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装束師  作者: io
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第一話 赤い紐

「腕を上げてください」


 澪(みお)は黙って両腕を上げた。

 装束師(しょうぞくし)の朔(さく)は、白い小袖の上から淡い水色の長衣を掛けると、背後へ回った。肩の位置を確かめ、右をわずかに下げる。襟を引き、左右の重なりを揃えた。


「力を抜いて」

「抜いています」

「抜けていません」


 即座に返され、澪は鏡越しに男を見る。朔は彼女を見ていなかった。襟元へ視線を落としたまま、布の重なりを指先で確かめている。


「息を吐いてください」


 澪は息を吐いた。肩が落ちたところで、朔の指が首の付け根へ入る。布が数ミリ動くと、冷たい空気が首筋を通った。


「そのまま」


 澪は動きを止める。


 この国、瑞垣(みずがき)では、水を鎮める祭祀が古くから続いている。そこで用いられる装束は、ただ身を飾るための衣ではない。

 襟の高さ、袖の落ちる角度、帯を締める位置、紐を渡す順番、髪を束ねる高さ。そのすべてを斎主(さいしゅ)の身体に正しく配置することで、はじめて一つの祭式が成立する。


 だから斎主は、自分で装束を整えない。

 その仕事を担うのが、装束師だった。


 朔は帯を取り、澪の腰へ回した。


「もう一度、吐いて」


 息の終わりに合わせて帯が引かれると、腰の周囲に圧がかかった。澪は眉ひとつ動かさなかった。朔の手が止まった。


「苦しいですか」

「問題ありません」

「それは答えになっていません」


 澪が鏡を見ると、朔もようやく顔を上げた。


「苦しいですか」


 同じ問いだった。


「……この程度なら、耐えられます」

「それも聞いていません」


 澪は黙った。斎主として装束を着始めてから、何度この程度の締め付けを受けただろう。儀式は長い。途中で形を崩すことは許されない。そのための装束だ。


「少し、苦しいです」

「分かりました」


 朔はそれ以上何も言わなかった。帯をわずかに戻す。ほんの数ミリだった。


「これで」


 澪は息を吸った。先ほどより深く入る。


「……問題ありません」

「だから、それは聞いていません」


 澪は口を閉じた。朔はもう次の作業へ移っている。細い黒紐を取り、腰から背中へ渡す。肩を通し、再び腰へ戻す。その手つきに迷いはなかった。


「右腕を少し下げて」


 澪が腕を下げる。


「下げすぎです」


 少し戻す。


「そこ」


 朔はその位置で黒紐を固定した。


「以前は、もう少し上でした」


 澪が言うと、朔は手を止めなかった。


「以前というのは」

「先代の装束師です」

「そうですか」

「古式の記録でも、この位置だったはずです」

「存じています」


 平然と返された。澪は鏡越しに彼を見る。


「では、なぜ」

「あなたの右肩が左よりわずかに高いからです」


 朔は黒紐の位置を確かめる。


「記録通りに置けば、祭式の途中でこちらへ引かれます」

「その程度なら」

「耐えられる?」


 先ほど自分が言った言葉を返され、澪は黙った。朔は手を止め、わずかに眉を寄せて澪を見る。


「あなたが耐えられるかどうかは、私の判断基準ではありません。最後まで形が保てること。それが私の仕事です」


 澪は返事をしなかった。


「顎を上げてください」


 澪が上げる。


「もう少し」


 上げる。


「そこ」


 指が顎の下へ触れ、角度を確かめると、すぐに離れた。

 次は髪だった。朔は澪の長い髪を持ち上げ、首の後ろでまとめていく。冷たい空気が露わになった首筋へ触れる。そのあとから、指先が通った。


 澪の肩がわずかに動くと、朔の手が止まった。


「痛みましたか」

「いいえ」

「では、動かないで」


 先ほどまでと同じ声音だった。澪は返事をせず口を結んだ。この男は、本当に容赦がない。


「斎主様」

「……分かっています」

「なら、そのまま」


 髪が持ち上げられる。銀の簪が挿され、白い石の飾りが留められた。朔は細部まで確認してから、一歩下がった。


「目を閉じてください」


 澪は目を閉じる。額に冷たい水が触れ、そのあとを追うように指先が眉間から上へ滑っていく。水の筋を引き終えると、指はすぐに離れた。


「開けて」


 鏡の中には、斎主がいた。白。淡い水色。黒い紐。幼い頃から何度も見てきた姿だった。

 ただし、まだ最後の一本がない。


「ここまでです」


 朔が言うと、ほぼ同時に、支度部屋の戸が二度叩かれた。


「斎主様」


 祭殿を預かる長老の声だった。


「刻限です」


 澪が鏡から目を離すと、朔も一歩下がった。それまで身体のすぐ近くにあった手が、離れていく。


「行きます」


 澪は立ち上がった。二人は支度部屋を出て、長い廊下を祭殿へ向かった。


 扉の向こうでは、すでに儀式に立ち会う者たちが待っていた。石床の左右には神官や役人、土地の代表者が並び、誰も声を発さない。


 中央には浅い水盆が据えられていた。その水面が、淡く光っている。

 澪は一人で水盆へ向かった。履物を脱いで水へ足を入れると、冷たさが足首を包んだ。そのまま中央まで進み、定められた位置で立ち止まる。背後で長老の杖が石床を打った。


「装束師」


 朔が進み出る。その手には、赤い紐が一本だけあった。


 最後の一本。それだけは、支度部屋では結ばれない。

 斎主が自らの意思で儀式へ入ったことを、この場にいるすべての者が見届けたうえで結ばれる。


 朔は水盆へ入り、澪の前まで進んだ。一礼する。それから赤い紐を両手に持ったまま、澪を見た。


「斎主」

「はい」

「この結びを受けますか」

「はい」


 返事はすぐに出た。

 朔は数秒、澪を見ていた。


「……何ですか」


 澪は、朔にだけ届く声で呟いた。


「何も」


 もう一度、一礼する。


「腕を開いてください」


 澪は両腕を開いた。赤い紐が腰へ回される。朔はそのまま彼女の背後へ回り、両端を取った。


「息を吐いて」


 澪はゆっくり息を吐く。その終わりに合わせて、紐が引かれた。


 腰が締まる。今まで重ねられてきた布も帯も黒い紐も、その一本によってひとつの形へ収まっていく。

 朔は再び正面へ回った。結び目を作る場所は、左の脇腹。指先が、布越しに澪の身体へ触れる。


 一度。二度。最後の結び。


「整いました」


 朔の手が離れた。それ以降、祭式が終わるまで、装束師が斎主へ触れることは許されない。

 朔は一歩下がり、そのまま水盆を出ると、列の外へ戻っていった。祭殿の扉が閉じる。


 澪は腰に残る赤い紐の圧を確かめた。


「始めよ」


 長老の声が響いた。

 澪は目を閉じた。水が、静かに持ち上がった。

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