ケイ 2-➁ 失恋
タカヒトによると、ノエルとイチカは集合場所として打ち合わせしていた洛斗ホテルではなく、紅蓮一家が経営しているラブホテル「アゼリア」にいるらしい。イチカを殺すのにも瞳を奪うのにも格好の場所だ。
車は順調にギアを上げてスピードに乗っていったが、ケイの精神は乱されたままだった。敵地からの逃走は容易なミッションではないはずだ。集中しなければ危険だというのに、初めての感情に戸惑うばかりの自分を恥じた。
「……あの銀蛇団があっさりと標的を逃がすとは思えないな」
「うん。段々と減っていく車の数……そろそろ仕掛けてくるかもね」
緊張感が高まる中、後ろからドン、という大きな衝撃があった。同時に、ケイの体が前後に大きく揺さぶられた。予想的中、悪意を持ってぶつけられた黒い鉄の固まりを睨め付けた。
何年も訓練されてきたケイは、ここで完全にスイッチが入った。「任務を達成する」という体に叩き込まれた自身の仕様が、ようやく感情を凌駕したのだ。
尚も続く執拗な当たりを華麗なハンドル捌きで最小限に留めつつ、速度を落とさないタカヒトの運転技術を胸中で称賛しながら、ホルスターから愛用のトカレフ TT-33を取り出した。
「撃とうか?」
「もう少し待ってくれ。ナビを見る限り、あと二キロ近く走ったらS字カーブが続く。そのタイミングで頼む」
「あー、そういうことね。了解」
短いやり取りでタカヒトの意図を即座に理解できるくらいには、同僚としての絆を深めていたらしい。ただ、タカヒトの指示に問題はなかったものの、何度も車体を揺らされたり傷つけられたりするのは想像以上のストレスだった。
元来ケイは、そう気が長い方ではない。精神的に不安定となっている今なら、尚更だ。
「――ケイ、来るぞ」
逃げるためだけの二キロはとても長く感じられ、真剣な顔で運転を続けるタカヒトの目を盗んでもう撃ってしまおうか、と何度も思ったけれどなんとか堪えた。
我慢から解放されたケイは唇を舐めて、バックミラーで後続車の距離と前輪の位置を確認する。急カーブに差し掛かり車体が大きく揺れた。銀蛇団の追手が撃つ銃弾は照準を絞りきれないのか何発も外していた。
腕のない雑魚を内心で見下しながら、息を吐く。発砲のために窓から身を乗り出せば格好の的になってしまうため、おいそれと姿を見せるわけにはいかない。
正確に目視するスキルと、相手の動きを予測できる勘がなければ動く獲物をピンポイントで仕留めることは難しい。普通ならこんなカーチェイス中のS字カーブで射撃なんて考えない。
――そう、普通ならば。
ケイは手首だけ出る程度に小さく車窓を開け、次のカーブのタイミングで一度だけトリガーを引いた。前輪がパンクして制御の効かなくなった後続車は、派手に一回転したのちに後ろの車と衝突し、ガードレールにぶつかって停止した。
普通の腕ならばできない高度な技だが、ケイにはその実力が十分に備わっているのだ。
「よくここまで我慢したな。ノエルのことで動揺している今なら、何発かは外すかと思っていたが……杞憂だったみたいだ」
「まあ、今だけは子どもの頃からの過酷な訓練に感謝かな。相手のレベルが低かったことにも助けられたけど」
進行方向から目を逸らさないタカヒトの茶色い髪が、車窓から入り込んできた風に靡くのを見ながら、本題に入るために彼の横顔を真剣に見据えた。
「……追手もいなくなったことだし、ノエルの事情について詳しく教えてくんない? 紅蓮一家のメンバーには必ず、腹部に真っ赤な蓮と黒の梵字が入った刺青が入っているはずだよね? でも、旅館で一緒に風呂に入ったときにはノエルの体に刺青なんて一つもなかった。ノエルは本当に紅蓮一家のメンバーなの?」
ノエルが世界一の犯罪集団に所属している話をまだ信じられないケイは、タカヒトが否定してくれるのをどこかで期待していた。
しかし、タカヒトが口にしたのは予想の遥か斜め上をいく事実だった。
「それは、ノエルがセロフィンのエフィア継承者……前当主のアルベルト・ライネの血を引いているからだ。残虐な紅蓮一家といえども、絶大な権力を持つライネ家との交流を考えれば、いくらノエルがライネ家からぞんざいに扱われている存在だとしても……墨を入れることは避けておきたかったのだろう。……『売る』ことになった場合に、刺青はない方が喜ばれるという奸計もあったと思う」
「ちょ、ちょっと待って、情報量が多すぎて頭パンクしそう! ノエルがエフィアの血を引いてる? 初耳なんだけど!」
「当たり前だ。今さっき警視庁から入ってきたばかりの、ホヤホヤの情報だからな……というよりも、この情報がウチに入ってくるということは紅蓮一家が大きく動いている証左でもある。だから……イチカ様の現状は極めて厳しい状況と言えるんだ」
信じられない、というより信じたくない気持ちが強くなる一方だったが、タカヒトはこんな状況下で突拍子のない冗談など言わない。腹を括って、情報を全部呑み込む覚悟を決めた。
それにしても、ボディーガードという特殊な仕事ゆえに仕方がないのかもしれないけれど、ノエルとは数ヵ月間寝食を共にしてきたのに、知らないことが多すぎる。
ケイは大きな溜息を吐きながら、頭を掻いた。ノエルは正しい機関で教育を受けてきた優等生。そう決めつけていた自分の目がいかに節穴だったかを思い知らされた。自分の実力に胡座をかき、真実を見抜く眼はすっかり曇っていたらしい。反省しなければと両手で頬を叩いた。
「でもさ、たとえノエルがライネ家からして見れば忌み子だったとしてもさ、紅蓮一家がライネ家のことを考えてノエルの体に配慮するっていうのはありえなくない? ノエルから志願して紅蓮一家に入ったならともかくさ、無理やり構成員に入れた時点で交流どころか、場合によっては戦争になるよ」
タカヒトは口を閉ざした。その反応と険しい表情が、ケイの意見が間違っていると意味していることくらい、察することはできる。
「え……ノエルは自分から紅蓮一家の門を叩いたってこと……? なんでそんなことしたんだよ……誰かに、脅されていたとか……?」
「……ノエルは紅蓮一家で大きな手柄を上げることを条件に、ライネ家に都合のいいように利用されている家族を解放させてあげたかったらしい。今思えば、あの温泉旅行の情報を紅蓮一家に流したのは、ノエルだったんだな。それを踏まえれば、イチカ様のボディーガードとしては失格、最悪のルール違反を犯した罪人なのかもしれないけれど……僕は、やるせない気持ちの方が強くて……」
沈黙が降りた。ケイはノエルのことで頭がいっぱいだったし、タカヒトも思うところがあるのか、互いに口を開くことはなかった。さっきまでの激しいカーチェイスが嘘だったかのように、車内はエンジン音だけが聞こえる静かな空間になった。
「……イチカ様の目を、僕に向けたかった」
静寂の中で、タカヒトが独り言のように呟いた一言は、やけに響いた気がした。
「……それはさあ、イチカ様が恋をしたときに完全体となる、金色の瞳が欲しかったから? それとも、イチカ様のことを本気で好きになってしまったから?」
イチカへの好意についてタカヒトやノエルに質問をするときにはいつも、ケイはおどけていた。それは本気でぶつかって本気で返されたときに、自分がどんな反応をしてしまうのかわからず怖かったからだ。
だけど今は、自分でも信じられないくらい真剣に尋ねていた。
「さあ……どうかな……僕にもよく、わからない」
前方をしっかりと見据えて運転しながら、タカヒトは困ったように笑った。
「年上だからってスカしてないで、正直になればいいのに。……オレはイチカ様のこと、好きだよ」
本来のケイらしい真っすぐな物言いで、本心を明かした。今後のことを考えれば、芽生えた恋心をタカヒトに話しておくメリットなんてないはずなのに、どうして口にしてしまったのだろう。
ただ、自分でも理解できない行動だというのに、ケイは不思議と清々しい気持ちになっていた。
家族ごっこに付き合ってあげていたつもりが、本当の家族になりたいと望むようになるなんて。笑えるようで笑えない、三流の恋物語だ。
タカヒトは目を瞬かせた後、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……さあ、これ以上のお喋りは後にするぞ。舌を噛まないように、しっかり掴まってろ」
イチカには届くことのない告白だったけれど、正直な気持ちの吐露はふたりの心を素直にし、互いの距離を縮めてくれるくらいの効果はあったようだ。
さらに速度を上げた車の中で、ケイは私情をほとんど語ってくれなかったノエルに少しの苛立ちと、大きな寂しさを覚えていた。
イチカの無事を確認したら、同僚の枠を超えてノエルともっと話をしてみよう。
そう、たとえば「家族」としてお喋りをしてみたら、彼はどんな言葉を口にするのだろう。どんな表情をするのだろう。
そんなことを知りたくてたまらないこの気持ちはきっと、どうでもいい人には抱かない感情だ。
車窓に映る自分の顔は、今までとは違うように見えた。




