第六話 御身
朔は水盆へ入った。澪は片膝をついたまま、ほとんど動いていなかった。髪の先から水が落ち、濡れた装束の袖や裾からも、細い雫が絶えず水面へ落ちている。ぽつ、ぽつ、と小さな音がした。
肩が上下していた。呼吸はまだ浅い。
「斎主様」
肩に手をかけるが、返事はない。
「聞こえますか」
「……はい」
かすかな声が返った。伏せられていた瞳が、ゆっくりと朔へ向く。焦点が合うまで、間があった。
「立たなくていいです。そのままで」
澪は小さく頷き、身体を支えるように片手を水中の石床へついた。指のまわりから、小さな波紋が広がる。濡れた装束が身体に張りつき、指先が震えていた。
「息はできますか」
「できます」
「痛むところは」
「……ありません」
朔は眉を寄せた。身体が冷たい。
「寒くないですか」
「……少し」
少し、ではないだろう。
支えた身体は、濡れた装束越しにも冷たかった。
「何か掛けるものを。冷えています」
近くにいた侍女が動いた。
「お待ちなさい」
女の声が、それを止めた。
列の端から、濃い灰色の衣をまとった女が前へ出てきた。胸元には祭祀院の紋がある。女は水盆の前まで来ると、澪へ深く頭を下げた。
「斎主様。そのままでお待ちくださいませ」
その呼びかけに、澪の指先が止まった。支えられていた身体が、ふっと引き締まる。
「終式を終えられたばかりです。まず御身を清めなければ」
「震えてます」
朔が言うと、女はゆっくりと頷いた。
「承知しております。ですが、神をお迎えした御身です。定められた順がございます」
祭殿の奥から、低い声が重なった。
「神がお怒りになったのでは……」
「こんなことは、今まで」
「斎主様に触れてよいのか」
女が振り返った。
「慎みなさい」
口調から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「神意を軽々しく口にするものではありません」
女は胸元で手を重ね、水盆へ向かって頭を垂れた。
「どうか、お鎮まりください」
その言葉が誰へ向けられたものなのか、朔には分からなかった。
その間にも、澪の肩が小さく震えている。
「布をください」
「装束師。まだお清めが済んでおりません」
「その間にも冷えます」
「斎主様のお身体ですよ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
澪の顔は白く、唇からも色が失われていた。
「分かっています」
――だから、言っている。
侍女は布を持ったまま、二人のあいだで動けずにいた。
そのとき、杖が石床を打った。
「鎮まれ」
長老の声が祭殿へ響く。
「終式は済んだ。神はお還りになっている。清めは後でよい」
祭祀院の女は、ゆっくりと口を閉じた。朔の手元へ向けられた視線だけは、しばらく動かなかった。
朔は侍女から布を受け取り、澪の肩へ掛ける。
「腕は通さなくていいです」
「はい」
朔は布の端を引き寄せ、澪の胸元を覆った。澪が長く息を吐く。少しだけ肩が下がった。
列の中ほどから、上質な礼装をまとった壮年の男が出てきた。澪が、はっと顔を上げる。
「お父様」
父は澪の顔を見て、息を吐いた。それから周囲へ視線を戻す。
「医師を呼べ」
役人の一人がすぐに動く。
「今日の記録はすべて残せ。各地にも確認を」
「承知しました」
祭祀院の女が一歩進む。
「祭祀院でも確認いたします。水の動きと、終式までの経過を。斎主様には、その前にお清めを――」
「佐和殿。医師が先だ」
父が短く言うと、佐和の口元が小さく動いて、それから閉じた。それ以上は言わなかった。
澪が水中の石床へ手をついた。
「立てます」
「まだ座っていてください」
「大丈夫です」
そう言って、澪は身体を起こそうとした。
水を吸った装束が重く、裾が足元にまとわりついた。澪は一度動きを止め、それでも石床から手を離した。立ち上がりかけた身体が、ふらりと傾く。
朔はすぐに腕を回した。とてもだが、大丈夫そうには見えなかった。それでも、立つつもりなのだろう。
「……ゆっくりと」
澪は足へ力を入れた。朔に支えられたまま、どうにか立ち上がる。
「……申し訳ございません」
澪はそのまま、頭を下げた。誰に向けて謝っているのか、朔には分からなかった。
父の眉が上がる。
「謝ることではない」
長老が杖をつき直した。
「斎主の務めは、倒れぬことではない。神を迎え、還すことだ。終式は済んだ」
「……はい」
佐和は澪へ深く頭を下げた。
「斎主様。どうか御身をお大事になさってくださいませ」
その声音には、嘘のない敬意があると、朔は感じた。
この女は、本当に澪を大切にしているのだろう。ただ、先ほどから一度も、寒いかとは聞かなかった。




