第8話 先々代の忠告
結局、その後もなかなか解放してもらえず、一時間以上も雑用に付き合わされる羽目になってしまった。
「クソ暑かった……まるでサウナだな。あと一分でも長くいたら干からびてたぞ……」
なぜあんな地味で苦しい作業を、吉山は平気な顔してこなせるのか理解に苦しむ。しかも無給で、誰に感謝されるわけでもないからな。
あれが世のため人のためというやつなのか。その奉仕精神をけなすつもりはないが、俺には理解できない考え方だ。
「うわ、もうこんな時間かよ……そうだ。夕飯の買い出し行かないと。たしか冷蔵庫の中なんもなかったよな……」
うちはアパートで姉さんとほぼ二人暮らし。朝食と昼食はいつも姉さんが用意してくれるが、夕食は当番制になっている。そして今日は俺が料理当番の日だ。
姉さんとの約束は、吉山から押し付けられる雑用とは訳が違う。何があっても必ず完遂せねばならない最重要ミッションだ。失敗は許されない。
「さて、どこで食料を調達すべきか……」
当番制が始まったのは俺が高校に入ってからだ。それまで俺にとって料理とはカップ麺にお湯を注ぐか、冷凍食品をレンジに入れて温める行為を指す言葉だったが、姉さんに振る舞わなければならない以上、包丁を使うという高等技術を習得する必要に駆られた。
それだけではない。料理には調理だけでなく、食材を調達し、献立を考え、調理後に使用した器具を洗って片付ける工程も含まれることを知った。つまり、どのスーパーで食材を買おうか検討しているこの段階で、既に俺の料理は始まっているのだ。
「今日は月曜だけど……どこで何が安いんだろう」
うちから行ける範囲のスーパーは三か所ほどある。薬局なんかも含めれば選択肢はさらに増えるだろう。
その全てにおいて、どこに何が売っていて、他よりどの程度安いのか、ポイントカードの有用性なども含めて判断しなければならない。
無論、料理を始めてまだ二か月の素人である俺にそれほどの知識は無い。ネット、新聞の折り込みチラシ、風の噂などを頼りに情報収集しているが、刻一刻と変化する市場には正直ついていけそうもない。
「こういう時は……やっぱここか」
俺の住む地域は最寄り駅まで徒歩三十分くらいあるそこそこの田舎だが、買い物に不便を感じたことはあまりない。
なぜなら、この地にはかの有名な大型ショッピングセンタージャストが君臨しているのだから。
ここには本屋もあるし、映画館もあるし、ゲームセンターもあるし、バッティングセンターだってある。何か欲しいものがあればここに来れば大体揃ってしまう便利な場所だ。
そしてもちろん食品売り場もある。あちこちのスーパーを行ったり来たりするのが面倒になった時はここに来れば、大体なんでも手頃に揃ってしまうのだ。
「今日は何にしようかな……」
下校路を逸れてジャストへ寄った俺は、買い物かごを片手に食品売り場を練り歩く。
大特価とか、大安売りとか書いてある商品が色々あるが、普段と比較してどれだけ安くなっているのかよくわからない。これは本当にお買い得なんだろうか。
そもそも俺は一体何が欲しいんだ。安いからとあれこれ買っても、上手く使い切れなければ余計な出費になるだけだ。まずは必要なものが何かを見定めなくては。
「はぁ……何作るか考えるのがもう面倒臭いよなぁ……せめて誰か決めてくれよ。俺が作れそうなメニューの中からさぁ」
「────じゃあカレーはどう?」
「カレー? カレーか……作るの自体は割と楽だけど時間がかかるんだよな。もう時間も遅いし早く作れるものにしないと姉さんが待ってるから……」
「あたしは全然待てるよ? というかお姉ちゃんが手伝ってあげよっか?」
「は?」
あまりにも自然に俺の独り言に割り込んでくるので気が付かなかった。
背後にうちの姉が、俺の肩に顎を乗せるくらいぴったりとくっついて立っている。
「……なぜいるんだ」
「なかなか帰ってこないなぁと思って、心配で探しに来ちゃった」
姉さんはあざとく片目を瞑り、ペロリと舌を出す。
「……まだ五時過ぎくらいだぞ。小学生ならともかく、高校生男子が心配されるような時間帯じゃないだろ」
「そう? トラブルに巻き込まれることもあるかもしれないじゃん?」
「何を言ってるんだ。そういうゴタゴタがないように、俺は常日頃から人と距離を置くことを心掛けているんだぞ。好意も恨みも抱かれることはない」
「でもそのやり方は同族と堅物には効かないからね」
スパっと言い切る姉さんに、俺は反論の言葉を失う。
「当ててあげようか? 最近ちょくちょく帰りが遅くなってるのは、真面目な先生かクラスメイトに目を付けられちゃったからじゃない? それでお説教でも受けてるんでしょ? あるいは雑用でも押し付けられたかな?」
いつものことながら、姉さんの勘の鋭さには戦慄させられる。もしかして俺の生活を四六時中監視してるんじゃないかと思えるくらいだ。
「俺を更生させようとしてるやつがいるんだよ。そいつに色々と面倒なことを押し付けられて大変なんだ」
「あんたでも人間関係の煩わしさからは逃れられないかぁ」
「その内諦めるとは思うけどな。そいつだって立場的に俺の面倒を見なきゃいけないだけで、個人としては関わり合いになりたくないはずだ。だからもうしばらくすれば、完全に孤独な高校生活を送れるようになる」
「でも、朱美ちゃんについてはどうなの?」
姉さんは俺の正面に回り込み、弾むような声でそう尋ねてくる。
「またその話かよ……」
「秀児は誰彼構わず嫌われようとするけど、あの子とだけは仲良くしてるよね?」
「……あいつがしぶといだけだ。別に仲良くしてるつもりはない」
「でも突き放したりはしないじゃん」
「いつも言ってるだろ。俺は嫌われたいけど恨まれたくはないんだ。あくまで俺に対して無関心でいてほしいだけで、禍根までは残したくない」
「だったら話しかけてきても無視してればいいんじゃない?」
「…………」
俺が言葉に詰まると、姉さんはさらに詰めてくる。
「どうしてそんな中途半端な態度を取ってるのか、当ててあげようか?」
「……もういいだろ。この話は」
「それは秀児が……」
「姉さん」
努めて冷静に、しかし鋭く呼びかける。
「わかってるから、余計なことは言うな」
「……そう? ならいいんだけど」
人の心は見ることができない。確かめることなど永遠にできないし、だからこそ俺はそこに価値を感じていない。
だが、見えないからこそ都合がいい場合もあることを認めなくてはならない。
俺が朱美のことをどう思っているか。その答えは俺の心の中にしかない。だから俺が言葉にさえしなければ、何も存在しないのと同じなのだ。
存在しないものを守るために必死になることはない。不安になることもなく、裏切られることもない。他人に対し無関心でい続けるというのはそういうことだ。
「それより姉さん、聞きたいことがあるんだけど」
「ん?」
こんなことわざわざ確認したくもないが、せっかく裏を取る手段があるのだからハッキリさせておいた方がいいだろう。
先週の土曜、俺は猿投先輩から特異属性なるものの存在を教えられた。あんな話を信じてはいないが、それらしき資料が継承されているのは事実のようだった。
アレは一体どういうことなのか。ほんの五年前まで来栖高校生徒会会長だった姉さんなら何か知っているはずだ。
「来栖の生徒会のことで……」
「ほうほう、何でも聞いてみなさいな。可愛い弟の頼みとあれば、どんな質問にも答えてあげるよ」
「えっと……」
アレ、なんだっけ。やけに変な名前の……アレを確認しなきゃいけないんだけど、ヤバい名前をド忘れしてしまった。
「あの、生徒会室にさ。ファイルってあるだろ? レポートが入ってるやつ」
「レポート? レポートって言っても色々あるけど?」
「それが……確か漢字四文字くらいの……」
「書類は沢山あるからねぇ。漢字四文字と言われてもピンとこないよ」
「なんだったっけ……確か……『い』から始まる……いや、違うな。『と』から始まるんだったかな。とにかくそのレポートが昔からあるものなのかどうか教えてくれ」
「ごめん、さっぱりわからん」
だよな。こればっかりは俺が悪い。
なんでだろう。姉さんに聞けば一発でわかると思ったのに、大事なことを忘れてしまった。起きた瞬間に今まで鮮明に見えていたはずの夢の内容をボンヤリとしか思い出せなくなるような感覚だ。
「ふむふむ、さっぱりわからんけど、完全に理解したよ」
頭を抱える俺とは対照的に、やけにスッキリした顔つきの姉さんが、顎に手を当ててキメ顔を作っている。
「そうかそうか。私はもう来栖高校の生徒じゃないからなぁ。対象外になっちゃうのか」
「は? なんだよ。わかったのか? いや絶対わかってないだろ」
「お姉ちゃんは勘が鋭いからね。愛する弟の考えなんて全部わかっちゃうんだよ」
我が姉ながら、どこまで本気で言っているのかサッパリわからん。全く中身のないことを言っているだけのような気もするし、かなり正確に本質を見抜いているような気もする。
「珍しくナヨナヨしてると思えば、そういうことだったか。となると、対象は朱美ちゃんの方かな。ちょうどおあつらえ向きのモノがあったし……」
「何ブツブツ言ってんだ……?」
「ん? ああ、聞こえないのか。じゃあ何でもないよ。大丈夫。安心して、お姉ちゃんはいつだって可愛い弟の味方だからね!」
そう言ってサムズアップを見せつける姉さんの胡散臭さったらない。こんなにも信用に足らない人間が他にいるだろうか。
「まあいいや。また思い出せたら聞くことにする」
確認しようがしまいが、あんなイカれた妄言なんか信じないことに変わりはないのだ。
ならば別に後日でも構わないだろう。何ならこのまますっかり忘れてしまってもいいくらいだ。朱美と付き合えだなんて馬鹿なことを言ってくる生徒会長の脳内設定なんぞに振り回されるのはアホらしいからな。
「そうだ。姉さんの希望通り、今日はカレーにしよう。なんかもうメニュー決めるのも面倒臭いし」
「お、いいね。ルーは家にあるから、それ以外の材料だけ買えばいいよ」
「それ甘口だろ? たまには辛口にしてみないか?」
ちょうど棚に辛口のルーが見えたので、手に取ってみる。
パッケージに赤い文字でデカデカと警告文みたいなものが書かれているくらいには強烈なやつだ。ちょっと興味がある。
「別にいいけど、それなら一緒に牛乳も買った方がいいよ」
「牛乳? なんで?」
「辛さを抑えられるから」
ほほう、どうやら姉さんは俺が辛口を食べられないと思っているらしい。
見くびってもらっては困る。こちとら学校一の不良生徒だぞ。辛口カレーごときで怯むわけないじゃないか。
「だったら激辛にしてやる。タバスコもたっぷり入れてやる!」
「食べ物で遊ばないの」
「遊びじゃない! ちゃんと完食するんだよ!」
俺は勢いそのままにカレーの具材と激辛ルーと調味料を買い込み、意気揚々と家に帰ってカレーを作った。
その後、姉さんがこっそり買っていたパックの牛乳三本を俺一人で全て飲み干すことになるとは思ってもいなかったが。




