第八話 「観測記録・nの次元」
> 視点座標:nの次元 座標不定
> 話者:観測士(旧識別コード:不明)
> 記録取得方法:意識残存体からの自動抽出
> 記録期間:不明
> 注記:話者は本記録の作成時点において、自身がいつここに来たかを覚えていない。
> 記録は話者の主観的な時間順に並んでいるが、客観的な時系列との対応は保証されない。
記録・第一節「地面について」
地面がある。
それが最初に確認できたことだった。
地面がある。踏める。沈まない。立てる。
立ちながら確認した。地面の材質は土でも石でも金属でもなかった。何かが積み重なって固まったものだった。積み重なっているものの一つを拾おうとしたが、拾えなかった。固着していた。指先で触れると、表面が少しだけ崩れて、灰のようなものが舞い上がった。
灰は上に舞い上がった後、どこかへ消えた。
落ちてこなかった。
重力はある。でも灰には重力が働かなかった。灰は軽すぎて、この場所の重力に引き受けてもらえなかったのかもしれない。
地面を遠くまで見た。
地平線がある。地平線があるということは、この場所には「果て」があるように見える。見えるが、地平線の向こうが何かは分からない。地平線は遠く、地平線の色は空の色と同じだった。
空の色は、色と呼ぶべきか分からない色だった。
色がないのとも違う。色がある。でもその色を表す言葉を、私は持っていなかった。
記録・第二節「星について」
空に、光がある。
星かもしれない。星のように見えた。無数にあった。
でも動いていた。
星は動かない。少なくとも短い時間では動かない。でもここの光は動いていた。全部が別々の方向に、別々の速度で動いていた。
近くを通った一つを観察した。
球形だった。直径はおそらく数センチ程度に見えたが、近づくにつれて大きくなり、十メートル、百メートル、その先は計測できなくなった。
表面に、何かが見えた。
都市だった。
球体の表面に、建物が並んでいた。人が歩いていた。道路があった。車が走っていた。
球体の直径が、さっきより大きくなっていた。
その都市の建物の一つに、火がついた。
火は隣の建物に移った。
隣の建物が崩れた。崩れた建物の瓦礫が、道路の上に落ちた。
人が走った。
走っている方向に、別の火があった。
人が止まった。
球体が、少し縮んだ。
縮んだ球体の表面で、都市がまだ燃えていた。
球体が、さらに縮んだ。縮むたびに、都市が小さくなった。都市が小さくなるたびに、燃えているものが密集した。
最終的に、球体は私の手のひらに載るくらいの大きさになった。
表面に、何かが残っていた。都市の形をした、焦げた何かが残っていた。
球体は私の手のひらを通り過ぎた。
重さがあった。
重さがあったのに、手のひらには何も残らなかった。
記録・第三節「堆積について」
地面が何でできているかを、より丁寧に確認した。
地面は層になっていた。
最表層は、先ほど触れた灰のようなものだった。その下を爪で掻き削ると、別の層が出てきた。
第二層は、砂だった。砂に見えたが、砂の粒の一つ一つが光を持っていた。光を持った砂粒は、掻き出した後で光を失った。光を失った砂粒は、普通の砂になった。
第三層まで掘ったところで、手が止まった。
第三層から、声がした。
声、というより、音だった。音楽に似ていたが、音楽ではなかった。複数の音が重なっていたが、調和していなかった。調和していない複数の音が、でも一つの何かとして聞こえた。
何を言っているかは分からなかった。
言語ではないかもしれなかった。
でも、何かを言っていた。
聞いているうちに、眠くなった。
眠くなったので、掘るのをやめた。
記録・第四節「NCityについて」
歩いた先に、建物があった。
遠くから見えた時は、一つの建物だと思っていた。近づくにつれて、一つではないことが分かった。
建物が密集していた。都市だった。
NCityと呼ばれているらしいことを、後で知った。後で、というのは、そこに入ってから何かが脳に直接書き込まれた感触があって、その書き込まれた中に「NCity」という言葉が含まれていたという意味だ。
都市は動いていた。
建物が動いていた。建物の中のものが動いていた。道路を何かが移動していた。
何かが何かを運んでいた。
運ばれているものが何かは、近くでも分からなかった。
近くにいた運搬機械に近づいた。機械は私を認識しなかった。私の横を通り過ぎた。台車の上に何かが積まれていた。
台車の上のものを見た。
見た瞬間、視線を逸らした。
見た、ということと、見てしまったということの間に、何かがあった。
視線を逸らした後で、見たものが何だったかを考えた。
考えた結果、考えるのをやめた。
台車は都市の奥へ進んでいった。
記録・第五節「工場について」
都市の中に、工場がある。
工場は複数あった。種類が違った。
一つ目の工場は、高い煙突から煙を出していた。煙の色はピンクだった。ピンクの煙が空に昇り、空の色に混ざって消えた。工場の内部を窓から見ようとした。窓があった。窓に近づいた。窓の内側に、何かが張り付いていた。張り付いていたものが窓を曇らせていたので、内部は見えなかった。
音は聞こえた。
プシュッ、という音が、一定のリズムで続いていた。
二つ目の工場は、音が違った。
液体の音がした。何かが大量に流れていた。工場の壁の一部に排出口があり、黒い液体がパイプから流れ出ていた。液体は地面を流れて、都市の中を移動していた。液体の匂いを嗅いだ。
甘かった。
甘い匂いがした後、数分間、思考が止まった。
思考が止まった数分間に何があったか、覚えていない。
思考が戻った時、排出口から離れた場所にいた。
自分で移動した記憶はなかった。
三つ目の工場の前では止まれなかった。
工場に近づくにつれて、足が動かなくなっていった。意志とは関係なく、体が止まった。工場から、音がした。先ほどの工場の音とは全く異なる音だった。
何の音かを書き留めようとしたが、書けなかった。
書くための言語が、その音に対応していなかった。
遠くから工場の外観だけを記録した。
建物の壁が、脈動していた。
呼吸するように、壁が膨らんで縮んだ。
記録・第六節「住人について」
NCityに住人はいるか。
いる。
ただし、住人という言葉が正確かどうか分からない。
道路を移動しているものたちを観察した。形が様々だった。人の形をしているものもいた。人の形をしているが、比率がおかしいものもいた。人の形をしていないものもいた。
人の形をしているものに近づいた。
男性だった。背が高かった。スーツを着ていた。書類を持っていた。歩いていた。
声をかけた。
男性は止まらなかった。
追いかけて、隣に並んで、声をかけた。
男性が私を見た。
目の焦点が、私の目が合う場所より五センチ奥にあった。
何かを言った。でも言語が分からなかった。知っている言語の音に似ていたが、意味が取れなかった。
男性はまた歩き始めた。
別の住人に近づいた。
女性だった。腕が三本あった。三本の腕で別々のものを運んでいた。
声をかけた。
女性は私を見た。
三本の腕のうち一本が、こちらに向かって伸びてきた。
後退した。
女性は伸ばした腕を戻して、また歩き始めた。
NCityの住人たちは、私に敵意を示さなかった。でも関心も示さなかった。私は彼らの処理能力の中に、カテゴリとして存在していなかった。
記録・第七節「タワーについて」
都市の中心に、塔がある。
初めて見た時、雲の中に消えていると思った。
雲がないことに気づいた。
雲がないのに、塔の上部が見えなかった。
上を見続けた。首が痛くなった。
それでも上部は見えなかった。
塔の表面を見た。窓があった。窓が無数にあった。窓の一つ一つに光があった。光の色が違った。全部の窓で、異なる色の光が灯っていた。
一つの窓に近づいた。
窓の内側に、誰かがいた。
机に向かって、何かをしていた。
こちらを見なかった。
別の窓に近づいた。
内側に、誰かがいた。
床に座っていた。動かなかった。
また別の窓に近づいた。
内側が暗くて見えなかった。暗い中に、目があった。
目が、こちらを見ていた。
目は動かなかった。
私が窓から離れた後も、目はそこにあった。
タワーの入口を探した。
入口があった。扉があった。扉に手をかけた。
開かなかった。
扉の表面に、何かが書いてあった。読めなかった。読もうとすると、文字が動いた。動いた文字が別の配置になった。また読もうとすると、また動いた。
読めないように動き続けた。
あきらめて離れた。
離れながら後ろを見たら、扉が開いていた。
中から誰かが出てきた。
スーツを着た女性だった。目の下に疲れた色があった。書類を持っていた。腰に刀を差していた。
私を見なかった。
書類を確認しながら、都市の中に歩いていった。
記録・第八節「パンデモニウムについて」
都市の端に、別の建物がある。
都市とは質感が違った。都市は灰色だったが、その建物は色があった。
近づくにつれて、光が見えた。看板があった。看板に文字があった。文字は読めた。
「ぱんでむ」と書いてあった。
建物の正面に、ガラスの扉があった。扉の向こうに、明かりがあった。明かりの中に、誰かが立っていた。
制服を着ていた。笑顔だった。
笑顔の中に、何も入っていなかった。
扉に近づいた。
扉が自動で開いた。
中から、甘い匂いがした。
私は扉が開いた場所で止まった。
中には入らなかった。
入ると戻れない気がした。根拠はなかった。でも気がした。
扉が閉まった。
また開いた。
笑顔がこちらを見ていた。
笑顔の形の空洞が、こちらを向いていた。
私は扉から離れた。
記録・第九節「果てについて」
NCityから外れた方向に歩いた。
どこまでも歩いた。
地面は続いていた。
歩き続けた。
振り返ると、NCityがあった。
小さくなっていた。
また歩いた。
振り返ると、NCityが小さくなっていた。
また歩いた。
振り返ると、NCityが小さくなっていた。
ある時点で、振り返った。
NCityが見えなかった。
前を向いた。
地面が続いていた。
空に、光があった。球形の光が、動いていた。無数にあった。
一つが近くを通った。
表面に都市があった。海があった。山があった。人がいた。
その球体の中の人間が、空を見ていた。
空を見ながら、何かを言っていた。
声は聞こえなかった。
口の動きだけが見えた。
口の動きを読もうとした。
「ここはどこだ」と言っているように見えた。
球体が縮み始めた。
山が崩れた。海が消えた。都市が燃えた。人が走った。
球体がさらに縮んだ。
手のひらサイズになった。
私の前を通り過ぎた。
重さがあった。
手を出した。
球体が手のひらに載った。
軽かった。全ての山と海と都市と人間の重さが、これだけしかなかった。
しばらく持っていた。
球体の光が消えた。
光が消えた後、球体がどこかへ向かっていった。
私の手から離れて、どこかへ向かっていった。
どこへ向かったかは分からなかった。
ただ、方向があった。
方向の先に、何かがある気がした。
記録・第十節「果てはあるか」
果てはあるか。
分からない。
歩いた先に果てがなかった。でも歩き続ければ果てがあるかもしれない。
歩き続ける体力があるかどうかは分からない。
そもそも私がここで疲れるかどうかも分からない。
ここに来てから何日経ったかは分からない。
昼がない。夜がない。光は空の球体から来ているが、球体は無数にあって、全部が動いているので、明るさが一定でない。ただ、暗くはない。常にどこかから光が来ていた。
果てはあるか。
空に果てがあるかどうかを考えた。
上を見た。球体が動いていた。球体の向こうに、球体があった。球体の向こうの球体の向こうに、球体があった。
どこまであるかは見えなかった。
宇宙があるかどうかを考えた。
宇宙という概念が、この場所に適用されるかどうかが分からなかった。
宇宙は空間の広がりだ。この場所には空間がある。地面があって、空があって、物が存在できる。物理的な法則がある程度働いているように見える。
でも、ここが宇宙の内側なのか外側なのかが分からなかった。
全ての世界線が終わった後の場所、と誰かが書いていた記録を読んだことがある気がした。
気がした、というのは、記憶が曖昧だからだ。
ここに来る前の記憶が、全部ではないが、一部が薄くなっていた。
薄くなっていることに気づいたのは、ここに来てから少し経ってからだった。
記録・第十一節「私について」
私がここに来た理由を、覚えていない。
最初からここにいたのかもしれない。
最初がいつかも、分からない。
記録を書き続けている。書き続けることが、ここで唯一できることだった。
他に何かできることがあるか探した。
食事が必要かどうか試した。空腹にならなかった。
眠れるかどうか試した。眠れなかった。眠くもならなかった。
疲れるかどうか試した。疲れなかった。
痛みがあるかどうか試した。
試した方法は書かない。
痛みはなかった。
ここにいる間、私は変化しているかどうか分からない。
変化していないかもしれない。
変化しているが、それが分からないかもしれない。
第三層から声が聞こえた時のことを思い出した。
地面の第三層を掘った時に声がした。その後眠くなった。眠くなった後に自分の意志ではない場所に移動していた。
眠くなった、というのが正確かどうかも分からない。
ただ何かが止まった。
止まった間に何かが起きた。
何が起きたかは分からない。
分からないことが増えている。
それが変化かどうかも分からない。
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補充記録 No.008
分類:観測記録(nの次元・自走型)
備考:
話者の識別コードは照合不能。
nの次元に自発的に到達した事例は記録上ほぼ存在しない。
当該個体がいかにしてここに来たかは調査中。
観測内容の正確性について:
地面の第三層から聞こえた「声」の正体:世界線の残骸の中に
意識が残存している事例の音声。量が多いため、ここでは常に
何らかの音がしている。話者が「音楽に似ていた」と表現したのは
正確ではないが、人間の知覚でそう処理されることがある。
空の球体について:
全てが滅びた世界線の残骸である。
大きいものは滅びてから時間が浅い。
小さいものは長く漂っている。
手のひらに載るサイズまで縮んだものは、
回収対象として処理される。
話者が手に取った球体は、話者の手から因果律プレス工場に
自動転送された。話者は気づいていない。
果てについて:
nの次元に果てがあるかどうかは、回答できない。
nの次元は全世界線の終点が堆積する場所であるため、
世界線が増えるたびにnの次元は広がる。
現時点での広さは計測不能。
果てがないのではなく、果てが常に後退している。
話者の現状について:
話者は記録を続けている。
記録を続けているという行為が、
当該個体の意識を安定させている。
記録を続けることで、意識が安定する。
意識が安定することで、記録が続く。
この循環を利用して、当該個体を
「観測記録端末」として転用することが可能か検討中。
話者が「ぱんでむ」の扉に入らなかった理由は、
入ると戻れない気がしたからである。
正確な認識である。
ただし、「戻る」先がすでに存在しない可能性がある。
話者はそのことを、まだ知らない。
処置:保留。観測継続。
在庫切れ、なし。
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