第三話 父
祭式を終えた翌日の昼前、澪は父に呼ばれた。
斎主の家は、祭殿から少し離れた高台にある。古い木造の屋敷で、表向きの客を通す棟と家族が暮らす棟が、中庭を挟んで分かれていた。
父が待っていたのは、客間ではなく奥の書斎だった。澪が入ると、父は机の前に座ったまま一枚の紙を読んでいた。
「座りなさい」
「はい」
向かいの座布団に腰を下ろす。
父はすぐには話さなかった。机の上には、祭祀院の印が入った文書が置かれている。澪にも内容はだいたい想像がついた。
「北の水路のことは聞いたか」
「はい。今朝、侍女から」
「夜半に水が逆流した」
「聞いています」
「田にも水が入ったそうだ」
澪は膝の上で手を重ねた。
「怪我人はいないと」
「ああ。それは幸いだった」
父は文書を机に置いた。
「昨日の祭祀について聞く」
「はい」
「途中で何か異変はあったか」
「ありません」
「水の動きは」
「いつもと変わりませんでした」
「身体は」
澪は一瞬だけ答えに詰まった。
「問題ありませんでした」
父が顔を上げた。
「そうか」
それだけだった。
朔なら、それは答えになっていないと言っただろう。なぜそんなことを思い出したのか分からず、澪は考えるのをやめた。
「装束について、祭祀院から確認が来ている。右肩の位置を、古式より二分下げたそうだな」
「はい」
「お前が求めたのか」
「いいえ。装束師の判断です」
「朔という男か」
「はい」
父は黙った。怒っている様子ではなかったが、それでも澪は背筋を伸ばした。
「理由は」
「私の右肩がわずかに高いため、そのままでは祭式の途中で紐が引くと」
「実際には」
「最後まで崩れませんでした」
「苦しさは」
また同じことを聞かれた。澪は今度は迷わなかった。
「耐えられる範囲でした」
父の眉が動いた。
「そういうことを聞いているのではない」
澪は顔を上げた。一瞬、朔と同じことを言われたような気がした。
だが、そのあとに続いた言葉は違った。
「斎主が祭式の途中で身体を崩すようなことがあってはならない。耐えられるかどうかではなく、最初から負担を残さない身体を作っておくべきだ」
「……はい」
「装束師が調整しなければならなかったということは、お前の側にも不足があったということだ」
澪は黙って頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝れと言っているわけではない」
父は静かに言った。
「ただ、水が乱れた以上、昨日の祭祀を完全だったと思うわけにはいかない」
「はい」
「祭祀院は、次回は古式に沿って支度を行う方針だ」
澪は少し顔を上げる。
「次回?」
「十日後だ」
「そんなに早く」
「北の水が戻らない。本来なら次は来月だった。だが、待てないそうだ」
十日。
昨日の祭祀の疲れは、まだ身体に残っている。腰の奥には鈍い重さがあり、右の肋骨の下も、息を深く吸うと痛みがあった。
澪はそれを口には出さなかった。
「承知しました」
父が澪を見る。
「次は、昨日以上に気をつけなさい」
「はい」
「装束も古式に戻す」
「はい」
「姿勢の稽古も増やす。今日の夕方からだ」
「分かりました」
答えてから、澪は少しだけ息を吸った。
胸の奥が重かった。でも、十日あれば整えられる。姿勢も、呼吸も、身体も。
「澪」
「はい」
「斎主は、一人で務めているわけではない」
父は声を落とした。
「お前が崩れれば、祭祀官も、装束師も、土地の者も困る。責任があるというのは、そういうことだ」
澪は深く頭を下げた。
「分かっています」
父はしばらく澪を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
「下がっていい」
「はい」
書斎を出る。廊下へ出たところで、澪はようやく息を吐いた。
無意識に腰へ手をやり、すぐに下ろす。昨日、赤い紐が結ばれていたあたりだった。
痛むほどではない。
ただ、まだ少し重い。
この程度なら問題ない。
そう思ってから、澪は足を止めた。
――それは答えになっていません。
朔の声が蘇る。
「……うるさい」
誰もいない廊下で、小さく呟いた。それから澪は何事もなかったように歩き出した。
自室へ戻ると、侍女が茶の支度をして待っていた。澪が座ると、侍女は湯呑を置きながら眉を寄せた。
「まだ、お疲れが残っておいでですか」
「大丈夫よ」
「ですが、昨日もお戻りになってから――」
侍女は何か言いかけて、口を閉じた。一度澪の顔を見て、それから目を伏せた。
「……少し、お休みになってはいかがですか。稽古まで、まだ時間があります」
「大丈夫。この程度なら問題ないもの」
侍女はそれ以上言わず、澪の前の湯呑を少しだけ寄せた。
「では、せめてお茶は召し上がってください」
「ありがとう」
澪は湯呑に口をつけた。
夕刻からは、姿勢の稽古がある。十日後には、もう一度祭祀がある。
今度こそ、何ひとつ乱さない。そう決めると、少しだけ気持ちが軽くなった。
その日の稽古で、澪はいつもより長く姿勢を保った。
肩が張っても、呼吸が浅くなっても、誰にも何も言わなかった。




