第17話 密会
上映が開始してから多分三十分くらいが経過した。展開的にはそろそろ序盤から中盤に移行するところだろうか。
(……トイレ行きたくなってきた)
上映開始して五分くらい経った時から、なんか微妙に気になるな……とは思っていたのだが、それがいよいよ誤魔化し切れないレベルまできている。
なぜだ。上映前まで全然行きたくなかったのに。膀胱すっからかんですよって感じだったのに、いきなり満杯になりやがった。
……いかん。もう映画の内容にも全く集中できん。気づいたらさっきまで敵だったはずのやつがなんか仲間みたいになってるし……俺が尿意と戦っている間にスクリーンの中の戦いは一段落ついてるらしい。
あとなんでこいつらは戦う前にいちいち味噌カツを食うんだ? エビフライヤー号ってなんだ? オイスターソースエネルギーってなんだ? そこは味噌じゃねぇのかよ。その辺の説明どこかでされてたっけ? 駄目だ。全然設定が頭に入ってこない。
仕方ない。映画を途中で抜け出すのは不本意だが、これはもう絶対に避けられない。クライマックスで限界がくるなんて最悪の事態を避けるためにも、今の内にトイレへ行っておくしかなさそうだ。三十秒で行って、十秒で出して、十秒で手を洗い、三十秒で戻ってくる。こうすれば費やす時間は八十秒。
どうせ生徒会が出してくれるとはいえ、百二十分の映画の八十秒を見逃すとなると、実質千円払ったチケット代の内の十一円程度を無駄にしたことになる計算……あああああ! 漏れそうだとやけに頭が回る⁉
「始まる前に行っておかないからですよ」
俺の落ち着きがないことに気づいたのか、合歓木先輩はヒソヒソ声でそう言うと、伸ばしていた足を引っ込めた。
行くならサッサと行けということらしい。なんだか恥ずかしいが、変な意地を張っている場合でもなさそうだ。
頭を低くし、他の客の足を回避しながら、最速でシートの隙間を駆け抜けると、シアターから飛び出してトイレに向かう。
「ここまで二十五秒……いいペースだ!」
映画館内のトイレなのだから、上映の前後ならともかく、上映中のこのタイミングなら混んでいるということもない。
迷うことなく入り口から最寄りのトイレを使って用を足し、シャトルランを彷彿とさせる切り返しで洗面台の前に滑り込み、手を洗う。
急いでいても手洗いは大事だ。事前にポケットから取り出し、咥えておいたハンカチで水気を取る。ここまでで約四十秒。想定よりも十秒ほど速いペースだ。あとは素早くシートに戻るだけでいい。
そう思い、軽く体を弾ませながらトイレを出ると、ちょうど隣の女子トイレから出てきた人とバッタリぶつかりそうになった。
「きゃっ」
「あっすいません! 大丈夫で────」
早くシアターに戻ろうとするあまり注意が疎かになっていた。
俺は慌てて頭を下げるが、その直前に目の前にいるのが何やら見覚えのある服装の少女であることに気が付く。
「あれっ、お前……」
朱美じゃないか。シアター内に入って来ないなと思っていたが、まさかこんなところで出くわすとは。
「わ、私は……あなたと知り合いじゃないわよ」
「いや、無理があるって。そんなサングラスと帽子程度で幼馴染の目が誤魔化せるわけないだろ」
「……完璧な変装だと思ったのに」
朱美は不服そうにサングラスと帽子を取る。
「そ、それにしても奇遇ね。こんなところで会うなんて」
「奇遇なわけあるか。お前がさっきからずっと俺を尾行してることは知ってんだよ」
「う……か、勘が鋭いわね。流石は秀児」
俺がすごいというか、お前が目立ちすぎてるだけだと思うけどな。あんなの気づかない方がおかしい。
「そもそもお前、どうやってここに入った? チケットは買ったんだよな?」
「買ったわよ。なんか猫がいっぱい死んじゃうホラー映画のチケット」
「なんじゃそれ……そんなの俺は見てないぞ」
「や、やっぱりそうよね。秀児たちが何を選んだのかよくわからなかったから……」
「上映開始時間で何となくわかるだろ。同時に上映されてる作品はいくつかあるけど、俺たちが入ったタイミングでちょうど入場開始した作品は一つしかないはずだ」
「そっか、そんな方法があったのね……って、それよりも秀児! あの人は誰?」
朱美は珍しく焦った様子で俺に詰め寄ってくる。
「私の見間違いでなければ、生徒会の先輩よね?」
「……よく知ってるな」
「どういうこと? 秀児はいつから生徒会の先輩と一緒に映画を見に行くような仲になったのよ! ただの友達ってわけじゃなさそうだったけど?」
朱美の目には俺と合歓木先輩が友達以上の関係性に見えていたらしい。それは俺たちの作戦が上手くいっていることを示す朗報ではあるが、素直に喜べるような状況ではない。
「事情があって……その、これは偽装デートなんだ」
「偽装デート?」
「あの人とは一時的に恋人のフリをしているだけなんだよ。だから特別仲が良いってわけでもない」
「……その事情って何?」
「それは……」
言えるわけがない。
特異属性というよくわからない現象があって、それをどうにかするために生徒会の先輩と恋人のフリをしているんだなどと、正直に言ってどうなるというんだ。説明することによって余計に謎を増やすだけだぞ。
「全然仲良くない人と恋人のフリをしなきゃいけない事情って何よ」
「……言えない。これは秘密にしないといけないんだ」
「あの人に頼まれたってこと? でも理由もなくこんなことするほど、秀児はお人好しじゃないわよね」
「お、俺だって気紛れで人の役に立とうとすることくらいあるさ」
「有り得ないわよ。あれだけ人から嫌われようとしてる秀児が、そんな好感度を稼ぐようなことするはずないわ」
酷いイメージだが、まったくもってその通りだ。誰かを助けたり、守ったりしたいという良心は人並みにある。だがそれ以上に人から好かれたくないという想いが働く。それが切畑秀児という人間の在り方だ。
だから彼氏のフリをしてくれと頼まれても普通は引き受けない。引き受けるとすれば俺の信条より優先せざるを得ないよほど差し迫った事情がある時だけ。それを理解している朱美は、疑るような目で俺を見つめている。
「もしかして脅されてるとか?」
「い、いやぁ……そんなことは……」
「優子さんを人質にでもされた?」
「そんな物騒なことあるわけないだろ⁉」
「協力しないと夏休みを補習漬けにするって脅された?」
それは割とありそうな話だな。他の学校ならともかくうちの生徒会はどうも権限が強いようだし、一人の生徒を夏休み中ずっと学校に拘束することくらい容易いのかもしれない。
俺に関してはそうするだけの正当な理由もあるしな。
「許せないわね。秀児が実は押しに弱いのを利用して、彼氏役なんてつまらないことをさせるなんて」
朱美は帽子のつばを悔しそうにグイグイと引っ張り、頬を膨らませる。
どうやら相当お怒りのようだ。俺が文句を言うのならともかく、なぜ朱美がこうも不服そうなんだ。わざわざ手間をかけて尾行してきていることもそうだし、そんなに俺の用事が何なのか気になったのか。
……いや、これ以上は止そう。他人が何を考えているか想像するのは無駄だ。それは長い付き合いの幼馴染であっても同じこと。答えを出しようもない問題に取り組んでも意味がない。朱美が何を考えていようが俺には関係ないんだ。
勝手に想像して、理解したと思い込んで、自惚れて、拒絶される。そして裏切られたと逆恨みし、好きだったはずの人間を嫌いになる。
そんな不毛なことはしたくない。俺はもう誰にも何も期待しないと決めたんだ。そうすれば裏切られたなんて思うことはない。ずっと今のままの関係を続けられる。
「私が文句を言ってあげるわ。秀児にそんな役を押し付けるのは止めてって、ビシッと言ってあげる」
「……大丈夫だ。これは俺が自分の意思でやってることだから、別に強制されたわけじゃないし、脅されたわけでもない」
「え? でも……」
「それより、朱美には頼みたいことがある」
「頼みたいこと……?」
朱美は目を丸くし、ポカンとした表情で俺を見る。
「珍しいわね。秀児がそんなこと言うなんて」
「ああ、結構重要な頼みなんだ」
犬山と朱美を出会わせないためにどうすればいいのか頭を悩ませていたが、こうして犬山の監視の目を避けつつ朱美と接触できたのは幸運だった。
「とりあえず、今日のところは何も聞かずに帰ってくれ」
俺は朱美の両肩を掴み、極力真剣な眼差しでそう伝えた。
「……なんでよ」
「今日だけは偽装デートに集中しないといけないんだ。お前が見てると思うと緊張してまともに恋人のフリができない」
俺は嘘が下手だ。特に付き合いの長い朱美には、俺の嘘は全てバレてしまう。ならいっそのこと、偽ることなく真実を伝えよう。
ただし、本当に隠しておきたいことだけは言わない。朱美だって俺の心を読んでいるわけではないのだから、こうすれば上手く誤魔化せるはずだ。
「ふぅん……帰れって。私に邪魔だから帰れって言うのね」
朱美は明らかに不満げな顔で俺を睨んでいる。
「べ、別に邪魔とは言ってないぞ。ほら、あの、なあ?」
「なあって何よ」
「だから……その……色々とあって……」
「色々って何よ」
ああぁ……駄目だぁ。せっかく上手く誤魔化せたと思ったのに、ちょっと睨まれただけでボロが出てしまう。俺はなんて情けない男なんだ。
「と、とにかく、その……えっと……会わせたくない人がいるというか……」
「訳がわからないわね」
必死の弁明も軽く一蹴されてしまい、もはや口を閉じて俯くほかなかった。俺が朱美を言い包めることはどうも不可能なようだ。
他のやつが相手なら俺だってもう少し上手く言い訳ができるはずなんだが、相手が朱美となると何を言っても上手く取り繕えない。どんな言葉を選べばいいのかわからなくなってしまう。
なんでこんなことになるのやら。付き合いが長く勘が鋭いことも知っている分、慎重になり過ぎてしまうのか? それとも単に罪悪感の問題か?
「……ごめん」
どうしてこの口は謝ってしまうんだ。俺は人から嫌われたいと思ってるはずだろ。だったらもっと気軽に嘘を吐いて、人を欺いたっていいだろうに。
「……そんな捨てられた子犬みたいな可愛い顔しないでよ」
朱美は俺の顎に人差し指を添え、そっと顔を持ち上げた。
「なっ……なんだよ」
「その顔を見てたら、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきちゃったわ」
そのまま朱美は俺の胸に顔を沈め、背中に腕を回して抱き着いてきた。
「ぎゃっ……お、おま、急に、なっ……」
「今はこれで勘弁してあげる」
そう言うと、彼女は素早く俺から離れ、顔を見せることもなく足早に去って行った。
「えっ……?」
一体何が起こったのか、脳がすっかりショートしてしまって理解が追い付かない。
朱美が俺をからかうようにいたずらを仕掛けてくることは今まで何度もあったが、抱き着かれたのは流石に始めてだ。
あいつはいつからあんなボディランゲージの使い手になったんだ?
「そういえば……映画途中だったな……」
朱美はよくわからないホラー映画を最後まで見ることもなく帰ってしまったが、俺にはまだやるべきことがあるんだ。
しかし、もう映画に集中することはできないだろう。胸にじんわりと残った温もりのせいで映画後半のストーリーも頭に入ることはなさそうだ。




