第二話 二分
翌朝、朔は工房の作業台に昨日の装束記録を広げていた。
祭式は予定どおり終了。装束の崩れなし。水脈の反応も規定範囲内。斎主の退出まで、各部の位置に大きなずれは認められなかった。
問題があるとすれば、記録上の数値だった。
「右肩、二分下げたんですか」
向かいから声がした。
朔が顔を上げると、若い装束師が記録紙を覗き込んでいる。朔より五つほど年下で、祭式装束を任されるようになってまだ二年ほどの男だった。
「下げた」
「斎主様の?」
「他に誰がいる」
「いや、そうですけど」
青年はもう一度記録を見る。
「古式だと、ここですよね」
指先が基準を示した。
「知っている」
「じゃあ、どうして二分も」
「右肩が上がっていた。この位置に置けば、祭式の後半で紐が引く」
「二分で分かるんですか」
朔は記録紙から目を上げた。
「分からないなら、斎主付には上がれない」
「厳しいなあ」
青年が顔をしかめたところで、隣の作業台から笑い声がした。
「聞く相手が悪い。そいつは昔からそうだ」
年長の装束師が、仕立て途中の袖から顔を上げる。
「朔、お前ももう少し言い方があるだろう」
「事実です」
「ほらな」
青年は肩をすくめた。
工房には朝から何人もの職人が出入りしていた。
壁際には、祭祀院から戻された装束が種類ごとに掛けられている。一般の祭官が着る白衣。地方祭祀用の長衣。季節ごとに染めを変える礼装。奥の棚には、資格を持つ者しか触れられない斎主用の生地が収められていた。
装束師とひと口に言っても、扱えるものは同じではない。
一般装束の仕立てから始まり、祭式装束を扱う資格を取り、さらに実務経験と試験を重ねる。その先に、斎主付の認可がある。
斎主の身体に直接触れ、祭式の最終調整まで任される装束師は、瑞垣全体でも多くない。朔は、その中では若い方だった。
「それにしても」
青年がまだ記録板を見ている。
「昨日、初めてだったんですよね。今の斎主様を担当するの」
「ああ」
「どうでした?」
「何が」
「いや、だから……」
青年は少し声を落とした。
「斎主様って、実際どんな方なんですか」
朔は筆を動かしたまま答えなかった。
「おい」
年長の装束師が青年を睨んだ。
「馬鹿。斎主付が口外するわけないだろ」
「性格の話ですよ。別に身体のことを聞いてるわけじゃ」
「どこからが身体の話になるか、お前に判断できるのか」
「……できません」
「なら聞くな」
青年が口を閉じる。
朔は昨日使った帯の張力を記録し終えると、筆を置いた。
「身体所見は装束記録以外に残さない」
「はい」
「本人の癖も体調も、工房の外へ持ち出さない」
「分かってます」
「ならいい」
斎主付の装束師が知ることは多い。
左右の肩の高さ。呼吸の深さ。どこまで腕が上がるか。長時間立ったときにどちらへ重心が寄るか。その日の疲労によって、どこに力が入りやすいか。
装束を正しく整えるためには必要な情報だった。
「でも、二分か」
年長の装束師が手を止めた。
「先代なら古式の位置に置いたかもしれんな」
「でしょうね」
「お前は変えた」
「必要だったので」
「斎主様は何か?」
「先代はもっと上だった、と」
年長の男が小さく笑った。
「言いそうだ」
朔は返事をせず、次の欄を確認する。
「他には?」
「何がですか」
「昨日、何か気になったことはなかったのか」
「……締め付けについて尋ねたとき、問題ない、と答えました」
「ああ」
年長の装束師は、それだけで何か分かったようだった。朔は顔を上げる。
「何ですか」
「いや」
「何かあるなら言ってください」
「お前も人には言うんだな、それ」
横で青年が笑い、朔は無視した。年長の装束師は袖を机に置いた。
「斎主の家は、昔からそういう教育をする」
「どういう」
「多少の痛みや苦しさを、いちいち口にしない。儀式を途中で止めない。姿勢を崩さない。斎主として務めを果たすことを、何より先に教える」
「それは知っています」
「知識としてはな」
男は朔を見る。
「実際に本人を扱うのは、また別だろ」
朔は昨日の記録に視線を戻した。
――問題ありません。
――この程度なら耐えられます。
どちらも、苦しいかという問いへの答えではなかった。
「育ち方は、私の管轄ではありません」
「そうだな」
「装束は私の管轄です」
「それもそうだ」
年長の装束師は、それ以上何も言わなかった。青年だけが、少し不思議そうな顔をしている。
「じゃあ、斎主様本人がもっと締めてほしいって言っても、締めないんですか」
「必要なら締める」
「必要じゃなければ?」
「締めない」
「本人が望んでも?」
朔は青年を見る。
「斎主付の資格は、斎主の言うとおりに紐を結ぶためにあると思っているのか」
「……違うんですか」
「違う」
朔は昨日の記録を青年の前へ滑らせた。
「祭式が終わるまで形を保つこと。身体の動きを妨げないこと。必要な流れを通すこと。その三つを同時に成立させる」
「はい」
「本人が耐えられるかどうかは、その基準には入っていない」
青年はしばらく記録を見ていた。
「難しいですね」
「だから資格がある」
朔はそう言って、新しい記録用紙を取り出した。
昨日の祭式で使用した黒紐は、今日中に張力を測り直す必要がある。水を含んだあとの伸びも確認しなければならない。赤い紐については、結び目の位置と祭式終了時のずれを別紙に記録する。
祭祀は終わっても、装束師の仕事は終わらない。
「朔」
年長の装束師が呼んだ。
「はい」
「次の祭式も、お前が入るそうだ」
朔の手が止まった。
「いつですか」
「十日後」
「近いですね」
「北でまた水が荒れた」
朔は少し眉を寄せた。
「昨日の祭祀で、いったん静まったはずでは」
「ああ。夕刻まではな」
年長の装束師は、机の端に置いてあった書状を差し出した。
「夜半、祭祀院の水盤に異変が出た。北の水だけ、波が逆に走ったそうだ」
「逆に?」
「ああ。すぐに現地を確かめさせた。分水路の水が、実際に上流へ向かって流れていたらしい」
朔は紙を受け取った。
「被害は」
「水路から溢れた水で、田が一枚沈んだ。怪我人はいない」
「流れは戻ったんですか」
「まだ完全には」
朔は黙って紙に目を通した。
祭祀は失敗していない。昨日、澪の装束は最後まで崩れなかった。赤い紐にもずれはなく、祭殿の水も定められたとおりに鎮まった。
「祭祀院は何と」
「次は古式どおりに支度せよ、と」
朔の目が止まった。
「昨日も古式から外してはいません」
「右肩を二分下げた」
「身体に合わせただけです」
「祭祀院には、その二分が気になるらしい」
朔は書状を机へ戻した。
「水が逆に流れた原因が、二分だと?」
「俺に聞くな」
年長の装束師は肩をすくめた。
「向こうは、古い形から外れたものを疑っている。それだけだ」
朔は昨日の装束記録へ目を落とした。
右肩、二分。記録に残された小さな違いだった。だが、あの位置でなければ、祭式の後半には紐が澪の肩を引いていた。
「……十日後ですね」
「ああ」
「分かりました」
朔は筆を取った。
昨日までは、身体に合わせて装束を整えればよかった。次は、装束だけの話ではない。




