ノエル 2-④ 遂行
「……い、イチカ様……この傷は……」
「……ん? この脇腹の傷? えーっと……これは確か七歳で誘拐されたとき、身代金の要求に応じなかったことに腹を立てた犯人に付けられた痕かな」
「せ、背中の火傷の痕は……?」
「あー……十二歳のときに、パパに恨みを持つ人間にやられた。パパ本人じゃなくてわたしを狙ってくるあたり賢いよね」
仕事柄、体に傷のある人間を見るのは慣れているつもりだった。それなのに、イチカの傷痕を見るのはとても辛くて、できることなら目を背けてしまいたいとすら思った。
「ノエル、タカヒト、ケイ……それから、護衛団の皆もすごく優秀だから最近はわりと減ったんだけど、昔はしょっちゅう誘拐されたり、脅されたり、それに……身近な人に裏切られて売り飛ばされかけたりしてたんだ。わたしの目に価値があるなら、わたし自身も大事に扱ってよって思うよね」
何事もなかったかのように話すイチカに罪悪感が湧き上がってくる。ノエルも今まさに、彼女を騙す任務に当たっているからだ。
ノエルだけではない。タカヒトも、ケイも皆、エフィアと呼ばれるイチカの瞳を狙っている。いっそのこと、イチカが自分たちを疑ってくれたら、冷たくあしらってくれたら楽だったのに。
自分勝手で理不尽な怒りにも似た感情をノエルは制御できなかった。ほとんど無意識に、イチカの体に残る傷痕を指でなぞっていた。傷はすでに塞がれていて痛みはないのだろうが、イチカは指の動きに合わせて時々身をよじらせた。
イチカの胸にそっと身を預けたノエルは、彼女の心音を聞こうと息を潜めた。彼女の心臓は定期的に綺麗な音を奏でており、乱れもなかった。
「ノエル……ちょっと……くすぐったい、かな?」
恥ずかしそうに笑うイチカを見て、ノエルは自分が何をしたかを振り返った。上半身裸の主人の胸に耳を寄せ、指先で傷痕をなぞった……?
我に返った瞬間血の気が引き、その後すぐに顔が燃えるように熱く、赤くなっていることを自覚した。指令があったわけでも脅されているわけでもないのに、どうかしている。恥ずかしさで死んでしまいそうだった。
「しっ……失礼しました! い、イチカ様にとんだご無礼を!」
恥ずかしさと申し訳なさから、イチカの顔が見えないくらいに頭を下げた。
「いや、わたしはいいんだけど……ノエルの顔色の方が心配だよ。青くなったり赤くなったり、信号みたいだ」
呑気なことを言っているのは、場を和ますためのイチカなりの冗談のつもりなのだろうか。今すぐに逃げ出したい気持ちを必死に堪えて、ノエルは応急処置に戻って気持ちを切り替えようと試みた。
「しょ、処置に戻りますね。痛いとは思いますが、少しだけ我慢してください」
今まで酷い傷を負ってきたイチカだが痛みに鈍感というわけではなく、めくれた皮膚にもう一度消毒液をかけてガーゼを当てると素直に弱音を吐いていた。骨折している上腕の肩関節を固定するように包帯を巻いた後は、医者に診てもらうまで時間がかかると思い鎮痛剤を飲ませた。
薬が効いてきたのか、ようやく痛みに歪んでいた顔に平静さを取り戻したイチカは、天井を見上げて呟いた。
「タカヒトとケイは……大丈夫かなあ……」
「……大丈夫です。ご存じだとは思いますが、彼らは戦闘のエキスパートですから」
「……そうだよね、うん。ありがとうノエル。わたしもふたりを信じるよ」
このままでは任務に支障が出てしまう気がして、頭を冷やさなければと思った。
「すみません……顔を洗ってきます」
ガラス張りの浴室と隣接している脱衣所の鏡は大きく、転倒の際に顔についた汚れと、迷いを抱えている自分の情けない表情がよく見える。
ボディーガードとして、戦闘技術も精神力も未熟だと反省し、両頬を叩いて鏡面に映る自分を見据えた。裏任務を与えられたときに、上司に言われた言葉を思い出す。
――絶対に、イチカに惚れてはいけない。
その意味をようやく心から理解できた気がした。
ノエルはこれまで感情に仕事が左右される経験なんてなかったために容易な命令だと思っていたけれど、成程確かに、こうも心を揺さぶられてしまっては任務どころではなくなってしまう。
大きく深呼吸をし、息を整える。さあ、気持ちを切り替えて仕事に戻ろう。タカヒトとケイに落ちあう場所の変更を伝えようと携帯電話を取り出すと、上司からメッセージが届いていることに気がついた。
『速やかにエフィアを奪え。このホテルは我々の管理下にある。獲るなら今が好機』
その短文を一読したノエルの背筋に冷たいものが走った。急すぎる命令によって、ノエルにはまだエフィアを奪う心の準備ができていなかったことが露呈した。
心臓の音が速く、大きくなっていることを自覚しつつ、すぐに返信をした。
『まだ瞳の色が金色に変化する気配もないので時期尚早かと思います。日を改めた方がよろしいかと』
『今日中にエフィアを強奪しなければ銀蛇団に先を越される。奴らに出し抜かれるわけにはいかない。これは命令だ。エフィアを奪え。最早生死は問わない』
ノエルにとって、上司の命令は絶対だ。このホテルが監視下に置かれているということは、失敗したと報告して誤魔化すのは不可能だということを意味する。
ーー覚悟を、決めなければならない。俺の存在意義は、任務を達成することでしか証明できないのだから。
脱衣所を出ると、イチカはベッドの上で仰向けになって目を瞑っていた。本当に、どこまでも無防備な人だ。守ること、そして瞳の色を変えることは困難を極めるけれど、物理的に獲るだけなら実に簡単。ずっとそう思ってきた。
だけど今、イチカに情が移ってしまった今、彼女の瞳を奪うことは今までこなしてきたどんな仕事よりも残酷な任務だった。
「……イチカ様」
「……あ、ごめんノエル。鎮痛剤が効いているのかな……なんだか眠くてさ」
目を擦りながら体を起こすイチカの隣に座ると、柔らかなベッドが体重に合わせて沈んだ。
イチカと目が合う。この美しい琥珀色の瞳を奪うために、彼女の懐に入り、信用させるために誠実に振る舞ってきた。命を懸けて仕えてきた。
琥珀色の宝石はいつどんな場所で見ても魅力的で、吸い込まれそうになる。法律も理性もすべて無視して、どんな手を使ってでも自分のものにしたいと考える人間が多いのも、納得できてしまう。
だが今のノエルには、イチカの信頼を裏切ってでもエフィアを獲得したいとは到底思えない。それでも、ノエルには上司の、会社の命令に背くことなどできやしない。
「ノエル、どうした? どこか怪我をしているの?」
いつだって名前を優しく呼んでくれるイチカの手のひらを強く握って、決心を固めた。
処刑台に上がる気持ちで息を吸う。
「……紅蓮一家は銀蛇団と提携を結んでいるといっても、結局のところ自分たちの利点しか考えておりません。エフィアを目の前にした私たちが今、銀蛇団を欺いて別行動をとっていることが何よりの証拠です」
「……私たち?」
覚悟を決めたつもりなのに、イチカの目を見るのが怖くてたまらなかった。
人生で一番の緊張感と罪悪感を抱えながら、琥珀色の美しい瞳を持つ優しい主人に告げた。
「ボディーガードを派遣する株式会社、S・P・Fに所属しているノエルは、表向きの仮の姿です。私の本名は、ノエル・ライネ・アムロ。そして、本当の所属組織は……紅蓮一家です。あなたの瞳を奪うために、ずっと機会を伺ってきました。私は今、その任務を遂行いたします」




