第18話 嘘吐きの資質
「随分長いお手洗いでしたね」
映画を見終わった後、シアターから出たところで、合歓木先輩からチクリとそう言われた。表情こそもはや言うまでもなくいつも通りだが、その声には微かに棘がある。
おススメの映画を見ている途中で席を立たれ、長時間戻ってこないとなれば不機嫌になるのも当然だろう。
「すいません。朱美とバッタリ出くわしまして……それでちょっと話を」
「そうでしたか。事情を話してはいませんよね?」
「特異属性に関することは何も。偽装デート中だってことは言いましたけど」
「……それで、彼女は何と?」
「それが……ちょっと怒ってたみたいですけど、最終的には帰ってくれました」
ハグされたなんて話はしなくていいよな。一応恋人のフリをしている最中なのに、別の女に抱き着かれたなんて言ったらまたややこしいことになりそうだ。
「帰ってもらえたなら何よりです。さて、ではデートの続きをしましょうか」
「────あ、あの!」
次は一体どこへ行こうかと考えていると、柱の陰に隠れていた犬山が顔を出す。
「も、もう……いいです……わかりました……」
彼女は息を荒げ、視線を彷徨わせながらそう言った。
「二人が……付き合ってるのは……わかり、ました。もう、私は……これ以上、あなたたちのデートを見ていても仕方ないので……これで帰ります……」
今日一日はずっと偽装デートをすることになると思っていたのだが、予想以上に早く犬山が納得してくれたみたいだ。
「なんだか……イライラしてしまって……なんというか……あなたたちみたいなカップルを見ていると、無性に爆発してほしくなるというか……そ、率直に言って砕け散ってほしい……」
むしろ上手くいきすぎて、犬山の怒りを買っていたらしい。彼女からとてつもない怨念を感じる。そんなにカップルが嫌いだったのかよ。
「秀児君、彼女は?」
合歓木先輩は突然現れた犬山に対し、即座に知らないフリをしてみせる。先輩にとっても予想外の出来事だったろうに流石の対応力だ。
「犬山三春だよ。今日ここでデートするってことを彼女には伝えていたんだ。俺と朱美が付き合ってるんじゃないかって疑ってたから、その目で直接確かめてもらおうと思って」
「へえ、あなたが例の犬山三春さんですか。お話は聞いていました。それで、私の愛する恋人である秀児君の疑いは晴れたのですか?」
「………………はい」
犬山は体を小さくしながら自信なさげに頷いた。
「あ、あの、それじゃあ、私は……これで……」
そう言って、犬山が俺たち二人の間をすり抜けた直後、彼女の足がピタリと止まる。
「……どうした?」
普段の犬山からは想像もできないほど俊敏に振り返ると、迷いなく真っすぐに俺のことを見つめてくる。
「な、なんだよ」
その気迫に気圧されて一歩下がると、犬山もまた一歩前へ出る。そのまま壁際まで後ずさると、彼女は躊躇なく距離を詰めてきて、俺の胸元に顔を近づけた。
「だ、だから何なんだよ⁉」
犬山はトリュフを探すブタのように鼻をひくつかせ、人目を一切気にすることなく鼻息を荒げている。
「匂いがします」
恐怖を感じるほど淡々とした一言だった。
「あなたから、朱美様の匂いがします」
頬が引きつったのが自分でもわかった。それほどあからさまな反応を、至近距離から俺を見つめる犬山が見逃すはずもない。
「あなた、今日どこかで朱美様に会いましたね?」
さっきまでのオドオドした犬山はどこかに消え去った。今の彼女は見たもの全てを凍り付かせるほどの狂気に満ちている。
「な、何を言ってるんだ。匂い? そんなのわかるわけないだろ。鎌をかけようとしても無駄だぞ。俺は朱美になんて会ってないんだからな」
「会ってない? 会ってないというんですか? こんなにもベッタリと濃厚な朱美様の匂いを漂わせておきながら?」
「の、濃厚って……」
あいつ、そんなに臭いのか……? 俺には何も匂わないんだが……?
「それもこれは頭皮の匂いですね。あなた……朱美様に抱き着きましたね……?」
な、なんだこいつ! 気持ち悪ッ!
「やはり、私に嘘を……」
「う、嘘っていうか、ちが……その……」
なんて勘の鋭いやつだ……ここから言い逃れできる気がしない。
底なしの闇を湛えた犬山の瞳が、俺を引きずり込んで離さない。どんな言い訳をしてもより深く沈み込むだけだ。
もはや俺にできるのは口を閉じて目を逸らすことくらいしか……。
「何を隠す必要があるのですか? 正直に言えばいいじゃないですか。映画の途中でお手洗いに行った際、偶然出会ったと」
そんな俺に助け舟を出すように、合歓木先輩が割り込んできた。
「そうやってすぐ動揺するから嘘っぽくなるのですよ。新宮朱美さんは秀児君の幼馴染であって恋人ではありません。偶然出会えば挨拶をすることくらいあるでしょうがそれだけです。やましいことなど何もありませんよ」
「でも……彼女さんに内緒でこっそり会ってたんじゃないですか? これはう、浮気なんじゃないですか?」
「浮気をするにしても、私とデートしている最中にわざわざほんの数分だけあってどうするのですか? そんなことをしても浮気が露呈するリスクがあるばかりでほとんど意味がありません。それにあなたの敬愛する新宮朱美さんはそんな扱いを受け入れるような方ではないでしょう?」
「それは………………当たり前です。朱美様はこんな平民の二番目の女に収まるような人じゃありません!」
「へ、平民……?」
いかにも俺は平民の中の平民ではあるが、そんな単語今時歴史の教科書か異世界もののラノベでしか見ないぞ。そもそも朱美だって普通に平民だろ。
しかし何はともあれ、犬山が纏っていた異様な雰囲気がすっかり消えている。平坦な感情で静かに詰める合歓木先輩の言葉が効いたようだ。
「これ以上秀児君を疑うのは、朱美さんの品位を疑うことにも繋がりますよ? あなたはそれでいいのですか?」
「わ、私は……そ、そんなつもりは……」
すっかり自信を無くしてしまった様子の犬山。もはや圧迫感はなくなったが、一周回って今度は泣きそうになっていることに恐怖を感じる。
「合歓木先輩、これ以上詰めたら……」
「わかっています」
合歓木先輩は犬山が泣き出す寸前で、一歩前へ出てハンカチで目元を拭う。
「ご理解いただけましたか? 秀児君は私の恋人なんです。私は秀児君を信じています。あなたも朱美さんのことを信じてあげてはいかがですか?」
「う、うん…………」
犬山はすっかり言い包められ、そのまま肩を落として帰っていった。あれならもう俺に突っかかってくることもないだろうな。
「なんとかなりましたね……」
ホッと一息吐く俺の隣で、先輩は何の感慨も湧いていなさそうな仏頂面で立ち尽くす。
「すいません、俺どうも嘘吐くのが下手みたいで……」
「確かにそうですね。今日のあなたはずっと役立たずでした」
「うぐ……」
別に否定してもらおうと思って言ったわけではないが、間髪入れずに肯定されると自分の無能ぶりを否が応でも思い知らされる。
「ただし、今日のあなたはです。普段のあなたはもっと上手く嘘を吐くはずでしょう。そうして周りの人を適当にあしらって、面倒な事柄を避けて生きているのでは?」
「いやぁ……普段からこんなもんですよ……」
「そうですか。自覚がないとは思えませんが」
ピンと真っすぐに伸ばされた合歓木先輩の人差し指が、俺の胸の中心を突く。
「そんなに難しかったですか? 自分の心を偽るのは」
「……えっ?」
「私は心を殺して今回の偽装デートを行いました。ある程度の制限は設けさせていただきましたが、それ以外はきちんとあなたの恋人として振る舞うよう心掛けたつもりです。ですがあなたはそうではなかった。私の恋人として振る舞う気が微塵も感じられませんでしたよ」
「そ、そんなことは……」
「別に怒っているわけではありません。仕方のないことだと思います。私も会長には絶対見に来るなと言っておきましたから」
「会長? ……何の話ですか?」
「わからないのならいいです。わからないフリをしているだけなら、今一度よく考えた方がいいかもしれませんが」
合歓木先輩はそうやってよくわからないことを一方的に言ってそのまま帰っていった。
こうして俺たちの偽装デートは幕を閉じた。
最初から最後まで俺はほとんど何もできなかったが、結果としては無事成功。犬山の誤解を解消し、雨女の脅威を退けることができたのだった。




