第33話 高嶺の花と線香花火
「ここまで来れば……もういいだろ……」
俺は学校近くの公園まで来ると、乱れた呼吸を整えながら朱美を下ろした。
「こんなに走ったのは久しぶりだ……喉の奥の方で血の味がする……」
「だらしないわね。綿のように軽い私を抱えてちょっと走っただけでしょうに」
「…………そうだな」
冗談なのか本気なのかよくわからないことを言って、朱美は軽く浴衣を払った。
「ねえ、秀児。さっきのことだけど……」
朱美は目線を逸らし、口もとを指でなぞりながら俺を呼ぶ。しかし二の句を継ぐことはなく、俺たちの間には質量のある沈黙が漂う。
「なあ、朱美」
静かな湖に一石を投じるように、俺は一歩前へと踏み出す。
「……約束、急に断ってごめん。せっかくの祭りからこうして連れ出したことも……悪いと思ってる。だから、せめて今からでも、祭りを楽しまないか?」
「お祭りを? でも会場に戻ったらまた追いかけられるんじゃ……」
「大丈夫」
俺は鞄の中から事前に買っておいた線香花火を取り出し、朱美の前に突き付ける。
「花火大会だ。ちょっとショボいけどな」
「あら、用意がいいわね」
「ふふん、まあな」
「ちゃんと火の始末をするためのバケツは用意した? ライターかマッチは?」
「…………ちょっとコンビニ行く用事ができた」
すぐさま隣にあるコンビニへ駆け込み、水を溜められそうな容器と火種を調達する。決して忘れていたわけではない。ここで買えるから用意しなかっただけだ。……線香花火もここで買えるって? それは言わないお約束だろ。
「────さて、気を取り直して」
ライターで火をつけ、パチパチと飛び散る火花をしゃがみ込んで眺める。
同じ花火という括りではあるが、あれだけ多くの人を惹きつけた打ち上げ花火とはえらい違いだ。
「はぁ……」
「何よ。ため息なんか吐いちゃって」
「うん? なんというか……いいなぁ……って」
派手さはない。輝きは小さく、今にも闇に呑まれてしまいそうなほど弱々しい。それでも俺はこの小さな光が好きだ。これこそが俺にとっての青春だという感じがする。
だが、この光もあとほんの数十秒程度で失われてしまうだろう。その儚い輝きが消えてしまう前に、言っておかなければならない気がした。
「……なあ、朱美」
「なに?」
朱美は花火から視線を切り、俺と目を合わせる。
「お前に……言いたいことがあるんだ」
言葉にしたものはいつか崩れる。形にしたものはいつか壊れる。だから俺は朱美と、何でもない関係を維持していたかった。友だちでも、ましてや恋人でもない、曖昧で居心地のいい関係だ。
だが、そんなものに一体何の意味がある?
花火が輝くのは一瞬だ。それでも、すぐに消えてしまうからといって、その輝きに価値が無いとは思わない。
人と人との繋がりだってそうだ。一生を添い遂げる人間などほとんどいない。どれだけの大親友でも、心から愛し合った恋人でも、いずれはいなくなってしまう。だからといって、その別れが悲劇だと決まったわけじゃない。
恐れる必要はないんだ。朱美には傍に居てほしい。そう思うのなら、それがたとえ永遠ではないのだとしても、できる限り長く彼女の心を繋ぎ止めようとすればいい。
だったら俺は、この気持ちを言葉にしなくてはならない。形にしなくてはならない。それができなければ、他人の心を求める資格がない。
「俺は……お前が……」
どうやって言葉にしようか、ずっと考えてはいた。
しかし、今の今まで結論は出ていない。一体何が正解なのか、どうすればいいのか、俺にはわからない。
きっとそんなもの、誰にもわからないんだ。それでも、わからないなりに言葉を尽くして、気持ちを伝える覚悟がある人間にのみ、誰かの心を繋ぎ止める権利がある。
そして……その覚悟が俺にはない。
何か言わなければ、何も起こらない。
わかってる。
そんなことはわかっているんだ。
それでも言葉が出ない。
「………………」
結局、何も言わないまま朱美の握る線香花火の光が落ちた。辺りはふっと暗くなり、朱美の表情が見えづらくなる。
俺はなんてダサいんだ。情けない男だ。一歩踏み出す勇気すら持たない臆病者だ。ずっと傍に居てくれた人に、自分の気持ちを伝えることさえできないなんて。
「秀児、私ね。思うのよ」
沈黙を破るように、朱美は次の花火を取り出して火をつけた。
「どれもこれも同じような花火に見えて、ちょっと違うの。色とか、光り方とか、この子たちにも案外個性があるものなのよ」
弱々しくも美しい光は、今まさに俺たちの目の前で懸命に輝いている。地に落ちるまでのわずか数十秒で、少しでも華々しくあろうと藻掻いている。
「だから、それぞれの形があっていいのよ。焦る必要なんてない。誰かに合わせる必要もない。秀児が納得するまで悩んで、結論を出してくれたらいい」
「で、でも、それじゃあ……」
「私がいなくなるかもって思ってる?」
朱美の一言が、俺の心の隙間に鋭く突き刺さる。
人の心は見ることができない。なのにどうしてこうも俺の心は彼女に見透かされているのだろう。
「大丈夫、私はどこにも行かないわ。もうしばらくは秀児のことを待っていてあげる。だから秀児も、私のことを信じていいのよ」
いいや……違う。朱美だって俺の心が読めるわけじゃない。俺が何を考えているのかなんて彼女にはわかっていない。ただ信じてくれているんだ。
ずっと疑問だった。
俺以外の人間は、どうやって別れの恐怖に抗っているのか。いつかいなくなる人間にどうしてそこまで愛情を傾けられるのか。その姿に憧れ、ずっと答えを知りたかった。
それが今、ようやくわかった。
朱美は俺のことを信じてくれている。目に見えない俺の心を恐れず、理解することを諦めることもなく、信頼して寄り添ってくれている。
いつか壊れることを覚悟しているわけじゃない。いつまでも壊れないと信じている。それこそが、人と人との繋がりのあるべき形だったんだ。
俺は根本的に勘違いをしていた。
朱美の心を求めるなら、それを失う覚悟が必要だと思っていた。どうやら俺は……この期に及んでまだ朱美を信じ切れていないらしい。それは朱美が悪いんじゃない。俺がそういう人間だから悪いんだ。
「……わかった。じゃあもう少しだけ、俺に時間をくれ」
俺にはまだ乗り越えるべき壁がある。そう確信した。
真に朱美のことを想うのなら、今のままでは駄目だ。彼女の信頼に応え、俺も同等の信頼を寄せられる男にならなくては。対等な関係など有り得ない。
「ええ。けど、いつか必ず聞かせてね。待ってるから」
「ああ、必ず」
輝く線香花火。その光を映し出す朱美の瞳を見ながら、俺は力強く頷く。
誰だっていつか俺の前からいなくなる。だったら最初からいない方がマシだと、ずっと嫌われ者に徹してきた。その生き方を一朝一夕で変えられるとは思わない。
それでも俺は前を向くんだ。面倒で、厄介で、壊れやすくて、曖昧で、目に見えない不安定なものを、心の底から欲しいと思ってしまったのだから。




