等なものではない。

 けれど、僕にはこちらの方が何倍も落ち着くように感じられた。


「やっぱり、都とは全然違うな……」


 天井を眺めながら、ぽつりと呟いた。

 もちろん、あの都に恨みがあるわけではない。

 政府の人たちは、僕たちのために立派な別荘をわざわざ用意してくれた。

 街の人たちも心から僕とイリアの帰還を祝ってくれた。


 ただ……。

 今は少し、タイミングが悪いだけなのだと思う。

 僕が魔王を倒した英雄になって、まだ間もなくて、それで気分が高揚しすぎているというか……。

 きっと、時間が経てば落ち着くはずだ。

 そうなれば、また普通に街を歩けるようになるだろう。


 そんなことを考えていると、ふと、僕の首筋に指を這わせたアルマの姿がフラッシュバックした。

 あの冷たい指の感触。

 僕に絡みつくような声。

 そして、口元に浮かべていた薄い笑み。

 僕を見ているのに、僕じゃないところをじっと見つめているような、あの顔……。

 あんなものを人から向けられたのは、生まれて初めてだった。

 だからあの時は、あんなにも怖くなってしまったのだろうか。


 ……いや。

 それだけではない。

 僕は、自分の手のひらを見つめた。

 あの時、アルマを押しのけた感触が、まだ手に残っているような気がした。

 決して強く押したわけではない。

 それなのに、彼女はあんなにも簡単に吹き飛んでしまった。

 ……どうしてだろう。

 旅をしていた頃だって、自分の力を制御できなくなったことなんてなかったはずなのに。

 考え始めると、また頭の中が混乱してきた。


「もういい……寝よう」


 僕はゆっくりと目を閉じた。

 今は、何も考えたくなかった。

 この懐かしい部屋で眠れば、きっと少しは気分も落ち着くだろう。

 そう自分に言い聞かせながら、僕は眠りへと落ちていった。


 *


 どれほど眠っていたのだろう。

 淡い夢心地のような、そんな浮遊感の中をずっと漂っていたような気がする。

 遠くで鳥が鳴いていたようにも思えるし、誰かが庭を歩く足音を聞いたような気もした。

 けれど、どれもはっきりとは覚えていない。

 ただ、深く、快適で静かな眠りだった。

 すると、扉からノックの音が聞こえる。


 コン、コン。


「ルーク……」


 ラスリーさんの声だった。

 僕はゆっくりと目を開けた。


「休んでいるところすまないな。少し、話したいことがあるんだが……」


「あ…ラスリーさん。話したい事……ですか?」


「ああ、良ければ居間まで来てくれないか。そこで座って、ゆっくり話そう」


「分かりました……すぐに向かいますね」


 扉の向こうから、ラスリーさんの足音が遠ざかっていった。


 ……何だろう。

 あの表情と声の感じが、いつもとは何かが違っていたような気がする。

 普段のラスリーさんなら、もっと気軽に話しかけてくるはずなのに。

 それほどに重要な話なのだろうか。

 僕は少しだけ緊張感を覚えながら、軽く身なりを整えると、一階の居間へと向かった。


 どうやら、外はもうすっかり暗くなっているみたいだ。

 この村は都と違い、夜は皆が休むので、自然の音以外はほとんど聞こえなくなる。

 窓の外からは、時折、虫の鳴き声が聞こえてくる程度だった。

 居間にはラスリーさんが一人、静かに座っていた。

 机の真ん中にはろうそくがあり、僕とラスリーさんはそれを挟んで向かい合うように座った。

 炎が小さく揺れ、ラスリーさんの顔に柔らかな陰影を作っている。


「どうだい、ルーク。世界を救うという大きな仕事を終えて、故郷に戻った気分は?」


「それが、あんまり実感が湧かないんです。まるで、まだ夢を見ているような……」


 我ながら、何ともはっきりとしない返事になってしまった。

 僕を英雄と祭り上げる都の人々が聞いたら、少し間抜けに思われるだろうな。

 しかしラスリーさんの前では、そんな弱腰な自分の姿もついつい見せてしまう。

 親を前にした子どものような感じ、と表せばいいのだろうか。

 ラスリーさんはそんな僕を見て、穏やかに笑った。


「はっはっは……! 無理もないさ。それほどのことをお前は成し遂げたのだからな」


「……間違いなく、お前は世界の英雄だよ」


「ラスリーさん……!」


 その言葉が、何だかとても嬉しかった。

 もちろん、都でも何度となく同じことを言われてきた。

 けれど、ラスリーさんに言われるのは、やはりどこか違う。

 僕がまだ何者でもなかった頃から、ずっと見守ってくれた人なのだから。

 その人にこうして認めてもらえることが、何よりも誇らしく思えた。


 しかし―――。


 次の瞬間、ラスリーさんの雰囲気が変わったような気がした。

 目に見えて何かが変化したわけではない。

 ただ、先ほどまでの穏やかな表情に、どこか真剣なものが混じった。

 少し前かがみになり、両手を机の上で組み合わせる。


 そして、僕を見る目が変わったような気がする……?


「……ルーク、この村はずっと前から苦しい状況が続いているんだ」


「……え?」


「ここまで来る途中も感じなかったか? あらゆる設備は老朽化し、本来は変えていかねばならないものが山ほどあるのだが……」


 ラスリーさんは、小さく息を吐いた。


「人手も、資金も足りないんだ」


「……そう、だったんですか」


 確かに、村へ向かう道は随分と傷んでいた。

 昔からある建物も、古くなったまま使われているものが多い。

 村人たちは皆、いつも通り元気そうにしていたけれど、暮らしが楽なわけではないのだろう。

 ラスリーさんは、長い間この村を守ってきた。

 その苦労について、僕が知らないこともたくさんあるはずだ。

 だからこそ、僕は真剣に話を聞こうと思った。


 けれど……。

 ラスリーさんは、僕をじっと見ている。

 何だろう。

 その視線が妙に気になる。

 さっきまでは、何とも思わなかったはずなのに。


 ……いや、待てよ?

 何を考えているんだ、僕は。

 そりゃそうだよ、そのはずだろ……?

 ラスリーさんは最初から僕を見ているじゃないか……。

 僕がまだ小さかった頃から、ずっとそうだった。

 何を今さら、見られることをそんなに気にしているんだ。


「ルーク、お前はもう、ただの気高い青年ではない……」


 ……え?

 ラスリーさんの声が、妙にはっきりと耳に届いた。


「この国を……いや、世界を代表する英雄だ。誰もが認める、な」


 ……やめろ。


 やめてくれ。


 どうして、そんなことを言うんだ。


 お願いだから、あなただけはそんな言い方をしないでくれ。


「エスト国の政府に掛け合えば……いくらでも、欲しいものは得られる身分だろう……?」


 ろうそくの炎が、ゆらりと揺れた。

 ラスリーさんは変わらず、僕を見つめている。

 その表情には、何の悪意も感じられなかった。

 むしろ、長年抱えてきた悩みを、ようやく相談できたという安堵さえ浮かんでいるようだった。


 ……でも。


 やめろ……。

 やめろ、やめろ、やめろ……。


「……国に掛け合って、資金等を恵んでくれんか」


「……っ!」


 僕は硬直した。

 息を吸おうとしても、うまく胸が動かない。


 何かが、胸の奥で音を立てて崩れていくような気がした。

 今のラスリーさんのその目は、あの時のアルマに似ていた。


 いや、厳密に言えば違ってはいる。

 あんな欲望を剥き出しにしたようなものではない。

 ラスリーさんは、村のために言っているのだ。

 自分の贅沢のためじゃない。

 誰よりも、この村の人々のことを大切にしてきた人なのだから。


 ……分かっている。

 そんなことは、僕が一番よく知っている。


 でも……。

 その目は……『僕』を見ていなかった。

 それは『英雄』の機嫌を窺う、見たくもない歪んだ目元だった。

 ラスリーさんが、僕を通して何か別のものを見ているような気がした。


 僕がどれほど疲れているのか。

 何を考え、何に悩んでいるのか。

 今、この場所に何を求めて帰ってきたのか。


 そんなことは、今のラスリーさんには関係がないのだろうか。


「……もちろん、ただ恵んでくれとは言わない」


 ラスリーさんは少しだけ身を乗り出した。

 僕は何も答えることができなかった。


「なぁ、ルーク。ようやく平和な日常に戻ったんだ……お前も、身を落ち着けたいと思わないか?」


「……え?」


「私の孫娘がな、最近ちょうど成人したばかりで……」


 その言葉を聞いた瞬間だった。


 僕の頭の中に、アルマの笑顔が蘇った。

 あの細い三日月のような口元。

 首筋を伝う、冷たい指。

 甘ったるい声。


 そして、僕を『勇者』としか見ていない、あの目。


 ……嫌だ。

 そんなこと、聞きたくない。

 ラスリーさんの口から、これ以上聞きたくない……!


 ガタンッ!!


 僕は椅子を蹴飛ばすように、突然立ち上がった。

 大きな音が、静かな居間に響き渡った。

 机が揺れ、その上に置かれていたろうそくが、力なく倒れた。

 小さな炎が横倒しになり、机の上に不安定な光を投げかける。


「……ルーク?」


 ラスリーさんは驚いた様子で僕を見上げた。

 その顔には、困惑の色が浮かんでいた。


「す、すみません」


 僕の声は震えていた。


「ちょっと、き、気分が悪くて……」


 決して嘘ではない。

 確かに気持ち悪かった。


 ああ、気持ち悪いんだ。


 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……。


 どうしてだ。


 どうして、よりによってラスリーさんまで……。


「……もう少しだけ、休みます」


 僕は俯きながら、それだけを告げた。

 それ以上、この場所に居ることができなかった。

 椅子を元に戻すことさえ忘れて、僕は逃げ出すように二階の自室へと向かった。


 背後から、ラスリーさんの声が聞こえる。


「……今の話は、もちろん引き受けてくれる訳だよな?」


 その言葉に、僕の足が一瞬だけ止まった。


 ……ああ。

 もう、駄目だ。

 ラスリーさんは、最後まで気づいてくれなかった。


 僕がどうして立ち上がったのか。

 なぜ、こんなにも怯えているのか。

 そんなことなど、聞こうともしなかった。


 ただ、返事を求めている。

 英雄からの返事を。

 それは、『僕』に向けたものではないのだ。


 *


 部屋に戻ると、すぐに鍵をかけた。

 カチリ、と小さな音が響く。

 その音を聞いて、ようやく少しだけ安心した。

 ……誰も、入ってこない。

 今は、それだけでよかった。


 僕は子どもの頃から使っていた毛布に、守ってもらうようにくるまっていた。

 少し古びた布の感触。

 何度も洗濯されて、柔らかくなった生地。

 昔から、寒い夜にはこうして毛布を頭まで被って眠っていたっけ。

 子どもの頃は、そうしていればどんな怖いものからも守られるような気がしたものだ。


 この部屋だけは変わらない。

 そう、何も変わっていない。

 机も、本棚も、ベッドも。

 何一つ変わらず、僕が帰ってくるのを待っていてくれた。


 でも、肝心の僕自身はどうなのだろうか……?

 僕はもう、以前の僕とは変わってしまったのか……?


 魔王を倒せば、全てが終わって元の暮らしに戻れると信じていた。

 それは冒険とは違い地味だけれど、それでもどこか温かい日常に、心から帰りたいと思っていた。

 朝になれば目を覚まして、誰かと一緒に食事をする。

 昼間は村の仕事を手伝って、夕方には家に帰る。

 ときには友達とくだらない話をして、笑い合う。

 そんな、何の変哲もない生活だ。

 僕は、そんな日常に戻りたかっただけなのに…。


 それが、間違っていたのか……?

 魔王を倒して英雄となった、これからの人生は……。

 それらしく振る舞い、それらしいものを得て、与えていかないといけないのか……?

 誰かに頼られれば、それに応えなければならない。

 誰かに称えられれば、それにふさわしい振る舞いをしなければならない。

 そして、何かを求められたら、英雄として差し出さなければならない。

 そういうものなのだろうか。


 ……じゃあ、僕自身は?

 僕が何をしたいのかは、誰が聞いてくれるんだろう。

 ラスリーさんなら、きっと分かってくれると思っていた。

 僕がどんな人間なのか。

 どんなに情けなくても、弱くても、それでも受け入れてくれると信じていた。

 それなのに……。


 僕は毛布を強く握りしめた。

 何だか、泣きたいような気分だ。

 でも、涙は出てこなかった。

 ただ胸の奥に、重たいものが沈んでいくような感覚だけが残っていた。


 眠れない。

 全然、眠れなかった。

 窓の外から聞こえる虫の鳴き声が、やけに大きく耳に響いた。

 時折、廊下から微かな足音が聞こえるたびに、思わず身体が強張る。

 誰かが部屋の前に来たのではないか。

 また、何かを頼まれるのではないか。

 そんなことばかり考えてしまう。


 ここは、僕の家なのに。

 ずっと、帰りたいと願っていた場所なのに。

 僕は毛布の中で、ただじっと目を閉じていた。


 *


 次の日の午後になっても、僕は外に出る気が起きず、ずっと部屋に引きこもっていた。

 何度か窓の外を眺めてみたが、村の様子は昨日と何も変わらなかった。

 畑では村人たちが仕事をしている。

 道端では、子どもたちが笑いながら走り回っている。

 家々からは、いつもの生活の音が聞こえてくる。


 何も変わっていない。

 こんなにも、穏やかな村なのに。

 僕一人だけが、どこか違う場所に取り残されてしまったような気がした。

 もう少しここで隠れるように過ごせば、全てが丸く収まってくれないかな……。

 そのうちラスリーさんも、考えを改めてもらえるかもしれないし……。


 そうだ。

 きっと、少し時間が必要なんだ。

 昨日の話だって、ラスリーさんにはラスリーさんなりの事情があったのだろう。

 僕だって、突然あんな態度を取ってしまった。

 きちんと話せば、分かってもらえるかもしれない。

 ……そう思いたかった。


 窓から差し込む光が、ゆっくりと部屋の中を移動していく。

 いつしか陽は傾き始め、空には夕暮れの色が広がっていた。

 僕はベッドに横になり、何をするでもなく天井を眺めていた。

 すると―――。


 ドンドンドンッ!!


 突然、扉からノックの音が聞こえた。

 それは決して、穏やかで規則正しい音ではなかった。

 乱れた、そして荒々しく叩くような音だ。

 僕は驚いて身体を起こした。


「だ、誰……!?」


「私よ! ルーク! お願いだから、開けてよ!!」


 この声は……。


 イリアだ。

 間違いない、イリアの声だ。


 でも、その声は明らかに動揺で震えている。

 いつもの明るく元気な声とは、まるで違っていた。


「イ、イリア!?」


 僕はベッドから飛び起きて、扉を勢いよく開けた。

 そこには、確かにイリアが立っていた。

 しかし、その姿を見た瞬間、僕は言葉を失った。


 イリアは明らかに取り乱している様子だった。

 髪は乱れていて、その両目にはうっすらと涙が滲んでいる。

 息も荒く、肩を小さく上下させていた。

 まるで、長い距離を休まず走ってきたかのようだった。

 そしてその手には、一枚の新聞紙が、くしゃくしゃになるまで強く握られていた。


「どうしたんだよイリア!? い、一体何が……!」


「エスト国が……! わ、私たちの国が……」


 イリアは動揺が激しいからなのか、うまく言葉が出てこないようだ。

 何度か息を整えようとするが、その度にまた声が震えてしまっている。


「落ち着いて、イリア! 何があったんだ!?」


 僕は彼女の肩に手を添えた。

 すると、イリアは僕の顔を見上げる。

 その目には、今にも溢れそうな涙が浮かんでいた。


「私たちの国が、隣の国と戦争を始めたって……!」


「……は?」


 僕はイリアが何を言っているのか、まるで理解できなかった。


 戦争……?


 戦争だって?


 何を言っているんだ?


 僕は何度か瞬きをした。

 イリアの言葉が、頭の中でうまく形にならない。


 ……いや、嘘だろ。

 そんなはずがない。

 だって、僕たちは……。


 もう、世界を脅かす魔王はいない。

 あれだけ多くの人々を苦しめてきた災厄は、ようやく消え去ったんだ。

 これ以上命を犠牲にして、戦う相手も理由も、どこにもないじゃないか……!!


 僕たちは、何のために戦ってきたんだ?

 ボラスとオルソは、何のために命を落としたんだ?

 あれほど多くの人が平和を願って、僕たちの帰還を祝ってくれたじゃないか。


 あの笑顔は……。

 あの歓声は……。

 一体、何だったんだ……?


 ふと、僕は都の別荘で見かけた、ある新聞の見出しを思い出した。


『エスト国、東方地域における領有権の懸念を隣国に伝達』


 あの時、僕は何を考えた?

 よくある政治のいざこざだと思った。

 平和になった日常の証なのかもしれないとさえ、思った。


 ……そうだ。

 あの時は、そんなふうに考えていたんだ。

 僕は、イリアの手元に握られた新聞を見つめた。

 くしゃくしゃになった紙面には、いくつもの文字が印刷されている。

 だが、今の僕には、それを落ち着いて読むことなどできそうになかった。


 胸の奥から、何か熱いものが込み上げてくる。

 怒りなのか。

 恐怖なのか。

 それとも、まったく別の感情なのか。

 自分でも分からなかった。

 ただ、一つだけはっきりしていた。


 ……こんなこと、認められるものか。


「え……ちょっと!? ルーク!! また急にどこへ行くの!!」


 気づけば、僕はイリアの横を抜けていた。

 彼女の呼び止める声にも答えず、一目散に階段を降りて玄関へと向かった。

 足音が、家中に大きく響き渡る。


 一階の居間に居たラスリーさんが、急に様相の異なる僕を見て目を丸くしていた。


「おい、ルーク……!? 突然どうしたんだ……! 待て、どこへ行くつもりだ!!」


 ラスリーさんの呼び止める声も無視して、僕は家から全力で飛び出した。

 外はもう、夕暮れを過ぎて暗くなりつつある。

 村の家々には少しずつ灯りがともり始め、遠くの空には夜の気配が漂っていた。

 今から都にどんなに急いで向かっても、着くのは深夜ぐらいになってしまうだろう。


 それでも、構わなかった。

 ここで何もせず留まることだけは、絶対にしたくなかった。

 僕は走りながら、昨日のラスリーさんの言葉を思い返していた。


『エスト国の政府に掛け合えば……いくらでも、欲しいものは得られる身分だろう……?』


 そうだ。

 あの時、ラスリーさんは確かにそう言っていた。

 僕はもう、ただの青年ではない。

 世界を救った英雄なのだと。

 誰もが認める存在なのだと。


 ならば……。

 その立場を使えば、何かできることがあるはずだ。

 政府の人たちだって、僕の話なら聞いてくれるかもしれない。

 いや、きっと聞いてくれる。

 あれだけ盛大に帰還を祝ってくれたのだから。

 あんなにも僕たちを称えてくれたのだから。


 僕なら……。

 英雄になった今の僕なら、自分の国の暴走を止められるはずだ。

 世界の平和を、もう一度守れるはずなんだ。

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