第五話 乱れ
祭殿へ入ると、すでにすべての支度が整っていた。
左右には祭祀官と役人が並び、そのさらに後ろには各地の水路を預かる者たちが控えている。十日前と同じ顔もあれば、北から急ぎ呼び寄せられたらしい見慣れない者もいた。
澪は履物を脱ぎ、水盆へ入った。冷たさが足首を包む。十日前より、少し冷たい気がした。
中央の定位置まで進んだところで、背後から長老の杖が石床を打つ音が響いた。
「装束師」
朔が前へ出た。手には、最後の赤い紐がある。澪の前まで来ると一礼し、いつものように問いかける。
「斎主。この結びを受けますか」
「はい」
澪は迷わず答えた。朔は何も言わなかった。最後の結びが締まった。
前回より呼吸はしやすかった。帯も、肩も、どこにも強い引っかかりはない。
「整いました」
朔は水盆を出ると、そのまま列の外へ戻った。長老がもう一度、杖を鳴らす。
「始めよ」
澪は目を閉じた。最初に動いたのは、足元の水だった。
澪を中心に、ごく小さな波紋が広がっていく。石の縁へ届いた波が戻り、次の波と重なる。
ここまでは、いつもと同じだった。
澪は胸の前で手を重ね、定められた呼吸に入った。ゆっくり吸い、止めずに吐く。水面がそれに合わせるように上下する。
澪の内側がゆっくりと沈んだ。身体の中心が、自分より深いところへつながる。
足首を包む水の冷たさが遠くなる。
祭殿の音も、ひとつずつ距離を取っていく。
水が持ち上がる。薄い膜のような水が澪の足元を囲み、膝の高さまで上がっていく。
澪は目を閉じたまま、小さな違和感を覚えた。
耳の奥に、水が詰まったような音がある。
それでも姿勢は変えなかった。
今回は、何ひとつ乱さない。
***
列の外へ戻った朔は、祭式が始まってからも澪を見ていた。
装束師の仕事は、赤い紐を結べば終わりというわけではない。祭式のあいだに布がどう動くか、紐がどこへ引かれるか、終式まで形が保たれているか。それを確認して、次の記録へ残すところまでが仕事だった。
水が持ち上がる。
淡い水色の裾が、水の膜の向こうで揺れていた。肩の位置にずれはない。帯も、黒い紐も、今のところ問題はなかった。
朔は澪の呼吸を見た。
ゆっくりと上がり、下がる。支度部屋で確認したときと、ほとんど変わらない。
それでも、しばらく見ているうちに、右肩が上がった。
朔は目を細めた。呼吸に合わせた動きではない。
澪が息を吸うが、今度は胸がほとんど動かなかった。その代わり、肩が持ち上がる。
朔の眉が寄った。
この紐の位置で、呼吸が浅くなるはずはない。
――そのとき、水が大きく揺れた。
水盆の中央から押し出された水が縁へぶつかり、石床へ一筋こぼれる。祭殿の空気が変わった。
澪の身体が傾いた。
考えるより先に、朔の足が出た。
「装束師、触れるな」
長老の声が響いた。朔は止まった。
「まだ祭式は終わっていない。斎主様には、神がお降りになっている」
知っている。
赤い紐を結び、その身に神を迎えるための境界を閉じたのは、自分だ。
朔は澪を見ていた。
呼吸が浅い。足元も、先ほどから少しずつ右へ寄っていた。あれでは長く持たない。
周囲がざわめき始めた。祭祀官たちは水の動きを見ている。役人たちは互いに顔を見合わせ、北から来た者の一人が何か言いかけて口を閉じた。
だが、誰も水盆へは入らない――いや、入れない。
そのとき、澪の膝が落ちた。
「澪。終式を」
列の中ほどから、上質な礼装をまとった壮年の男の声が飛んだ。
澪は、片膝を水についたまま、胸の前で重ねていた手をほどいた。右手を水面へ下ろす。指先が触れたところから、細い波が外へ走った。
澪は息を吸った。
「――お還りください」
声はかすれていた。
水面が大きく揺れた。澪を囲んでいた水が、支えを失ったように落ちる。膝まで持ち上がっていた膜が崩れ、水盆へ戻った。
祭殿に、水の落ちる音が響いた。
長老の杖が石床を打つ。
「終式」
その声が落ちるより早く、朔は動いていた。




