タカヒト 1-⑤ 幻想
「非常に困惑しています。なぜイチカ様は、このタイミングで旅行など……」
ボディーガードだけのミーティング時間になっても、ノエルの苛立ちと戸惑いは収まっていないようだった。
腹を括ったタカヒトとは違い、新入りのノエルはイチカの理解不能な我儘にまだ納得がいかないらしく、小言を洩らし続けている。
「ノエル、いつまで不満そうな顔をしているつもりだ? もう決まってしまった以上、僕たちにできることは旅行を目いっぱい楽しんで仲を深めつつ、全力でイチカ様をお守りすることだけだ」
「しかし、あまりにも危険です! イチカ様は、銀蛇団の恐ろしさをわかっていないのです……もう一度、イチカ様を説得してきます!」
イチカの元へ行こうとするノエルを、ケイが立ち塞いでとめた。
「なんでそんなに臆病なの? ノエルにはさあ、銀蛇団からイチカ様を護衛できる自信がないの? いつ、どんなときにでも主人をお守りするのが、オレたちの仕事なんじゃないの?」
「そういった話をしているのではありません。リスクは最小限に抑えたいという、ごく当たり前の話をしているだけです」
「だからー、ノエルにとっての当たり前が、オレの当たり前だと思うのは傲慢じゃない? オレはリスクとか無視して、イチカ様がやりたいことをやらせてあげたいけど」
段々と口調が強くなっていくふたりのやり取りを聞きながら、タカヒトは溜息を吐いた。仲を深めるどころか、この件をきっかけに険悪になってしまう気がする。
「もうやめろ。僕たちが仲違いすることがイチカ様が一番悲しむことだって、わかっているはずだろ?」
ぐっと口を噤んだノエルは、漏らすように疑問を口にした。
「……なぜ、そこまでしてイチカ様の前では仲の良い同僚の姿を演じなければならないのですか? ぎこちない上辺だけの仲の良さで嘘を吐くよりも、ビジネスライクな現実を見せた方がよっぽど正直だと思うのですが」
ケイと顔を見合わせたタカヒトは、静かに目を瞑った。本当ならノエルには自分で気づいてほしいと思っていたのだが、今回は事情が急だし特殊だ。話せるうちに話しておくべきかもしれない。
「……イチカ様はエフィアの所有者という生い立ちゆえに、アズワノの子どもたちの大半が送るごくありふれた生活を経験できなかった。家族でショッピングモールに行ったことも、放課後に友人と公園でサッカーをしたことも、恋人と手を繋いでデートをすることも」
同級生が青春を謳歌している間、イチカは鑑定士としての勉強をしたり仕事をしたり、見合いをしたり誘拐されたりと、心身に負担のかかる生活を強いられてきた。
「青春と呼ばれるものは早々に諦めたイチカ様だったけれど、家族だけは諦めがつかなかった。幼い頃に母親と死別し、父親である当主様とは多忙ゆえにほとんど顔を合わせる機会のなかったあの方は、今でも『ありふれた温かい家庭』に強い憧れを抱いていらっしゃる。これは僕の推測じゃなく、イチカ様が度々口にしていることだ」
ノエルの眉間に寄っていた皺がなくなっているのを視認してから、タカヒトは続けた。
「だから中学校をご卒業されて当主様と別居するようになって、以前よりは比較的自由が利くようになっている今、自分が思い描いた家族像を作り上げようとしているんだ」
初めてイチカに挨拶をした際に言われた言葉が、今も忘れられない。
あの日彼女は「今日からタカヒトはわたしの家族だ」と言った。
最初は気持ち悪いとすら思ったその一言は、一緒にいる時間が長くなるにつれて同情へ、そして思慕にも似た気持ちと呼べるものへと変化していった。
「……イチカ様が家族に対して幻想を抱いているということは、私だって察しています。ですが、それを私たちが演じることについては別の問題です。不自然でしかありません」
ノエルの「幻想」という単語に、自分の胸中を見透かされたようで心臓が跳ねた。
中小企業の社長を務めていたタカヒトの父は、典型的な仕事人間かつⅮⅤ男だった。家にいるときは専業主婦である母に暴力を振るうことが茶飯事で、タカヒトは幼心にも、母は父の仕事のストレスの捌け口にされていると悟っていた。
それでも父に経済的にも精神的にも依存していた母は離婚を選択しなかった。タカヒトの前で何度も嗚咽を漏らして父に対する恨みを口にする日と、愛情を語る日が混在している母との生活は、タカヒトにとっては疲弊するものだった。
こんな、エゴと依存だけで成り立っている歪な集団を家族と呼んでいいのかと、ずっと不満と疑問を持ち続けてきたタカヒトは、イチカと同じように家族に幻想を抱いているのだ。
「でも家族ごっこをしているうちに、たとえ役作りの延長線上だとしても、イチカ様がオレらの誰かを本当に好きになってくれるかもしんないじゃん? そしたら裏任務の達成に直結するわけだしよくない?」
打算を隠そうとしないケイの直接的な言い回しに同意するのは気が引けるが、情だけではなくそういう計算が絡んでくるのも否定できない。言葉を飲み込んだノエルに、タカヒトは畳み掛けるように追撃した。
「……イチカ様だって、本当は心から愛する人を見つけて、子どもが欲しいと思っている。だけどそれは彼女にとって、夫と子を危険に晒してしまうことと同義。だからこそ相手選びには慎重になるし、人を好きになることに臆病になっている部分もある。イチノセ家が自分の代で終わってもいいと口にしていたのは、恐怖の現れに他ならないんだ」
ただ事実を淡々と述べているつもりなのにイチカに感情移入しすぎているせいか、口にしながらタカヒトの胸は強く痛んだ。ふたりにこの気持ちが悟られることのないよう、一度冷静になるために間をおいて、息を吸った。
「ケイの言葉を借りると……『家族ごっこ』はイチカ様にとっても僕たちにとっても、得でしかないんだ。ノエルも理解してくれたら、仕事がやりやすくなるんだけど」
ノエルの彫刻のような綺麗な顔立ちには明らかな不満が表れていたが、不承不承といった様子で小さく頷いた。
「……納得はしていませんが、理解はしました。……従います。任務を達成したいのは私も同じですから」
「はは、ノエルって頭は固いけど、頭が悪いわけじゃなさそうだねー」
あっけらかんと笑うケイとは対照的に、ノエルの顔は般若に変わった。
「し、失礼ではありませんか? お言葉ですが、ケイさんには言われたくはありません!」
「あ、言ったねー? じゃあ何か勝負しよーよ! 暗算? パズル? なんにせよオレが勝つけどねー」
敬語こそ抜けないものの、赴任したばかりの頃に比べるとノエルは少しずつではあるが打ち解けてきたように見える。職場環境に慣れてきた証拠だろうか。
イチカの命令に従うことによって、強制的でも上辺だけでも自分たち三人の仲が今よりも深まるのであれば、喜ばしいことだと思った。
人に対して分厚い壁を作るノエルといつだって本心を見せないケイの前では、なんとなく恥ずかしくて口に出せずにいたが、四六時中寝食を共にする同僚たちともっと仲良くなりたいと、イチカが命じるずっと前から思っていたからだ。
「ふたりとも、言い争いするのはやめろ! 全く……」
口ではそう咎めながらも、いつもより子どもっぽいノエルの表情を見て、タカヒトは無意識のうちに口元が緩んでいた。




