タカヒト 1-➁ 手段
「ありがとう。タカヒトがいてくれて本当にうれしいよ」
その言葉と微笑みに、高鳴った胸の鼓動を抑えるのに必死になっていると、
「それにしても、肩凝ったー。この絵画の鑑定、めちゃくちゃ目が疲れるんだよね」
イチカは椅子に座ったまま大きく背伸びをした。仕事中のイチカが鑑定しているのは、素人のタカヒトから見ても細かい書き込みが多い海外のマーケットを描いた絵画だった。
「……では、僕がマッサージをして差し上げましょうか? 腕には自信がありますよ?」
「いいの? じゃあ、お願いしようかな!」
好機だと思い提案すると、イチカは屈託のない笑顔でそう言って簡単にタカヒトに背後を許した。警戒心ゼロの獲物の姿を見て、ただ首を取るだけならこんなに楽な仕事はないのにと溜息を吐きそうになり、かぶりを振った。
今はマッサージに集中しよう。一説によれば、他人と肌を触れ合わせるのは心の距離を近づける最も有効的なコミュニケーション手段なのだそうだ。
貴重な機会を無駄にしないよう、誠心誠意癒してあげることだけを考えて、十七歳とは思えないほど凝り固まったイチカの肩を両手を使って丁寧に揉みほぐしていった。
「うわ……イチカ様、硬いですね……」
「そう? ……あー、タカヒトがこんなに上手だとは思わなかったよ。気持ちいい」
日頃の疲れが溜まっていたのだろう。思っていた以上に強張った筋肉を揉みほぐしていくたびに、イチカは気持ち良さそうな顔をして体を弛緩させた。
その表情を見るのがなんだかうれしくて、次第にタカヒトは彼女の身体を気持ちよくすることにのめり込んでいった。
「イチカ様。もしよろしければ、肩だけではなく全身もやりましょうか?」
「え、いいの? お願いー」
二つ返事のイチカをソファーにうつ伏せに寝かせた。ケイとノエルが別件で外出している最中に合法的に肌に触れられるという状況に、頭の隅っこに押しやっていた下心がひょっこり顔を出してしまいそうになり必死に理性を総動員させた。
タカヒトは己を律しつつ、背中を指圧していった。
警視庁の同部署にいた男たちとは比べ物にならないほど、イチカは華奢だった。膨大な仕事の量をこなすだけでも骨が折れるに違いないのに、この細い肩にはエフィアを持つ者として大きな重圧が伸し掛かり、日々命を狙われ続け緊張を強いられている。
体力も精神力も消耗するのも当然だ。丁寧に体を押していくと、イチカの唇からは心地よさそうな声が漏れた。背中、腰、足、全身を順に揉んでいきながら、
「イチカ様、気持ちいいですか……?」
顔を近づけて、耳元で囁くように問いかけた。イチカは目を瞑りながら「うん、気持ちいいよー」とリラックスした様子で答えてくれたが、タカヒトとしては物足りない。
マッサージも上手いボディーガードとして認識されるのではなく、男として意識してもらいたいからだ。
「暑くなってきたので、少々失礼しますね」
制服の上を脱いで、シャツを第二ボタンまで緩めて胸元を大胆にはだけさせた。そしてうつ伏せになっているイチカの背中を、優しく、しっかりと指で押し込んでいく。
凝り固まった筋肉への刺激と異性の直接的なアプローチを二重に与えれば、思春期の少女なら意識してくれるに違いないと考えた。
さっきまでしきりに声を漏らしていたイチカが静かになったことから、タカヒトのことを意識して恥ずかしがっているものだと確信して口元が緩む。
「イチカ様……?」
様子を窺おうとして彼女の顔を覗き込んだ瞬間、タカヒトは初めて目が点になるという経験をした。
――寝ている。イチカは安らかな寝息を立てて、眠りこけてしまっていた。
こんなに体を張って男をアピールしているというのに、寝てしまうなんて。これまでに培ってきたプライドが粉々に砕け散ってしまいそうだ。
すっかりやる気を失ったタカヒトは小さく溜息を吐いて、あどけない寝顔を見せる主人を見つめた。
目の下の濃い隈も、硬すぎる筋肉も十代の女性にはまるで似つかわしくない。イチカが爆睡しているのをいいことに、主人に対してとても無礼だとは承知しているけれど、タカヒトは我慢できずに癖のない彼女の髪に手を伸ばした。
艶やかな黒髪を撫でていると、
「ねえタカヒト、なにしてんの?」
まるで罪を追及するようなケイの冷たい声が聞こえて、タカヒトは顔を上げた。
「……ノックもなしにイチカ様の執務室に入るなんて、マナー違反だろう」
「質問に答えてよ」
「僕はただ、日頃からお疲れのイチカ様にマッサージをしていただけだ。やましいことは何もしていない」
入室してきたケイに両手を上げて無実を証明してみようとしたものの、なにせ胸元をはだけさせているのだ。説得力は皆無だろう。
ケイは口元に笑みを浮かべながら、「そうそう簡単に抜けがけなんてさせないよ」と言って視線で釘を刺してきた。
普段は飄々としているケイは、ボディーガードとしての表の任務にもエフィアを奪うという裏の任務のどちらに対してもあまりやる気を見せないけれど、タカヒトやイチカの見合い相手が行う、彼女への露骨なアプローチへの対応は素早い。
ケイ本人がそれを嫉妬だと自覚していないあたりが可愛らしいと思っているが、彼が自分の気持ちに気づいてしまったときは最も怖いライバルの一人になるのだろう。
「来週、イチカ様とトーハマに行くじゃん? いつも使ってるベンツの調子が悪いから、代車を使うことになるってことを伝えにきたんだ」
「ふうん……それ、すぐに伝える必要があったのか? 僕には、言い訳じみたものに聞こえるけど」
ケイの眉間に一瞬皺が寄るのを見逃さなかったタカヒトは、自分はとても性格が悪いのかもしれないと思った。苛立つケイの反応が見たくて、わざと口にしているのだから。
寝息を立てるイチカを見ながら、次はノエルの目が届く範囲でやってみようと思った。
クールなノエルがどんな反応を見せるのか、楽しみだ。




