第10話 保健室の攻防
とりあえず濡れた制服を乾かしたいが、その間は別の制服を着ておく必要がある。保健室には制服や体操服の予備が置いてあるはずなので、それを借りることにしよう。
「────あら、朝からどうしたの? 川遊びでもした?」
保健室へ行くと、朱美が水道水に何やら薬を混ぜ、実験みたいなことをしていた。
「誰が川遊びなんかするか。ガキじゃあるまいし……そういうお前は何をしてるんだ?」
「水道水の水質検査よ。月に一度のね。これも保健委員の仕事だから」
そういえば朱美は保健委員だったか。こんな朝から働かねばならないなんて、なんて過酷な仕事なんだ。
「ちょうどいいや。ちょっと制服の替えをくれないか?」
「それならそっちの戸棚に入ってるわ。持っていくならこの紙に名前とクラスを書いてね」
「名前? そんなの書かないといけないのか、面倒臭いな」
「名前くらい書きなさいよ。黙って持っていかれたら、私が怒られるじゃない」
ううむ……仕方ない。このままびしょ濡れで一日を過ごすわけにはいかないんだ。ここはルールに従って、手続きを済ませるとするか。
「それにしても、川遊びでないならそれは一体何なの?」
「さっきにわか雨が降ったろ? それで濡れたんだよ」
「にわか雨? そんなの降ったかしら?」
「いや……降っただろ。ザーッとさ」
「こっちは降ってないわよ。ほら、水溜まりなんかないでしょ?」
「え?」
ここへ来るまでの道中は気が付かなかったが、改めて窓から外を見てみると、たしかに道には水溜まりなどなく、雨が降った形跡など皆無だった。
「相当狭い範囲で降ったんじゃない? 運が悪かったわね」
「そうなのか……? かなり学校から近かったと思うんだが……」
俺は自分のことを幸運だと思ったことはない。むしろ不運な方だ。日頃の行いが悪いので当然といえば当然だが、まさか天にも見放されるとは。
「まあ、いいや。とりあえず着替えを……」
名前を書き、戸棚から自分のサイズの制服を取り出す。そして自分のシャツを脱ぎ、肌着一枚になったところで、朱美が食い入るようにこっちを見ていることに気が付いた。
「な、なんでそんな見てるんだ?」
「いいえ、別に何も」
「今から着替えるんだから、こっちを見ないでほしいんだけど……」
「大丈夫よ、気にしないから」
朱美は俺の懇願を退け、何食わぬ顔で俺を凝視し続ける。
「気にするのは俺の方なんだが……?」
「いいじゃない。昔は私たち、一緒にお風呂に入ったこともあるらしいわよ」
「一体いつの話だよ⁉ ……え? 待って、一緒に風呂⁉ そんなことあったか⁉」
「あったかもしれないし、なかったかもしれないわね。それより、あんまり長く濡れたままでいると風邪を引くわよ。早く着替えちゃいなさい」
そう言いながらも、朱美の視線はヒーローショーに釘付けになる少年少女のように俺から離れない。
「わ、わかったよ……」
体を軽く拭いてから、新しいシャツを着る。パリッとしていて爽やかだが親しみのない匂いが衣服からするとどうにもむず痒い。多少ヨレヨレでも、やはり俺は自分のシャツの方がいいな。そんなことを考えながら今度はズボンも変えようとベルトに手を伸ばす。するといつの間にか朱美は水質検査を中断し、近くまでにじり寄って来ていた。
「……なんだよ」
「お構いなく」
「構うよ! 明らかに近いって! というか、上はともかく下を見られるのは流石にマズいだろ!」
「パンツの替えはあるの? 保健室に男物の下着の予備は置いてないわよ?」
「そんなことどうでもいいだろ!」
俺は部屋の奥にあるベッドの方へ逃げ込むと、カーテンを閉めて視界を遮った。
「絶対開けるなよ! 着替えるからな!」
「開けるな……? 絶対開けるな……?」
「フリじゃないぞ⁉ 絶対開けるなってのは絶対開けるなって意味なんだよ!」
「わかってるわ。絶対開けないわよ。あんまり私をはしたない女だと思わないでよね。ただ秀児がどんなパンツ履いてるのか興味があっただけよ」
「それは充分はしたないぞ……?」
ちなみに俺はボクサーパンツ派である。小学生の時まではブリーフ派だったが、中学に上がる時に変えた。……いや、だからどうというわけでもないが。
「ようし、着替えた。着替えたぞ!」
無事にズボンを取り換えることに成功した俺は、意気揚々とカーテンを開ける。
「あら、早かったわね。じゃあそのズボンを貸して、ここに干しておくから」
朱美が脱いであった俺のシャツをハンガーにかけ、窓際に干していた。そして手招きするように俺のズボンも要求している。
「そ、そんなこと自分でやるよ……」
「遠慮しなくていいのに」
「普通の男子なら全員遠慮するぞ……」
俺は朱美からハンガーを受け取り、自分でズボンを干す。
「というか、お前は自分のファンをどうにかしろよ。今朝はそれで大変だったんだから」
「ファン? 私の?」
「ああ、俺みたいに人から嫌われろとは言わんが、迷惑な時は迷惑とハッキリ言った方がいい。でないと、やりたくもないことをやらされる羽目になるぞ」
「…………」
朱美は俺の言うことがピンとこないのか、ポカンとした表情をしている。
しまった。ついつい余計な口出しをしてしまった。誰もが俺のように好き勝手振る舞えるわけではない。特に朱美は立場上しがらみも多いのだ。
「と、とにかく、気を付けろよ。お前は相当な人気者らしいからな」
「秀児は……」
朱美は俺の名を呼んだところで動きを止め、その続きを口にすることなく黙り込む。
「……どうした?」
「いいえ、なんでもないわ。もしかすると、秀児は今ノーパンなのかもしれないと思って気になっただけよ」
「ちゃんと履いてるよ! ちょっと湿ってるけど、借りたズボンをノーパンで履くわけないだろうが!」
「そういう常識はあるのよね。やっぱり秀児、嫌われ者向いてないんじゃない?」
「う、うるさいなぁ……ほっとけ!」
俺はそう吐き捨て、逃げるように保健室を出た。なんだろう……この敗北感は……あいつが相手だと上手く嫌われることができない。それどころかまんまと弄ばれてしまう。
……駄目だ。あまり考えないようにしよう。俺は学校一の嫌われ者。あいつは学校一の人気者。それだけ理解していればいいんだ。俺たちの関係は、ただそれだけのことなんだからな。




