ノエル 3-① 再会
小さく体を抱え込むようにして、時間が過ぎていくのを息を殺して待つだけの日々。
家族の将来と自分の矜持を懸けた一世一代の任務に失敗したノエルは今、セロフィンのエフィア所有者、ライネ家の現当主――ヴァロ・ライネが用意した、陽光のほとんど差し込まないカビ臭い小さなアパートメントの一室に軟禁されていた。
ホテル・アゼリアでイチカを気絶させた後、彼女を抱えて窓からの脱走を図ったノエルは、紅蓮一家からの追跡を巻きながらタカヒトに自分の居場所を知らせる暗号を送った。それから待ち合わせ場所に駆けつけたタカヒトとケイに頭を下げてイチカを引き渡し、自らの足で上司の元へ向かったのだった。
そして、勢揃いしている幹部の前で、今回の任務は自分にはできないと頭を下げた。残忍で冷酷な紅蓮一家に任務失敗の報告をすることは、殺されることと同義であった。
ノエルは死を覚悟していたものの、体罰こそ厳しいものだったが意外にも命は見逃してもらえたうえに、一度入ったら抜けることは不可能とも言われている紅蓮一家の方から放り出された。
不可解だった謎は、セロフィンに来てから判明した。正当な血筋でないとはいえノエルがライネ氏の血を引いているために、処分に困り持て余したのだそうだ。忌々しく思っていた血に命を救われることになるとは皮肉だなと、乾いた笑みを零すしかなかった。
この部屋に軟禁されてから、一体どれ程の月日が流れただろうか。必要最低限の食事だけを与えられ、ただ時間が流れるのを待つ家畜そのものの暮らしは、苦痛でしかなかった。
滅入る気分を紛らわせるために、楽しいことを考えようとノエルが記憶を辿ったとき、思い浮かぶのはイチカと共に過ごしたあのかけがえのない、たった数ヵ月の人生で唯一楽しかったと言えるあの美しい日々だけだった。
しかし現状を考えれば、イチカと過ごした思い出を振り返るのは、どんな拷問よりも辛かった。彼女の優しさや温かさに満ちた瞳を思い出しては、息ができないくらいに胸が苦しくなってしまうノエルは、宝物のような時間と優しい主人を忘れようと努めた。
何も考えないようにすれば、押し潰されそうな心がいくらかましになることに気づき、ひたすらぼうっとして過ごすようになった。
それでも、忘れられるはずもない。今頃、イチカは何をしているだろう。仕事をしているだろうか。料理をしているだろうか。
タカヒトとケイは、今日もイチカを守り続けているのだろう。新しいボディーガードは採用しただろうか。新入りの子を交えて皆で仲良く、イチカの作った料理を食べて仲を深めているに違いない。
そんな光景を想像しては、自分勝手だとは思うけれど胸が痛んだ。全部自業自得だというのに。
消えない痛みを負った傷だらけの心を庇うように、より小さく体を縮めて目を瞑っていると、
「セロフィンって、思っていたよりも暖かいねー。マフラー取っちゃおうかな」
空耳だろうか。薄い壁の外から、ケイによく似た声が聞こえた気がした。
「緯度は高いけれど、暖流の影響もあって比較的穏やかな気候だと聞いている。……言わなくてもわかっているとは思うが、風邪だけは引くんじゃないぞ? イチカ様にうつしたら許さないからな」
目を見開いて、いよいよ顔を上げた。タカヒトの声まで聞こえた気がしたからだ。懐かしい同僚の幻聴を聞くなんて、思っている以上に精神が参っているのだろうか。
「まあとにかく、早くノエルを連れて帰ろう。仕事がたんまり残っていて観光どころじゃないし」
――それは聞き間違いようのない、愛しい人の声だった。
体中の細胞が反応し、急いで扉の方へ駆け出した。部屋の内側からは鍵を開けられない仕様になっており、ノエルが外に出ることなど叶わないのだが、冷静さを失っていたノエルは本能のままに扉の前で声をあげていた。
「イチカ様! どうしてここにいらっしゃるのですか⁉」
「久しぶり、ノエル。ちょっと待って、今、鍵を開けるからね」
扉を一枚隔てて聞く確かなイチカの声は、記憶の中で何度も反芻したそれよりもずっと優しく穏やかで、思わず目頭が熱くなった。
だが感傷に浸るよりも先に、流れかけた涙を引っ込めさせるくらいの大胆な発言を聞き返さずにはいられなかった。
「え? か、鍵を開けるって一体……あ」
金属が擦れる音はあっという間に、カチャリと解錠を知らせる音に変わった。
動揺している間に開かれた扉の隙間から差し込んでくる光をやけに眩しく感じたのは、晴天だけが理由ではないだろう。
「久しぶり、ノエル」
イチカを一目見た瞬間、ノエルは彼女の変化に気づいた。
再会の喜びを口にすることすらできない程の衝撃に、心臓が止まりそうになってしまった。




