イチノセ・イチカ 4-① 超越
わたしが目を覚ましたのは、イチノセ家の別邸のベッドの上だった。
「お目覚めですか、イチカ様」
まだ靄のかかるぼんやりとした頭の中に入ってきたタカヒトの声に顔を向けると、憔悴した様子を隠しきれていないタカヒトと、暗い顔をしたケイの姿が目に入った。
ふたりの表情から意識を失う前のノエルの言動を思い出したわたしは、飛び跳ねるように体を起こした。麻酔が切れているのか体に痛みが走ったものの、自分のことなんて二の次だ。
「ノエルはどうした⁉」
答えなんてわかりきってはいたものの、僅かな期待とそれを上回る焦りで問いかけた。心臓の音が、自分の耳で聞き取れるほど大きな音を立てている。
「ノエルは……辞職しました。『もう戻るつもりはありません。お世話になりました』……と、言伝を預かっています」
予想はできていても頭の中が真っ白になるのだから、人間とは不出来な生物だと思う。ベッドシーツを握り締めながら、タカヒトの言葉の意味を噛み締めた。
裏切りも目的も生い立ちすらも暴露したことから、ノエルはもうわたしの前に姿を見せるつもりはないのだろうと予感はしていた。だからこそわたしは、ノエルをなんとしてでも説得しなければいけなかったのに。
彼の考えを改めさせることができなかったのは、わたしの言葉がライネ氏とのしがらみや紅蓮一家との契約よりも強いとは思えなかったからだろう。
わたしがもっと頼りになる主人だったなら。わたしの言葉を信じてもらえたならば、彼は自分からわたしの下を去らなかったはずだ。
いつ如何なるときもノエルに守られてばかりで、頼りにされなかったことを死ぬほど悔しく思った。
「あっさりと解放してやるつもりなんてない。雇用主はわたしだ。勝手な真似をしてもらっては困る」
ベッドから降りて、クローゼットを開けた。ノエルを救えなかった自分の無力感を嘆くだけの女になんてなりたくはない。
起き抜けのわたしがふらつかないように体を支えてくれたタカヒトと、うれしそうに口角を上げるケイの目を見て宣言した。
「タカヒト、ケイ。仕度して。紅蓮一家に乗り込む」
「いけません、危険すぎます。相手は世界一残忍と言われる犯罪組織ですよ? お命を狙われている現況で乗り込むなんて、飛んで火にいる夏の虫です。無事に帰って来られる保証はどこにもありません」
タカヒトはわたしの手を強く握り、子どもを厳しく叱る父親のごとく強く反対した。
「何も考えなしに乗り込むわけじゃないし、鴨葱になるつもりはないって。……ねえ、わたしはタカヒトから『僕たちが必ずお守りするので大丈夫です』って言葉が聞きたいんだけど」
「もちろん守ってみせます。しかしながら、イチカ様が危険な目に遭う確率を少しでも減らしたいのはボディーガードとして当然の思考です」
ボディーガードとしての役割を主張するタカヒトの肩に、ケイが手を置いた。
「まあまあ、ちょっと落ち着いて。イチカ様、オレはイチカ様にどこまでも付いて行くので、存分に無茶しちゃってください!」
瞳に闘志の炎を燃やしたケイは白い歯を見せつつ、わたしの味方をしてくれた。
「ありがとうケイ、心強いよ。わたしの……違うか、わたしたち家族を傷つけた奴はどうなるのか、あいつらに徹底的に思い知らせてやろう」
「はい。オレ、よりによって紅蓮一家のノエルの前で悪事について説いちゃいましたからね。今思い出しても顔から火が出そうですもん。オレの前ですっとぼけたこと、絶対に謝ってもらいます!」
拳を軽くぶつけ合いながら士気を高めるわたしたちを、タカヒトは徹底して否定した。
「……自分の身がどうなろうとも、イチカ様をお守りするのが僕たちの仕事です。……ノエルが大切なのはわかります。僕もケイも同じ気持ちですから。……ですが、イチカ様が危険な目に遭われるのは、ノエルも望んでいないと思います」
「タカヒトがわたしを大切にしてくれるのはうれしいし、いつだって感謝しているよ。でもこういうのってさ、理屈じゃないんだよ。理屈や正論で無理やり納得しようとしてこの感情を押し殺してしまったら、ノエルのことを諦めてしまったら……わたしは、わたしでいられなくなるの」
タカヒトが心配してくれる気持ちは十分に伝わってくる。申し訳ないとも思うし、愛情を感じられてうれしいとも思う。だけど、絶対に引くつもりなんてなかった。
「……わたしは、皆に『家族』であることを強調してきた。一つ屋根の下で寝食を共にして、笑顔で穏やかに過ごす日々を重ねていけば、自然に家族になれると思ってたんだ。……でもきっと、違う。嫌だなと思うことがあったとしても、幸せでいてほしい。苦しいことがあったとしても、乗り越えてほしい。喧嘩をしてしまっても、仲直りしたい。……たとえ自分の身がどうなっても、生きていてほしい。それが、家族に対する感情なんじゃないかって、思うようになったんだ」
表面上の綺麗な体裁ではなく、汚い部分も見せられる関係。
好きも嫌いも超越した、かけがえのない存在。
そういうものを家族と呼ぶのであれば、わたしにとってはもうすでに、ノエルも、タカヒトも、ケイも、三人とも本当の家族と呼べる存在だった。
だからわたしは、家族を取り戻すと固く決意した。
わたしの顔を見て何かを言いかけたタカヒトだったが、やがて唇を真一文字に結んで背中を向けた。そしてそのまま黙って部屋を出て行こうとするタカヒトに、ケイは首を傾げて問いかけた。
「タカヒト、どこに行くの?」
「……チャンズまでの航空券を三人分用意する。紅蓮一家に乗り込むのなら、必要になるだろう?」
足を止めたタカヒトは振り向かないまま静かにそう告げて、扉を締めて出て行った。
タカヒトの背中を見送りながら、わたしとケイは顔を見合わせて微笑んだ。




