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高嶺の花と線香花火  作者: 司尾文也


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第9話 泣き虫な雨女

 夏休みも目前に迫った七月の中旬。今にも雨粒を落としそうな曇天の朝、学校へ向かおうとしたところ、自転車が壊れていることに気づいた。

 俺が乗っているのは姉さんのお下がりのママチャリだ。姉さんが使っていた頃も含めればかれこれ十年以上乗り回していることになる。

 しかもうちのアパートに駐輪場なんかないので、保管は雨風が直接当たる屋外でしていた。ガタがくるのも当然というわけだ。


「歩いていくしかないか……」


 修理に出したいところだが、このオンボロ自転車を直して乗るくらいなら新しく買った方が安上がりかもしれない。

 とはいえ、この自転車には散々世話になった。特にこれといった思い出もないが、愛着が湧くには充分すぎる時間を共有したように思う。そう気軽に買い換えられるものでもない。

 そんなことを考えてしまうので、結局捨てるにも修理するにも踏ん切りがつかず、しばらくこのままの状態で放置することになるのだろう。

 問題を先送りにし、とりあえず現状維持を図ろうとするのは俺の悪い癖だ。それはわかっているのだが、これはもう性分なのでそう簡単には変えられない。


「……それはそれとして」


 歩いて学校へ向かうと、自転車に乗っている時とは少し違った景色が見える。学校に近づくに連れて増えてきた来栖高校の生徒の姿も、普段ならさほど気に留めないだろうが今日はやたらと目につく。

 そいつらが俺の方を見るなり目を背けたり、周りのやつらとヒソヒソ内緒話を始めたりしているのは、俺が学校一の嫌われ者だからだろうか。

 それとも、俺のことをさっきからずっと挙動不審に尾行してくるあの不審者の存在が気になるからだろうか。


「────あの! と、止まってくだ……さい!」


 尾行者はか細くも鋭い声で俺を呼び止める。


 聞いたことのない女子の声だ。知り合いではなさそうだな。

 さて、ここで立ち止まって振り向けば、きっと面倒な話をされるに違いない。どんな内容か見当もつかないが、俺が嫌いなトラブルの類であることはわかる。

 だったらここは無視するのが最善か。朝っぱらからくだらない用件に付き合わされるのは御免だからな。


 ということで、俺は聞こえていないフリをし、同じ歩幅で歩き続けた。


「ちょっ……とまっ……あっ!」

「ぐえっ⁉」


 突然、背後から強烈なタックルを食らい、俺は地面に押し倒される。


「な、なんだ⁉」


 たまらず振り返ると、そこには暗い雰囲気の女子がいた。


 この暑いのに長袖を着用し、カーディガンまで着ていて、さらに口元が隠れるくらい何重にもマフラーを巻いている。

 片目は長い前髪に隠れ、顔がほとんど見えない。僅かに確認できる顔のパーツはどれも小動物みたいな愛嬌があるが、奇抜な服装と行動が、それでは打ち消せないほどのおどろおどろしさを感じさせてくる。


 そんな少女が、こともあろうに俺の背中にのしかかっていた。


「と……と、止まってください‼」


 俺を尻の下に敷いた上で、彼女は改めて叫んだ。もうどうしようもないくらいに止まっていると思うのだが、これ以上一体どう止まれというんだ。


「えっと、俺に何か用か……?」


 こうまでされてしまえば、話を聞く以外の選択肢は残念ながらない。


 素直に用件を尋ねてみると、彼女はしきりにキョロキョロし始め、俺と目が合うと逃げるようにマフラーに顔を埋め、深呼吸を始める。


「すー……はー……すー……はー……」

「……あの、とりあえず下りてもらえないか?」

「わ……て……さい」

「は?」

「わ、別れてください!」


 何を思ったのか、彼女は突然半分裏返った大声で訳の分からないことを叫ぶ。


「カップルの喧嘩かしら」

「フラれたのね。可哀そうに」


 そんなことをヒソヒソ話す通行人の声がどこからともなく聞こえてくる。


「ま、待て待て! なんだお前! いきなり何の話だ⁉」


 なんで俺がこんな会ったこともないような女からフラれたという汚名を背負わねばならんのだ。俺は嫌われるのはいいし、悪目立ちするのもいいが、しょうもない恥をかくのは普通に嫌だぞ。


「と、とぼけないでください……」


 彼女は微かに震えつつも、芯のある強さを感じさせる声で凄む。


「わ、私……見ちゃったんです……二人が……あーんしてるところ……」

「あーん?」

「あ、あなたと……朱美様が……お弁当を……だ、駄目です……朱美様が……お、男と付き合うなんて……だから……」


 ……ああ、はいはい、なるほど、そういうことか。


 いきなり何の話かと思えば、こいつは朱美のファンなんだな。それで朱美がから揚げ尽くしの弁当を持ってきたあの昼休みの一部始終をどこかから見ていたと。


「一旦落ち着け。お前は大きな誤解をしている。俺は朱美と付き合ってなんかいない」

「う、嘘を吐いてもむ、無駄です!」


 正気を感じられない闇が渦巻いた目で、彼女は俺を見つめる。


「わ、私……見たんです! 朱美様とあなたが同じベンチに座って……あんなにも隣にくっついて……ひ、卑猥な距離感でした……! アレは完全に付き合ってる……しかもやることやってる雰囲気でした……!」


 ……即座に否定したいところだが、確かにあの瞬間だけを見られていたのならそう思われても仕方がない気はする。誤解を解くのは難しいか。


「な、なので、別れてください! あ、朱美様に彼氏なんて……認められません!」


 さて、どうしたものかな。この責任は是非とも朱美に取ってほしいところだが、この場合あいつを介入させると余計に話が拗れそうな予感がする。


「そうだな……まず、お前名前は?」

「い……犬山……三春」

「おーけー犬山ね。ところで犬山、改めて言うが、お前は勘違いをしている。別に俺たちは付き合ってない。ただの幼馴染だ」

「そ、そんなわけないです! ただの幼馴染が……あーんなんてするわけないです!」

「そう言われても、それが事実なんだよ。だから別れろというのは無理な話だ。付き合ってもないのに別れるなんてできないからな」

「わ、別れない……そ、そんな……」


 犬山はか細い声をあげながらガックリと項垂れる。


「わかったら早く下りてくれ。いつまでも上にいられると、これはこれで勘違いされかねないだろうが」

「わ、わた、私は……そ、その……あ、朱美様が……えと……」


 壊れたラジオのようにブツ切りな喋り方で犬山が何か言っている。何が言いたいのかはわからないが、どうもヤバい雰囲気だということだけはよくわかる。


「こ、こん、こんな……男に……あ、朱美様が……そんな……こ、ことに……な、なるくらいなら」

「お、おい? 落ち着け?」

「もう……いっそのこと……」


 犬山はその両手を顔の高さまで思い切り持ち上げた。そして人差し指が目の下にくる位置で止める。


「びえええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっっっ‼」

「……は?」


 てっきりそのまま拳を振り下ろし、俺の息の根を止めにくるかと思ったが、彼女はまだ恥という概念を知らない赤子ですら黙らせかねない勢いで大号泣し始めた。


「あら、女の子が泣いてるわよ」

「嫌ぁねぇ。喧嘩かしら。きっとあの男の子が泣かせたのよ」


 またどこからともなく無責任な噂話をする声が聞こえてくる。


「お、お前! いい年してそんな……」


 どうにかその涙を止めようとした矢先、頭上からポツリと一滴の雨粒が落ちる。


「げっ、こんなことしてるから雨が……」


 降り始めた、と言う暇もなく土砂降りになる。屋根どころか遮るもの一つない屋外にいた俺たちはすぐずぶ濡れになり、もはやどうでもよくなるくらい水浸しになった。


「……なんでこうなるんだよ」


 俺の腹の上に図々しくも跨りながら、今もなお号泣し続ける突進女を見上げる。まずはこいつをどうにかしなくては、このままでは水溜まりに水没しそうだ。


「あぁ……えっと、とりあえずタオル使うか?」


 鞄からタオルを取り出し、犬山に差し出してみる。


 すると彼女はこちらを見ることもなくタオルをひったくって、顔や髪を拭き始めた。その間も彼女はずっと泣いている。


 やけに厚着で変なやつだと思ったが、結果的には良かったな。

 もし彼女が季節に合わせて夏服を着ていたら、この土砂降りで肌が透けていただろう。そうなると引っ付かれている俺としては目のやり場がなくて気まずかった。


「ぐえっ……ぐぅ……うぅ……うえええぇぇぇぇぇぇっ」


 拭いても拭いても彼女の目からは涙が零れ、止まる気配が全くない。


「ぐぅ……うぅ……ズビッ……ズビビビビビッ」

「えっ、お前今、鼻かんだ?」


 嘘だろこいつ。借りたタオルに鼻水つけやがった。最悪だ。もう使えねぇじゃんかよ。


「いい加減泣き止んでくれよ。俺と朱美は付き合ってない。これは誓って嘘じゃない。だからとりあえず泣き止んでくれ。そして俺の上から降りろ」

「うぐっ……だっ……だって……」

「そもそも朱美のファンだからって、あいつのプライベートは尊重すべきだと思うぞ」

「ファ……ファンじゃありません! わ、私はただ、朱美様みたいに……クールで、格好良くて……自分の世界を持っているような……そんな女になりたいんです!」


 それをまさしくファンと言うんじゃないのか。何が違うというんだ。それに朱美は別にクールじゃないだろ。


「そんなに朱美が理想的な人間だと思うなら、あいつのことを信じてみたらどうだ? お前が憧れる新宮朱美は、俺みたいなしょうもない男と付き合うような女なのか?」

「…………確かに」


 俺が自虐的なことを言った途端、犬山の泣き声が弱まる。嫌われ者としては本望だがどうにも釈然としないな。


「じゃ、じゃあ、なんであんなに距離が近かったんですか……?」

「もともとあそこで弁当の試食をしてくれって頼まれてたんだが、他のベンチが汚れててあそこしか空いてなかったからな。自然と距離が詰まっただけだ」

「あーんしてたのは……?」

「箸が一膳しかなかったんだよ。俺は焼きそばパンで手が塞がってたから、ああやって食べさせてもらうしかなかったんだ」

「………………」


 よく考えれば妙な理屈だと気づくかもしれないが、今のところ犬山が反論してくる様子はない。どうやら何とかなったようだ。


「わか、りました。あなたのことを、信じます」


 犬山の目からついに涙が引いた。すると時を同じくして雨も止み、雲の隙間から神秘的な太陽光が柱のようになって地面に注がれる。


「疑って、ごめんなさいでした」

「わかってくれればいいんだ」

「じゃあ、このタオルは返します」

「それはもういらない」


 雨なのか、汗なのか、それ以外の液体なのか、とにかく色々なものでベトベトになったタオルの受け取りは拒否させてもらう。そっちで自由に処分してくれ。


「それなら、私は……行きます……」


 雨の上がった空の下、厚着の少女はようやく俺の上から退き、軽やかな足取りで登校を再開する。


「まさかあんな厄介ファンがついてるとはな……」


 まさしくアレこそが、人から好かれることのリスクだ。間違ってもあんなことにならないように、他人との距離感は考えなくてはならない。

 朱美だってあの手の厄介ファンの期待全てに応えられるわけではないのだ。今回はその矛先が俺に向かったから良かったが、朱美本人に向かっていれば……。


「……退学まで追い込まれる? ……まさか、そんなこと……ないよな」


 頭に浮かんだ想像をすぐに振り払う。あんな妄言を信じるわけにはいかない。今はそれより、このびしょ濡れの制服をどうにかする方法を考えよう。

 このまま教室に入れば、また吉山にゴチャゴチャ言われそうだ。あいつから雑用を押し付けられるのはもう勘弁だからな。

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