英雄の帰還
―――っ……!
遠くで瓦礫が崩れる音がした。
ガラガラと、何か重たいものが転がり落ちていくような、耳障りな音。
背中には硬くごつごつとしたものが当たっていて、ものすごく心地が悪い。
それに、なんだか身体が重い。
手足の感覚も鈍く、まるで自分の身体が自分のものではなくなってしまったようだった。
「……起きて……頼むから……」
すぐ近くで、誰かの声がする。
いや、正確には、多分すぐ目の前だろう。
どこか聞き覚えのある声だ。
必死に何かを訴えかけているような、今にも泣き出しそうな声。
「………うぅ……」
何とか瞼を開けようとする。
しかし、眩しい太陽の光が僕の視界を邪魔して、思うように目を開けることができない。
何度か瞬きを繰り返し、ようやく薄く目を開ける。
最初に見えたのは、白くぼやけた光だった。
その中に、何か人の形をした影が浮かび上がっている。
徐々に、目の前の光景の輪郭がはっきりとしてきた。
一人の女性が、泣きそうな顔で僕を覗き込んでいた。
「ルーク……! ルーク!!」
「……イリア……?」
時間の経過とともに、視界がよりはっきりとしていく。
目の前にいる女性は、肩までかかったセミロングヘアが特徴的な茶髪の持ち主で、涙を流しながら必死に僕の名前を呼んでいた。
彼女は僕の仲間の一人、僧侶のイリアだ。
「良かった……生きてたのね……! 本当に、本当に良かった……!」
イリアは安心したように顔をくしゃくしゃにすると、何度も涙を拭った。
その手も、声も、まだ小さく震えている。
「やっと終わったんだよ……最後の戦いが……」
「これで、ようやく世界は平和になったんだよ……!」
最後の戦い。
世界が平和になった。
その言葉を、僕は頭の中で何度も繰り返した。
そうだ。
僕たちは、魔王を倒すために必死でここまでやってきたんだ。
僕はゆっくりと上体を起こした。
「……くっ」
節々が痛いし、身体も怠い。
少し動かしただけで、肩や背中のあちこちから鈍い痛みが伝わってくる。
しかし、身動きが取れないほどではないのは幸いだった。
「ルーク、大丈夫? もしかしたら、下手に動かない方が……」
「いや、大丈夫だ……」
そう答えながら、僕はゆっくりと辺りを見回した。
そこは一面、無残な瓦礫の山だった。
巨大な石柱は真っ二つに折れ、立派な装飾が施されていたであろう壁も、今では無数の石片となって散らばっている。
ところどころから薄い土煙が立ち上り、時折、積み重なった瓦礫が音を立てて崩れていた。
見上げると、そこには何の遮りもない青空が広がっていた。
……おかしいな。
僕は確か、パーティーの皆でこの魔王城に来ていたはずだ。
魔王軍の最後の抵抗を退け、数え切れないほどの階段を登り、いよいよ最上階の魔王の部屋へと辿り着いて……。
………あれ、その後は?
いくら記憶を辿ろうとしても、そこから先がどうしても思い出せなかった。
「僕たちは……勝ったのか……? この瓦礫の山は、もしかして……」
「そうだよ、ルーク……これは、私たちが来た魔王城の残骸だよ」
イリアは僕の視線を追うように、辺りを見渡した。
「魔王との戦いが終わった後、建物がそれに反応したみたいに、急に崩落を始めたの」
「……そうだったのか」
僕はもう一度、辺りを見渡した。
しかし、どうもおかしい。
他の仲間の姿が、どこにも見当たらないのだ。
僕たちのパーティーには、僕とイリアの他に二人居たはずだ。
大槌使いのボラスと、アーチャーのオルソ。
どちらも、ここに至るまでの様々な困難を共に乗り越えてきた大切な仲間だ。
陽気で豪快なボラスは、いつも些細なことで皆を笑わせていた。
一方のオルソは慎重で、時折そんなボラスを呆れたようにたしなめることもあった。
性格こそ正反対だったが、不思議と息の合う二人だった。
あの二人なら、きっと今頃もいつものように何か言い合っているはずなのに。
「イリア、ボラスとオルソはどこだ? 先にここを後にしたのか?」
すると、イリアの表情が一転して暗くなった。
先ほどまで浮かべていた安堵の笑みが消え、彼女はゆっくりと目を伏せる。
何かを言おうと唇を動かしたが、すぐには声にならないようだった。
その表情こそが、二人に何が起こったのかを突き付けていた。
「二人は……助からなかった……」
僕は目を見開いた。
「……え?」
「魔王城の崩落が始まったとき、二人は私と、気を失っていたルークをひたすら庇って……それで……」
イリアはそこで言葉を詰まらせた。
頬を伝う涙を拭いながら、何とか続きを話そうとしている。
しかし、僕にはもう十分だった。
「……そうか」
それ以上は、何も言えなかった。
世界の平和のために魔王を倒す。
そのために、いかなる犠牲が払われようとも、覚悟はしていたつもりだった。
誰もが無事に帰れるほど、甘い戦いではないことも分かっていた。
でも……。
それでも、ここまでいつも一緒に過ごしてきた仲間が、こんな突然……。
昨日まで、当たり前のように隣を歩いていた二人。
つまらない冗談を言い合い、焚き火を囲んで食事をして、ときには喧嘩もした。
そんな何気ない時間が、もう二度と戻ってこない。
そう思うと、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。
僕は、頬を伝う涙を止められなかった。
「……帰ろうよ、ルーク……私たちの帰る場所に……」
イリアが静かに口を開いた。
「きっと皆が、私たちのことを待っているよ……」
そう話すイリアも、泣いていた。
彼女だって、ボラスとオルソを失った悲しみは同じはずだ。
それでも、僕を励まそうとしてくれている。
喪失の痛みは、決して目を背けられるものではない。
どれほど偉大な勝利を収めようとも、その痛みが消えるわけではないのだ。
それでも、イリアの言う通りだと思った。
僕らには帰るべき場所がある。
今は亡き二人も、きっとそれを望んでくれているはずだ。
ようやく平和になった、僕らの故郷の国に帰るんだ……。
*
僕はイリアに支えられながら、何とか馬に乗った。
自分ではまだ手綱を握れる状態ではないので、イリアが前に乗り、それにもたれる形で僕が後ろに乗った。
馬は歩き始めると、ゆっくりとした足取りで荒れた道を進んでいった。
遠ざかっていく魔王城の跡地。
かつてあれほど恐ろしかった城も、今ではただの瓦礫の山だ。
そこに振り返っても、もう二人の仲間の姿はない。
「ねぇ、イリア……」
僕らを気遣うようにゆっくりと馬が歩んでいく中、僕は背中越しにイリアに話しかけた。
「なあに、ルーク?」
「あの、最後の戦いって……僕ら、どうやって魔王に勝ったんだ……?」
「……え?」
イリアが驚いたように後ろを振り返ると、僕の顔を心配そうに窺った。
「ルーク、覚えてないの?」
「ああ……」
全てを忘れたわけではない。
魔王の居る部屋の扉の前へ来たところまでは覚えている。
重々しい扉。
その前に立っていた僕たち四人。
あの瞬間の、張り詰めた空気。
そこまでは確かにはっきりと思い出せるのだ。
しかし、そこから先はまるで、すっぽりと抜け落ちたように何も思い出せない……。
瓦礫の山に囲まれながら目を開けるまでの間、一体何が起こったのだろう。
「ねぇ、イリアも戦っただろ? どんな感じで僕らは闘ってた?」
「……それについては、私にも分からないんだよ」
「え……?」
「むしろ、私がルークに聞きたかったの」
「僕に……?」
「うん。まずは、私が把握してることを話すね……」
イリアは再び前を向き、手綱を扱いながら続けた。
「あの扉を開けた時、多分だけど、罠が発動したんだと思う」
「罠だと……? それすら心当たりがないな……」
「扉を開けた途端にね、丸いドーム状の空間が突然現れて……ルークだけを中に引きずり込んだの」
「僕だけを……? 皆のことは、そのまま外に放り出したまま?」
「うん……私たちだって、何度も空間の中に入る方法を探したよ」
イリアは小さく息を吐いた。
「ボラスは大槌で何度も叩いていたし、オルソも弱点がないかって、あちこち調べてくれていたの。私も、思いつく限りの魔法を試したけど……」
「でも、何をやっても駄目だった……そうしてる間に、時間だけが過ぎて……」
イリアの声が少しだけ震えていた。
卑怯な罠に僕だけが連れ去られ、何もできない時間は、とても怖かったのだろう。
あの二人も、きっと必死だったに違いない。
「正直、もう駄目かと思った……最悪のことばかり考えていて……」
「そしたらね、急にドームの空間が消えるように収束して……気を失ったルークだけがそこに居たんだよ」
「……つまり、あの中で何が起こったのかは、本当は僕だけが知ってるはずなのか」
「……そういうことになるね」
僕は目をつむり、何度も何度も思い返そうとしてみた。
あの扉を開けたとき。
その向こうにあったもの。
僕を吸い込んだという奇妙な空間。
魔王の姿。
戦いの様子。
何か一つでも、思い出せないものだろうか。
……駄目だ。
やはり何ひとつ、思い出せそうにない。
まるで、そこだけ記憶を切り取られてしまったかのようだった。
「ごめん、イリア……まだ何も思い出せなくて……」
「いいんだよ、ルーク」
また一度、イリアが振り返った。
彼女は優しく微笑んでいた。
「あまり難しく考えないで、ゆっくり思い出していけばいいんだから」
「……そうだね」
「今はまず、身体を休めないとね。ルーク、さっきから顔色だってあんまり良くないんだから」
「あはは……そうかな」
「そうだよ。まったく、もう……」
その少し呆れたような言い方が、何だか懐かしかった。
僕は少しだけ頭を伸ばして、遠くの景色を見ようとした。
荒れた道はいつしか整備された街道へと変わり、周囲には草原が広がっていた。
その長い道の先に、とても広い範囲に街の建物が広がっている。
遠くには、都を囲む大きな城壁も見えた。
見慣れた景色だ。
もう何年も離れていたはずなのに、まるで昨日のことのように覚えている。
僕は目を輝かせた。
もうすぐだ……!
もうすぐ、僕たちの国―――エスト国の都へ帰ることができるんだ。
*
「帰ってきた……! ルーク達が帰ってきたぞ!! 鐘を鳴らせ!!」
「全隊員!! 直ちに整列だ!!」
イリアと僕を乗せた馬がいよいよ都の正門に近づくと、たくさんのエスト国の兵士達が出迎えてくれた。
見張り台の上では兵士たちが慌ただしく動き回り、やがて都中に響き渡るほどの大きな鐘の音が鳴り始めた。
ゴォン、ゴォン、と重々しく、それでいて晴れやかな音が青空の下に響き渡る。
馬が通る道の両脇には、くまなく兵士達が整列し、立派な花道を演出してくれていた。
それぞれが槍を掲げ、姿勢を正して僕たちの帰還を待ち構えている。
その正門の入口を抜けると、今度は兵団の幹部らしき人たちが敬礼をしながら僕たちを見守ってくれていた。
「よくぞ戻られました……なんと礼を言えばいいのか……」
ひときわ立派な鎧を身につけた男性が、僕たちに深々と頭を下げた。
「いえ、僕たちは使命を果たしたまでです。それに――」
僕の言葉を遮るように、奥の民衆たちが一斉に声を上げながら詰めかけてきた。
「やったぞぉぉ!! 勇者様が帰ってきたぁぁ!!」
「これで世界は救われたんだぁ!!」
「勇者さまぁぁ!! ありがとう! ありがとうございます勇者さま!!」
一瞬のうちにして、都の正門周りはたくさんの人々と大きな歓声に包まれた。
拳を突き上げて喜ぶ人。
紙吹雪を狂ったようにまき散らす人。
涙を流しながら、互いに抱擁を交わす人。
子供を肩車した父親が、大きくこちらに手を振っている。
その隣では、年老いた女性が両手を胸の前で組み、何度も何度も頭を下げていた。
皆が、思い思いの方法で喜びを表現していた。
僕は呆気に取られながら、その光景を眺めていた。
「……すごい」
こんなにもたくさんの人たちが、僕らの帰りを待っていてくれたんだ。
魔王との戦いが終わったことを、これほど喜んでくれているんだ。
まさにこの瞬間、僕の国は皆が一つになったように感じられた。
ボラスとオルソも、この光景を見ることができたら……。
そんな思いが一瞬だけ胸をよぎった。
けれど、今はただ僕たちの帰還を喜んでくれる人々の顔を見ていたかった。
「良かった……本当に良か……」
イリアの手を借りながら馬から降りた僕は、地面に立った直後に視界が揺らいだ。
「……あれ?」
突然、足元が頼りなく感じられる。
先ほどまで耳を満たしていた歓声が、何だか妙に遠く聞こえ始めた。
目の前では、まだ大勢の人々が笑顔で手を振っている。
けれど、その顔がぼやけて、輪郭を失っていく。
おかしいな。
ちゃんと、立っているはずなのに。
「ルーク……!? ちょっと! ルーク、しっかりして!!」
イリアが僕の身体を支えようとしてくれている。
その感触だけが、ぼんやりと伝わってきた。
ごめん、イリア。
せっかく帰ってきたのに……。
そんなことを考えながら、僕の意識はゆっくりと暗闇へ沈んでいった。
イリアの叫ぶ声は、段々と遠のいていく……。
*
―――……?
遠くから、穏やかな鳥の鳴き声が聞こえる。
小鳥たちが、何やら楽しそうに囀っていた。
それに、どこかから柔らかな風が吹き込んでいるらしく、頬が心地よく涼しい。
背中が……いや、身体全体が優しく柔らかい感触に包まれていた。
え…?
さっきまで、僕は……。
「……はっ!?」
「し、しまった……! また僕、気を失って……」
一気に意識を取り戻した僕は、勢いよく起き上がった。
目の前には、見覚えのない天井が広がっている。
どうやら、ここはベッドの上のようだ。
ふかふかの寝具が身体を包み込み、起き上がった拍子に柔らかな枕が背中から滑り落ちた。
誰かが僕をここまで運んでくれたのだろう。
それにしても……。
周りを見渡してみる。
ここは、とても綺麗に整った個室部屋のようだ。
壁は明るい色合いで統一され、所々に南国のリゾートを思わせるようなデザインや装飾が施されている。
磨き上げられた木製の家具。
柔らかな色合いの絨毯。
壁際には美しい絵画が飾られ、部屋の隅にある花瓶には、鮮やかな花々が生けられていた。
隅にある窓からは、綺麗な空の広がりが見える。
ここは病院か、もしくは治療院なのだろうか?
しかし、このやけに豪華な内装は、病院というには不釣り合いに感じる。
いったい、どこに運ばれてきたんだろう。
コンコン。
優しいノックの音が響いた。
「……はい?」
返事をすると、ゆっくりと扉が開く。
そこからは、一人の見慣れた女性が部屋に入ってきた。
……イリアだ。
彼女はもう旅装束ではなく、清潔で明るい色合いの服を着ていた。
いつもと違う姿が、何だか少し新鮮に映る。
「……やあ、イリア。あの……本当にごめん、何度も心配を……」
僕が言い終える前に、イリアは足早に近づいてきた。
すると、その腕を僕の背中に回して、力強く、本当に力強く抱きしめてくれた。
「い、イリア!?」
「バカ……! ルークのバカ! 何度心配かけさせるつもり! もう、本当に……」
彼女の声は、怒っているようで、どこか泣きそうでもあった。
僕は慌てて両手を動かした。
「い、いたた! 強い強い! 力が強いって!」
「あ……! ご、ごめんなさい!」
イリアは慌てて離れると、少し恥ずかしそうに目を逸らしながら頬を赤らめていた。
「も、もう……ルークがまた倒れるのがいけないんだからね」
「あはは……それについては、本当に面目ないよ」
そう言うと、イリアは小さくため息をついた。
けれど、すぐに安心したような笑みを浮かべた。
どうやら、僕がこうして元気に話せることが嬉しいらしい。
「ところでイリア、ここは一体どこなんだい?」
「ここはね~! 都の一等地にある別荘なんだって!」
「へ……? 別荘?」
思わず、間の抜けた声が出てしまった。
別荘?
この僕が?
そんなものとは、今までまるで縁のない人生だったというのに。
イリアはどこか嬉しそうに、部屋の中を歩き回っている。
「そうだよ~、驚いたでしょ?」
「国の政府の人達がね、私たちには落ち着いて過ごせる療養が必要だろうって理由で、人目のつかないこの別荘をあらかじめ用意してくれてたんだって!」
「へぇ……政府の人達が?」
「うん! それも、すごく立派なところなんだよ!」
それは確かに驚きだ。
わざわざそのために、一軒家を丸ごと貸し出してくれるとは……。
いや、そもそもここは本当に一軒家と呼んでいい規模なのだろうか。
この部屋一つを見ても、僕が今まで泊まってきた宿屋とは比べものにならないほど広い。
僕はなんだか照れくさいような、申し訳ないような、複雑な気持ちになった。
「料理もね、専門のシェフが毎日用意してくれるんだって! 家事もハウスキーパーさんがしてくれるから、本当にのんびり過ごすだけでいいんだよ!」
「あはは……本当に至れり尽くせりだな……」
「でしょう? 私も最初に聞いたとき、びっくりしちゃった!」
イリアは楽しそうに笑っていた。
そうだ。
思えば、僕たちはずっと旅を続けてきた。
雨の日も、風の日も、時には野宿をしながら。
まともな食事を取れない日もあったし、眠る場所さえ確保できないこともあった。
それが今では、こんな立派な部屋で休むことができる。
何もしなくても、温かい食事が用意される。
きっと、これからはそんな生活が当たり前になっていくのだろう。
ふと僕は、あの二人のことを考えてしまった。
「……ボラスとオルソも、ここに居られたら……」
それを聞いたイリアは、一瞬にして真剣な表情になった。
そして、静かにベッドへ腰かけると、僕の手をそっと握ってくれた。
彼女の手は温かかった。
あの戦いから、まだそれほど時間が経っていない。
イリアも相当寂しいだろうに、それでも僕のために微笑んでくれていた。
「ねぇルーク、お互い元気になったらさ、二人のためにお墓を建てよう」
「……うん」
「大きな教会にも行って、国の人たちと全員でお祈りを捧げたら……きっとあの二人は、それを見て安心してくれるよ」
僕は、かつての仲間たちの姿を思い浮かべた。
ボラスなら、きっと豪快に笑いながら、そんな大げさなことをしなくてもいいと言うだろう。
オルソは少し照れくさそうにしながら、それでも喜んでくれる気がする。
そんな二人の姿が、ありありと浮かんできた。
僕はそれを聞いて、前向きに話してくれるイリアのために微笑み返した。
「ああ、もちろんそうしよう」
「……うん!」
イリアも、嬉しそうに頷いた。
しばらく僕たちは、何も言わずに手を握り合っていた。
悲しみがなくなったわけではない。
でも、こうして誰かと気持ちを分かち合えることが、今はとてもありがたかった。
「……そうだ! ねぇルーク、私ちょっとお外を歩いてくるね」
そう言いながら立ち上がり、自分の髪を軽く手でほどくイリア。
「え? イリアの方こそ、休まなくて大丈夫なのか?」
「僕に代わって一日中馬を引いていたから、随分と疲れているだろう……?」
「ううん、平気平気! それに、折角だから今のこの空気を吸いたいの!」
「空気を……?」
僕が首を傾げると、イリアは今度は明るく爽やかに笑いながら言った。
「うん! 平和になったこの世界の、この国の空気をね~!」
その笑顔は、窓から差し込む陽光に照らされて、とても眩しく見えた。
「……そっか」
僕は思わず笑った。
「じゃあ、気をつけてね」
「うん! ルークはちゃんと休んでてよ?」
「分かってるって」
「本当に?」
「本当だよ」
イリアは少し疑わしそうに僕を見つめたあと、くすりと笑った。
「それじゃ、行ってきま~す!」
軽やかな声を残して、イリアは部屋を出ていった。
*
イリアがこうして部屋を出ていった後、僕はしばらくベッドに腰かけていた。
窓の外からは、時折、遠くの人々の歓声が聞こえてくる。
何だろう。
まだ何か、お祭りでもやっているのだろうか。
そんなことを考えながら、僕はゆっくりと起き上がり、部屋の窓側にあるベランダへと向かった。
大きなガラス戸を開けると、爽やかな風が部屋の中へ吹き込んできた。
外に出た瞬間、僕は思わず声を漏らした。
「……うわぁ」
高台にあるこの別荘からは、エスト国の都の様子が一望できた。
幾重にも連なる赤茶色の屋根。
街の中心を走る大きな通り。
遠くには、堂々とそびえ立つ王宮の姿も見える。
青空の下に広がるその光景は、まるで一枚の絵画のようだった。
街の至るところではファンファーレが聞こえ、建物の間には色とりどりの横断幕が風に靡いていた。
『魔王討伐! 世界に平和を!』
『勇者ルークと、その仲間たちに感謝を!』
そんな言葉が、あちらこちらに掲げられている。
さらに細かく見渡すと、所々で行列ができており、人々が声高らかに歌ったり踊ったりしていた。
広場では楽団が演奏を続け、子供たちがその周りではしゃいでいる。
屋台が立ち並ぶ通りでは、大人たちが飲み物を片手に談笑しているようだった。
遠くの空では、昼間だというのに祝賀の花火まで打ち上げられていた。
ぱあん、と乾いた音が響き、白い煙が青空にゆっくりと広がっていく。
そのたびに、街のあちこちから歓声が上がった。
まさに文字通り、老若男女の誰もが今この瞬間を心から楽しんでいるようだった。
僕はベランダの手すりに両手を置き、しばらくその光景を眺めていた。
……ああ、本当に、平和になったんだな。
遠い道のりだった。
長く、苦しい旅だった。
それでも、僕たちはここまで辿り着いた。
目の前に広がるこの景色こそが、僕たちの戦いの結果なんだ。
「なるほど……確かに、この空気は僕も一度は吸いに行かないとな」
思わず、独り言が漏れた。
イリアの言っていたことが、何となく分かったような気がした。
風が吹き抜ける。
どこかから、花の甘い香りが漂ってきた。
僕はゆっくりと息を吸い込んだ。
何の変哲もない、いつもの空気だ。
けれど、今日はそれが妙に心地よく感じられる。
ようやく僕にも、こうした穏やかな幸せを感じられる余裕が生まれつつある。
これからは、こんな日々が続いていくのだろう。
戦いのない日常。
誰もが安心して暮らせる世界。
そんな未来を想像すると、自然と頬が緩んだ。
……でも、今はまず、とにかく休まないと。
無茶をして、またイリアに心配をかけるわけにはいかない。
僕は名残惜しさを感じながらも、ベランダを後にした。
部屋に戻ると、テーブルの上に新聞があることに気づいた。
どうやら、今日の朝刊らしい。
一面には大きな文字で、魔王討伐の成功と勇者たちの帰還について書かれていた。
ずいぶん大きく取り上げられているものだな。
何だか、自分のことなのに少し照れくさい。
ふと、新聞の端に目が留まった。
たまたまその位置から見える小さな見出しには、こう書かれていた。
『エスト国、東方地域における領有権の懸念を隣国に伝達』
……ああ。
よくある政治のいざこざか……。
確か、昔から東の国とは領土を巡って意見が食い違うことがあったような気がする。
もっとも、魔王軍との戦いが続いていた頃は、そんな問題について話している余裕もなかっただろう。
これからは、そうした問題にも少しずつ目を向けられるようになるのかもしれない。
まあ、僕が気にするようなことでもないか。
国には立派な政治家たちがいるし、きっと彼らがうまく話し合ってくれるだろう。
これもまた、平和になった日常の証なのかもしれないな。
僕は新聞から目を離した。
窓の外では、相変わらず明るいファンファーレが鳴り響いている。
遠くから、楽しげな歌声が聞こえてきた。
僕は居心地の良いベッドに改めて横になると、柔らかな枕に頭を沈めた。
ああ、本当に気持ちがいい。
こんなに穏やかな気持ちで眠れるのは、いったいいつ以来だろう。
僕はゆっくりと目を閉じた。
もう、戦わなくていい。
明日のことを心配せず、安心して眠ることができる。
それだけでも、今の僕には十分すぎるほど幸せだった。
窓から差し込む柔らかな陽光と、遠くで続く祝賀の音楽。
その心地よさに包まれながら、僕は静かに眠りへと落ちていった。
テーブルの上には、先ほどの新聞が置かれたままだった。
その小さな見出しを、もう一度読むこともなく、それは静かに隙間風に揺れていた。




