第四話 古式
十日後、澪は再び支度部屋の鏡の前に立っていた。
「腕を上げてください」
言われたとおりに両腕を上げると、朔は白い小袖の上から淡い水色の長衣を掛け、背後へ回った。肩の位置を確かめるために両手を置いたところで、その動きが止まる。
「この十日、何をしました」
「何、と言われても」
「前回より肩が上がっています。特に右が」
朔は右肩の付け根に指を置き、位置を確かめるように軽く押した。
「力を抜いてください」
澪は息を吐いた。肩から力を抜いたつもりだったが、朔の表情は変わらない。
「姿勢の稽古を増やしました。普段の倍ほど」
「そうですか」
短い返事だったが、澪にはなんとなく分かった。機嫌が悪い。
「何か問題でも」
「あります」
「まだ何も着せていませんが」
「だから分かるんです」
朔は澪の肩から手を離すと、作業台へ向かった。そこには、この十日で用意した装束が並んでいる。前回と同じ淡い水色の長衣に、帯と黒い紐。ただし、その配置は祭祀院の指示を受け、古式に沿って組み直してあった。
「今日は一度、古式に近い位置で合わせます」
「一度?」
「身体に合うかを見ます」
朔は帯を手に取ったところで、澪を見る。
「そのために、一つお願いがあります」
「何ですか」
「苦しいかと聞いたときは、苦しいかどうかを答えてください」
澪は眉を寄せた。
「……どういう意味ですか」
「あなたの『問題ありません』は、申告として使えません」
「使えない?」
「身体の状態を聞いているのに、役目を続けられるかどうかを答えられても、こちらが仕事になりません」
澪は鏡の中の朔を見た。どうしてこの男が正しいことを言うたびに、少し腹が立つのだろう。
朔は澪の視線を気にすることもなく、帯を手に取り、腰へ回した。
「息を吐いてください」
澪が息を吐くと、それに合わせて帯が締まった。前回よりわずかに高い。腰から肋骨の下へ圧がかかり、息の終わりでさらに引かれる。澪は姿勢を崩さなかった。
朔の手が止まる。
「苦しいですか」
「問題ありません」
言ったあとで、澪はしまったと思った。鏡の中で、朔の瞳が細くなる。
「……少し、苦しいです」
「どこが」
澪は一度息を吸った。胸までは入るが、右の肋骨の下でわずかに引っかかる。
「右側です」
朔は帯の位置を確かめ、少しだけ下げた。指を差し入れて張りを調整する。その手が脇腹近くを通ったとき、澪の身体がわずかに強張った。
「動かないでください」
「分かっています」
少し声は低くなった。朔は気にした様子もなく、帯の張りをもう一度確かめる。
「吸ってください」
澪が息を吸う。今度は先ほどより深く入った。
「どうですか」
「……さっきより楽です」
「なら、ここにします」
「でも、それでは古式の位置から外れませんか」
朔は帯を固定しながら答えた。
「この十日、昔の装束記録を見ました。歴代の斎主付が残したものです。古いものほど、調整が多かった。斎主ごとに肩の高さも違う。呼吸も違う。古傷がある者もいた。そのたびに装束師が位置を変えている」
「……祭祀院は、そう考えていないようですが」
「祭祀院が何を考えるかは、私には決められません」
朔は次の黒紐を取った。
「私が決めるのは、この身体にどう装束を置くかです」
黒紐が腰から背中へ回され、肩を通っていく。朔の手が肩甲骨の間に触れた。
「少し前へ」
澪が身体を傾けると、背中で紐が交差する。
「戻して」
姿勢を戻したところで、朔がすぐ後ろにいることに気づいた。背中に触れてはいない。それでも、後ろへ下がればぶつかるほど近い。澪はほんの少しだけ前へ出ようとした。
「そのままで」
「……近いです」
「今だけです」
あまりに平然と言われて、澪は鏡の中の朔を見た。
「許されていることしかしません」
それだけ言うと、再び紐を整え始めた。澪は返事をしなかった。
髪が結い上げられていく。朔は少し離れて全体を確認すると、再び近づき、襟元を数ミリだけ直した。
「これで」
澪は鏡を見る。
遠目には、前回とほとんど変わらない。けれど、右肩は二分下がり、帯の位置もわずかに調整されていた。
「祭祀院には、古式どおりではないと言われるかもしれません」
「そうでしょうね」
「構わないんですか」
「斎主が息をしにくくなる方がおかしいでしょう」
澪は黙った。それは、父や祭祀院から聞いてきた言葉とはずいぶん違っていた。
朔は最後に襟元を確認すると、手を離した。
「前回より疲れていますね」
「分かるんですか」
「分かります」
澪は鏡の中の自分を見た。この十日間、姿勢を崩さないようにしてきた。歩くときも、座るときも、稽古の最中も。次こそは何ひとつ乱さないつもりだった。
「……少し、疲れています」
口にすると、思っていたより簡単な言葉だった。朔は驚きもしなければ、労わるようなことも言わなかった。
「分かりました」
それだけだった。澪はなぜか、その返事に少しだけ安心した。
支度部屋の外から、祭殿へ向かう者たちの足音が聞こえてくる。まもなく、最後の赤い紐を結ぶ時間になる。




