ノエル 1-③ 料理
株式会社S・P・Fに入社したその日――ボディーガードとしての教育を受けはじめたその日から今日に至るまでずっと、ノエルは深い眠りについたことはない。
いつどこで誰に襲われてもすぐに臨戦態勢に入れるように骨の髄まで訓練してきたため、人の気配や怪しい物音、臭いなど、少しでも異変を感じることがあれば瞬時に目が覚める習性が身についている。
初日ということもあり夜の護衛を免除してもらったノエルは、翌朝余裕を持って起床し身支度を整えた。支給された紺色の制服の金ボタンを留めると自然と気が引き締まる。しっかりした作りだが動作に支障はまるでなく、通気性もある。かなりの費用がかかっていそうだ。
ネクタイが曲がっていないか鏡で確認し、本格的な任務の開始に自らを奮い立たせながらイチカの部屋に赴いたノエルだったが、扉をノックしてもイチカの反応はなかった。
まだ眠っているのだろうかと思いつつ部屋に入った瞬間、血の気が引いた。イチカの姿が見当たらない。
――まさか、誘拐? いや、そんなはずはない。昨夜はいたって静かな夜で、特に周囲に異変はなかった。
しかしそれは、俺なら気づけるはずだという思い上がりだったのか? タカヒトさんやケイさん、その他の使用人たちも気づかないほどのスキルで攫っていったのか?
イチカを狙う輩は総じて自分より頭が回り、強盗の能力に長けているという可能性を、もっと危機感を持って考慮しておくべきだった。
心を落ち着かせることに努めながらベッドシーツを触ってみると、まだ微かな温もりが感じられた。攫われてからまだそこまで時間は経っていない。今なら犯人に追いつけると判断して部屋を飛び出すと、タカヒトに遭遇した。
「おはようノエル。どうしたの、慌てちゃって」
「タカヒトさん! イチカ様がいらっしゃらないんです!」
事態の深刻さを伝えたのにもかかわらず、タカヒトの反応はあっさりとしたものだった。
「大丈夫、そんなに慌てなくていい。落ち着くためにも、キッチンに行って水でも飲もう」
主人の身が危ないときに何を悠長なことを言っているのだろう。頭に血が昇りそうになったものの、先輩の言うことに素直に従うのも人間関係を円滑に進めるためには必要だ。
焦燥感を隠しながら、落ち着き払っているタカヒトの後についてキッチンに近づいていくと、腹の虫を刺激する匂いが鼻を掠めた。きっとイチノセ家お抱えの腕のいい料理人たちが、朝から腕によりをかけて朝食を作っているのだろう。
「……驚くと思うぞ?」
キッチンに足を踏み入れる前にタカヒトは振り向いて、ノエルに微笑みかけてから入室した。ノエルがその意味を問うより先に、
「おはようございます、イチカ様!」
「タカヒト、ノエル、おはよう! もうすぐ出来上がるから、座って待ってて」
フライパンを片手に白い歯を見せるイチカを見て、ノエルは目を丸くしたまま立ち尽くしてしまった。
誘拐されたと思っていた護衛対象が無事だった安堵よりも、雇用主が朝からキッチンに立っていることへの困惑の方が勝ったのだ。
「三階にあるこのダイニングルームは、イチカ様専用の空間なんだ。ちゃんとしたキッチンは一階にあってシェフも常駐しているんだけど、まあ、料理好きかつおもてなし好きなイチカ様のための我儘部屋……ってところだな。ここでイチカ様は、僕たちのために食事をご用意してくださるんだよ」
確かに、三十畳程度のこの部屋でイチノセ家の皆様や従者の料理を作り、食べるスペースがあるとは思えないけれど……いや、今はそんな話は重要ではない。そもそもノエルの中では従者より主人の方が早く起きるという発想すらなかったというのに、イチカはエプロン姿でフライパンを持っている。
この方はなぜ、自分で料理なんてしているのだろう?
あれやこれやと疑問符を脳内に浮かべているうちに、白米に味噌汁、焼き鮭にだし巻き卵、ポテトサラダに茄子の炒め物――食卓にはあっという間に朝食が並べられていた。
「これ、ノエル専用の箸だって。イチカ様が買って来てくれたんだよ」
誰よりも早く着席していたケイの表情は生き生きとしていた。戸惑いながら礼を述べ、手渡された赤い箸を眺めていると、配膳を終えたイチカがエプロンを外した。
「皆お待たせ! それじゃあ早速、手を合わせてー」
「いただきます」
挨拶を皮切りに三人は料理に箸をつけはじめたが、ノエルだけが動けずにいた。
普段なら毒の混入を警戒して、他人から施された飲食物には口をつけないと決めている。この任務期間中も、あらゆる不測の事態に備えて食事は自分で用意するつもりだった。しかし、主人となる人物から振舞われた食事を食べないというのは大変な失礼にあたる。
深呼吸をした。――大丈夫、もし何か毒物の類が入っていたとしても、俺なら舌に乗せた瞬間に察知してすぐに吐き出すことができる。
緊張を隠せないまま、おそるおそる豆腐とわかめの味噌汁に口をつけてみた瞬間、ノエルの脳味噌を揺さぶるかのような大きな衝撃が襲った。
だがそれは毒物の刺激から来るものではなかった。一気に全身を駆け巡った程良い塩分の温かい汁があまりにも美味で、ノエルを感動させたからだ。
ノエルは一旦任務を忘れて、本能の命じるままに眼前に並べられた朝食に次々と箸をつけていった。
「わたしの手料理は口に合った?」
絶品のだし巻き卵を全部飲み込んだとき、イチカのうれしそうな視線に気がついた。屈託のない笑顔を向けられると、一瞬でも毒物の混入を疑った自分が恥ずかしくなってくる。
「……はい、とても美味しい、です」
「何か食べたいものがあったらいつでもリクエストして。昼と夜はちょっと難しいけど、朝食を作るのはわたしの仕事だから」
冗談かと思って同僚の様子を窺うと、タカヒトもケイもそれが当たり前かのように談笑していて混乱を極めた。イチノセ家のご令嬢という金も権力もある彼女が従者の食事を作るなんて、どんなメリットがあるのか理解できなかったのだ。
「イチカ様の料理は和洋中なんでも美味しいから、太らないように気をつけて」
タカヒトはノエルをからかいながらポテトサラダを口に入れ、
「イチカ様! この茄子、味がよく染みていてめっちゃオレ好みです! お代わり貰ってもいいですか?」
ケイは遠慮する様子など微塵も見せることなく、お代わりを要求している。
ノエルからすれば異常だと思う光景も、彼らにとっては日常なのだろうか。むしろノエルの価値観の方がおかしいのだろうか?
「い、イチカ様……なぜ、あなたのような方が料理など? じ、自信はあまりありませんが、必要ならば料理は私が対応させていただきますが……」
「ん? いいんだよ。料理はわたしの数少ない趣味だからさ、取り上げないでよ」
「しかし、それでは従者としての立場がありません」
食い下がろうとするノエルを笑顔で躱したイチカは、ケイのお代わりをよそった。
「しつこいぞ、ノエル。わたしは自分の作った料理を、家族皆で食べたいんだよ。好きにやらせてくれる?」
「……差し出がましい口を利いてしまい、申し訳ございませんでした」
頭を下げながら、ノエルはイチカが口にした「家族」という単語に引っかかりを覚えた。まさかイチカは、彼女のボディーガードである自分たち三人をそう呼ぶつもりなのだろうか?
それはノエルにとって気恥ずかしいことだったが、まだイチカの人となりをよく知らないので彼女なりの冗談だという可能性もある。
深くは考えないことに決めた。主人から命令があったのだ。今はこの美味しい料理を味わうことに専念しようではないか。
そう思って皿の上を綺麗に片づけていくにつれ、もう少し食べたいという欲求が湧いてきてしまった。ケイのようにお代わりを要求してもいいのだろうか。でも勝手にご飯をよそいに行くのも失礼な気がするし、茶碗を差し出すなんてもってのほかだろう。
一人で考え込んで逡巡していると、
「ん」
イチカが微笑みながら、ノエルに手を差し出した。意図が掴めず困惑していると「お茶碗ちょうだい」と言われ、頭の中を見透かされたようで赤面した。俺はそんなに物欲しそうな顔をしていたのだろうか。
「……お、お願いします……」
小声でそっと茶碗を手渡すと、イチカは得意気な顔で笑った。




