ケイ 1-➁ 冗談
現状維持の生活を希望しているとはいえ、覚醒状態のエフィアを手に入れるためにイチカに惚れてもらいたいという欲はケイにもある。だが特に自分から何かアクションを起こすこともなく、平穏とは言えないが起伏のない日々を過ごしていた。
そんなある日、ノエルが所属会社に呼び出され、タカヒトは護衛団への指導のために数時間外す機会が訪れた。ケイにとって目の上のたんこぶとも言えるふたりが不在というのは、奸計を巡らすには絶好の時間だ。さあ何をしようかと舌なめずりをしていると、
「今日のおやつにバナナのパウンドケーキを作ろうと思うんだけど、ケイも手伝ってくれない?」
ひと仕事を終えたイチカが背伸びをしながら、素晴らしい提案を口にした。ボディーガードの三人の中で一番食欲旺盛で、味の感想を素直に口にするからだろうか。料理に手伝いが必要なとき、イチカはケイに声をかけることが多かった。
彼女は「台所はわたしの聖域だ」と主張するような頑固な料理人タイプではなく、料理をコミュニケーションの一環としても捉えているらしい。
「はい、かしこまりました。試食も含めて、オレにお任せください!」
キッチンに移動し、愛用の青色のエプロンを着用したイチカと皮を剥いたバナナを潰していった。ケイは手先の器用さには自信はあるけれど、普段は全く料理をしないので手際は悪い。拳銃の腕だったら誰にも負ける気がしないのにと、なかなか綺麗に潰れないバナナ相手に唇を尖らせた。
「料理ってさ、一人で作っているときは無駄なことを考えずに済んで集中できるし、人と作ると楽しみながら美味しいものができるから最高だよね」
潰したバナナに粉を加えたボウルを楽しそうにかき混ぜるイチカに、専ら食べる方にしか興味はないケイは同意できなかったが「そうですね」と相槌を打った。
そうやって雑談をしているうちに出来上がった生地を型に入れて、熱しておいたオーブンに入れた。後は焼き上がるのを待つだけだ。
「イチカ様の作るスイーツはどれも美味しいので、早く食べたいです」
「うれしいことを言ってくれるねえ。パウンドケーキって焼きたてはもちろん美味しいけど、冷めても美味しく食べられるっていうのが魅力的だよね。残った分は明日の朝、皆で食べよう」
手作りの甘いパウンドケーキとコーヒーで朝を迎えられるなんて、かつてのケイには想像もできなかった贅沢だ。次の日が楽しみだなんて気持ちは、ここに来るまでのケイにはとても考えられなかったから。
それを思えば、やはり今の生活を失いたくない。イチカのことは雇用主としても人としても好きだけど、タカヒトのように深入りしすぎないよう注意しながら、解雇されぬようボディーガードとしての仕事はしっかりとこなそうと改めて決意した。
「……ケイ」
名前を呼ばれて顔を上げると、イチカの真剣な瞳を真正面から見てしまった。
真っすぐな黒髪、華奢な体躯、すっきりと整った顔立ちの中でも一際美しいのは、やはりエフィアと呼ばれる琥珀色の瞳だった。見つめられて動じない人間は存在しないだろう。
何が言いたいのかと言うと、不覚にもときめいてしまったということだ。
「ちょっとこっちにおいで」
手招きされて近づくと、ケイの手を取ったイチカに甲をじっと見つめられた。
「怪我をしているけど、昨日の襲撃で?」
かすり傷とはいえ、負傷したこともイチカに気づかれてしまったことも、ケイにとっては恥じるべき失態だった。余計な心配はかけたくないし、あんな雑魚相手に怪我をしてしまったと知られたら評価が下がる気がしたのだ。
「いえ、これは自分でつけた傷です。でもオレはまだ若いので、すぐに傷痕も残らないようになりますから問題ありません!」
笑いながら明るい声で話したはずなのに、イチカはとても悲しそうな顔をした。
「わたしを心配してくれるのはわかるよ。でも、わたしは嘘を吐かれるのが一番辛い」
ケイの良心がチクリと傷んだ。嘘だったら常に吐いている。イチカの前では仲の良い同僚として振舞っている三人のボディーガードの関係性は上辺だけの嘘で塗り固められているし、何より自分たちが実はエフィアを狙っているという事実こそ、彼女に対する何よりも酷い裏切りだろう。
「オレ、イチカ様に嘘なんて吐きませんよ? 常に誠実であるようにと、幼い頃から教育されてきましたから」
息をするように嘘を吐ける自分の性格が恐ろしいと思ったが、イチカとはまた違う特殊で過酷な環境で育ってきたケイにとっては、生きていくために必要な人格形成だった。
それが武器になるのか仇となるのか、今のケイに知る術はないけれど。
イチカはケイの瞳をじっと覗き込んでから、穏やかに微笑んだ。
「……そう? なら、いいんだけどさ」
人を疑いたがらないイチカに甘えて、出会ってから今まで彼女に重ねてきた嘘の回数なんてもう数え切れない。ノエルの言う通り、いつか大きな失態を犯してしまうのかもしれない。
そのときは――文字通り、首が飛ぶのだろう。
「さて、それじゃあケーキが焼き上がる時間を使って、大学芋でも作ろうか」
「やった、大好きです! でもどうして大学芋なんですか?」
話題が逸れたのは良かったけれど、パウンドケーキに大学芋という組み合わせのアンバランスさに問わずにはいられなかった。
「この間ノエルと話したときに聞いてビックリしたんだけど、ノエルは大学芋を食べたことがないんだってさ。だから、絶対食べさせてあげたいと思って」
そう言って目を細めたイチカを見た瞬間、現状維持を望んでいたケイの心に突然、彼女の興味関心を独り占めしたいという自分勝手な欲望と、彼女の頭を割ってでも本心を覗いてみたいという、鋭利な刃にも似た欲望が急速に湧き上がった。
「相変わらずお優しいですね。……ちなみにイチカ様って、ボディーガードの三人の中だったら誰が一番タイプなんですか?」
今のぬるま湯に浸かっているような関係は心地よいけれど、まだるっこしいのは柄じゃない。タカヒトやノエルよりも一歩リードしたいという男としての生理的欲求、闘争本能が強く働いてしまったらしい。
「誰が一番とか考えたことはないよ。みんな、わたしの大切な家族だから」
こんなに直球で聞いているというのに、茶を濁してからさらに煙に巻くようなはぐらかし方に呆れる。曖昧な返答など誰も求めていない。ケイはイチカに悟られぬよう、小さく溜息を吐いた。
「それ、男が一番ガッカリする回答ですよ? ここは嘘でも『ケイだよ』って言ってほしかったですねー」
「そっか、ごめんね。だからわたしはモテないんだろうね」
冗談だとしたら皮肉がすぎるし、本気で言っているのなら頭がおかしい。
「イチカ様はオレを家族ってカテゴリーに入れてくれているみたいですけど、それって要するに、オレには性的欲求を抱けないってことですか?」
直球勝負、イチカを真正面から抱き締めてみた。眼前の惚けた主人を困らせてやりたい気持ちがケイのトリガーを外したのだ。
背伸びをすれば唇を奪える位置だし、イチカの吐息が直にかかる距離である。退路を塞いで、イチカの返答を待った。
「うん、抱かれたいとは思わないかな。たとえばだけどさ、ケイだって全裸の姉とお風呂で鉢あったとしても興奮はしないでしょ?」
赤面することも狼狽えることもなく淡々と語るイチカを見て、ケイは頬が急激に熱くなったことを自覚した。沸々と悔しさと恥ずかしさが込み上げてきて、ポーカーフェイスを気取りたいのにそんな余裕はとても持てそうになかった。
どうしてだろう。今までの人生、表情を取り繕えないなんてことは一度もなかったのに。
「……なーんて、冗談ですよ! ビックリしました?」
上手くできたのかはわからないけれど、いつものように白い歯を見せてイチカから離れた。悔しいがケイの完敗だった。
「なんだよー、真剣に答えたわたしが恥ずかしいじゃんか! どうしてくれる!」
そう言ってケイの頭を軽く小突くイチカはまるで弟を相手にしているようで、ケイは胸の奥に経験したことのない痛みを覚えた。
「オレの小芝居に騙されるようじゃ、イチカ様もまだまだってことですよ! 変な男に引っかからないように、ご注意なさってくださいね!」
これで何もなかったかのように、今まで通りの現状維持の関係に戻れるはずだ。……だけどこのまま引き下がるのは、どうにも悔しかった。
「……でも、自分で言うのもアレですけど……オレ、結構イケメンだと思うんですけどね! ……イチカ様って、どういう男がタイプなんですか?」
冗談の中に紛れ込ませた、本当に知りたい質問。ただで引き下がってたまるか。せめて、羞恥させられた分の代償は払ってもらいたい。
イチカは「うーん……」と腕を組みながら、笑って答えた。
「そうだなあ……腹黒い人、かな」
「……もしかしてイチカ様って、男の趣味が悪いんですか?」
「そんなことないって。さあ、大学芋を作っちゃおう。ケイ、芋を洗ってくれる?」
今は芋なんてどうでもいいです、とは言えなかった。イチカの作る甘味に外れはないと知っているケイの脳から分泌されるホルモンは、尖った唇から出る文句を黙らせる十分な効力を発揮したからだ。
結局、イチカの好きなタイプすらよくわからなかったケイの今日の成果としては、裏任務達成までの道程の難しさを知るだけだった。
パウンドケーキの甘い香りに鼻をくすぐられながら、ケイは太くて立派なさつまいもを洗った。




