ノエル 2-③ 古傷
「イチカ様! 大丈夫でしたか?」
「う、うん。ノエルが守ってくれたおかげで、かすり傷程度で済んだよ。ありがとう」
礼を言われたものの、イチカの皮膚からはうっすらと血が滲み出ていた。ボディーガードとしてのプライドが許さず唇を噛み締めたが、今は反省している暇はない。再びイチカの手を取って目的地に向かって走り出した。
それにしても――こんなに銃声が飛び交っているのに、近所の人々が通報した気配も、警察が巡回に来る様子も見られない。成程、コノエ家とその周辺は治外法権というわけか。
ノエルは走りながら周囲に目を光らせ、用意しておいたバイクに鍵を差し込んで乗り込んだ。
「タカヒトとケイはどうなる? このバイクは盗難したものじゃないよね?」
「彼らとは後で合流する予定です。このバイクは先立って護衛団に手配させていた私物ですのでご安心ください。さあ、早く乗って」
アクシデントが発生した場合を想定した打ち合わせは済ませている。エンジンを吹かし、イチカが後ろに乗ったのを確認してから出発した。
ノエルはイチカを連れて、タカヒトとケイは敵本地を壊滅させた後で首謀者を捕虜にして、市外の洛斗ホテルに集合する手筈になっている。追手が来ている様子は見られないものの、この辺り一帯はコノエ氏のホームだ。どこにどんな罠が仕込まれているかわからない。
車と車の間をすり抜けながら目的地までの到着時間を少しずつ縮めていった。土地勘はないけれど、この調子でいけば三十分前後で到着できるだろうと予測を立てる。
ノエルの腰に手を回しているイチカの手は震えておらず、やり切れない気持ちになった。命を狙われる機会にも逃走劇にも慣れる必要などないのに、彼女の人生はいつだってこんな危険が隣り合わせだというのか。
身を切る風で頭を冷やそうと思っても、思考と葛藤で煮詰められていく脳はなかなか冷静にはなってくれない。それは決してフルフェイスのヘルメットを被っていることが原因というわけではないだろう。
ノエルは今、はっきりと、イチカに同情していることを自覚していた。それはノエルの任務に大きな影響を及ぼすことを意味する、禁忌に等しい最悪の感情だった。
しかし今は動揺するよりも混乱するよりも反省するよりも、無事にイチカと洛斗ホテルまで辿り着くことが最優先だ。頭の中の靄を忘却しようと努めながら信号を左折した、そのときだった。
一瞬の隙を突かれた。対向車線を走る一台の車からの狙撃だった。
前輪に穴を開けられたバイクは、コントロールを失ってふたりを横転させようと暴れ出す。イチカに怪我をさせないよう、ノエルはパンクしたバイクのハンドルを切りながら路肩までの移動を試みたが、慣れないふたり乗りの技術が不足していたのか、結局バイクは道路に黒いタイヤの跡を付けて横転した。
夜とはいえ、車通りの少なくない国道での交通事故だ。次第に野次馬が集まり出したが、ノエルは人目を気にする余裕もなく動転していた。
「イチカ様! ご無事ですかイチカ様!」
左半身を強く打ち流血しても、鍛錬を積んでいるノエルは直ぐに立ち上がることができるがイチカは違う。イチカは痛みを堪える声を押し殺していた。
正常ではない腕の曲がり方と、肩からの止まらない流血を見て慄然とする。急いでどこかで治療させる必要があるが、周辺の病院はコノエ家の息がかかっている可能性が高く、下手に駆け込めば銀蛇団に包囲されて終わりだ。
どうする? どうすればいい? 鞄の中に常備している薬箱を取り出し包帯で止血しながらノエルが判断に迷っている最中、野次馬の一人がノエルに近づいてきた。気が立っているノエルは強い言葉で追い払おうとしたが、男の顔を見て固まった。
「洛斗ホテルには銀蛇団が待ち構えている。『アゼリア』へ向かえ。この場の後処理は我々に任せろ。狙撃手を含め、追手も始末しておく」
そう言って車のキーを渡して人ごみに紛れるように消えていったのは、ノエルの直属の上司だった。いつ、どこから監視されていたのかはわからない。だが、この一件がノエルに任務を続行させるか降板させるかのテストなのだろうと思った。
野次馬の中でも心配して声をかけてくれる人や、救急車を呼ぼうとしてくれる人たちの優しさを丁重に断り、上司が手配していたマセラティに乗り込んだ。ヘルメットをしていたおかげで、負傷している女の子がエフィアの持ち主、イチノセ・イチカだとバレなかったのは不幸中の幸いだ。これ以上、騒ぎを大きくしたくない。
車中でイチカのヘルメットを外したノエルは、痛みに歪む彼女の表情を見て胸を痛めた。
「もうすぐ到着します。大丈夫です、私が絶対に守りますから」
「……ありがとう、ノエル」
無理やり笑みを作るイチカの痛みを少しでも和らげようと声をかけ続けながら、目的地を指定されたカーナビに誘導されつつ運転を続け四十分、ようやく「アゼリア」に到着した。
「アゼリア」は国道沿いにあるラブホテルだった。イチカと入ることに若干の抵抗を感じなかったといえば嘘になるが、羞恥など任務の前には塵も同然だ。歯を食いしばって痛みに耐えるイチカを抱えて、派手な内装の部屋へと入室した。
人目を避けたいノエルにとって、車庫からそのまま室内に入れる作りだったのはありがたかった。上司がこの場所を避難先に指定したということは、おそらくこのホテルはコノエ家とは無関係、S・P・Fが所有もしくは管理しているものなのだろう。
イチカとのやり取りを上司を含め、社内の人間に監視はされるのはいい気分ではないが、コノエ家の息がかかっていないだけでも僥倖だ。イチカをベッドの上に横たわらせ、ノエルは彼女のドレスをはだけさせていった。
再び薬箱を取り出して流血している皮膚を目掛けて消毒液を無遠慮にかけると、相当に沁みたのだろう、イチカは痛いと声を出して涙目になっていた。
正常な反応だ。命にも脳にもとりあえず別状はなさそうだと、ノエルはひとまず胸を撫で下ろした。
「失礼いたします。イチカ様、こうすると痛みますか?」
「いたたたた……うん、痛い……」
イチカの左肩から肘にかけての上腕部分には腫れと痛みがあり、かなり慎重に動かそうとしたが肩が上がらず、強い痛みを訴えてくる。症状から判断するに、どうやら骨折しているようだ。
「……申し訳ございません。私の手際が悪かったせいで、イチカ様にお怪我をさせてしまいました。重ねて申し訳ないのですが、上半身の擦り傷から菌が入るといけませんので……消毒のために一度、上半身を顕わにしてもよろしいでしょうか?」
「ノエルが謝る必要なんてないよ……わたしを、助けてくれてありがとう」
イチカのドレスをそっと脱がせたノエルは、彼女の生身の体を初めて直視して背筋が凍った。さっき負ったばかりの擦過傷なんてきっと、彼女にとっては傷とは呼べないだろう。
ノエルが硬直している原因は、イチカの体に遺っている多くの痛々しい古傷だった。




