第六話 「侵食記録・夢境地区」
> 視点座標:第22,04,779番世界線 現代相当期 ある国の地方都市
> 話者:複数(地区住民・のべ四百十二名)
> 記録取得方法:神経網からの自動抽出・死亡前後の意識残存から採取
> 抽出期間:侵食開始から地区消滅まで 三百二十一日間
侵食三日目——住民・女性・四十一歳
最初に「それ」を見たのは、朝の七時十分だった。
通勤の途中で、路地の角に立っていた。
黒いワンピース型の制服を着た女の子だった。年齢が分からなかった。顔の造形は人間に近かったが、立ち方がおかしかった。重心がなかった。体重が体に乗っていない立ち方だった。風が吹いていたが、髪が揺れなかった。
笑顔だった。
こちらを見ていた。
目が合った。
目の焦点が、人の目が合う場所より五センチ奥にあった。わたしの目を見ているのではなく、わたしの目の向こう側にある何かを見ていた。
足が止まった。
止まれない状況だったが、止まった。体が勝手に止まった。
一秒だけ見た。
一秒後に目を逸らして、早足で通り過ぎた。
その日の夜から、眠れなくなった。
眠れなくなった理由を言語化しようとすると、あの笑顔が出てくる。笑顔の中に何も入っていなかった。笑顔の形の、完全な空洞があった。あの空洞を一秒間見た。空洞の向こうに、何かがあった。何があったかは分からない。でも見た。見てしまった。
翌朝も同じ場所に立っていた。
別の路地から回り道をした。
侵食九日目——住民・男性・二十七歳
三日前から、近所の様子がおかしい。
同じ建物に住んでいた四十代の女性が、最近外に出なくなった。郵便受けが溢れている。ドアを叩いてみた。中から音がした。でも返事がなかった。音は一定のリズムで繰り返していた。壁を叩くような音だった。
管理会社に連絡した。翌日、鍵を開けて確認することになった。
翌日、部屋に入った。
女性は部屋にいた。
床の上に座っていた。壁を叩いていた。一定のリズムで叩いていた。目が開いていた。焦点が壁の向こうにあった。名前を呼んだ。肩を叩いた。何も変わらなかった。
救急車を呼んだ。
搬送された病院で、医師から「身体的な異常は見られない」と言われた。でも意識が戻らなかった。壁を叩くリズムが、病院でも続いた。ベッドの柵を叩いた。一定のリズムで叩き続けた。
三日後に死亡した。
死因は「不明」とされた。
侵食十七日目——住民・男性・三十四歳
地区の中で、例の制服姿を見たという話が広まっていた。
場所がバラバラだった。朝の路地。深夜のコンビニの前。公園のベンチ。マンションの廊下。共通しているのは「黒い制服」「金色のバッジ」「笑顔」だけだった。
何人かが「目が合った」と言っていた。
目が合った後、全員が同じことを言った。
「次の日から眠れなくなった」
わたしはまだ見ていなかった。見ないように気をつけていた。
でも今日、スーパーの帰り道で見た。
道の向こう側を、歩いていた。
「歩いていた」という言い方が正確かどうか分からない。足が地面に接地していなかった。地面から一センチか二センチ浮いた状態で、歩く形をして移動していた。
荷物を抱えて立ち止まった。
向こうを向いて歩いていたので、こちらは見ていなかった。
見られなかった。
それだけで助かったと思った。
家に帰ってドアに鍵をかけた。
翌朝、隣の家の夫婦が二人とも意識を失っているのを、配達員が発見した。夫の方は四十八時間後に死亡した。妻の方は生きていたが、何も言わなくなった。目は開いていた。呼吸はしていた。でも瞬きの間隔が変になった。十秒に一回、瞬きをした。十秒に一回、完全に一定のリズムで。
侵食三十一日目——住民・女性・五十八歳
地区から出ようとした。
車に乗って、幹線道路を走った。
途中まで行けた。交差点を曲がったところで、道の脇に「それ」が立っていた。
助手席に乗っていた夫が「あれは何だ」と言った。
わたしは見なかった。見ないようにしてハンドルを握った。アクセルを踏んだ。
交差点を通り過ぎた後、夫が何も言わなくなった。
五秒後に気づいて声をかけた。返事がなかった。
路肩に車を止めた。
夫は座席に座ったまま、目を開けていた。焦点が、フロントガラスの向こうの五センチ奥にあった。
名前を呼んだ。揺らした。手を握った。
反応がなかった。
ハンドルを握ったまま、一点を見ていた。
夫が見たのは一秒か二秒だったはずだった。わたしが見ないようにした間に、夫は見ていた。一瞬だったはずだった。
一瞬で足りた。
救急車を呼んだ。
夫は六日後に死亡した。
わたしは地区に戻らなかった。地区を出た後、夫の死亡通知を受け取るまで、ホテルに泊まった。
地区に戻らなかったから生きている。
これを書いているのは、地区を出て四十日後だ。
今でも路地の角を曲がるたびに、足が止まる。
黒い制服を着た人間を見るたびに、足が止まる。
止まって、確認する。バッジが金色かどうか確認する。
金色ではないことを確認してから、歩き出す。
これを何百回やったか分からない。
侵食五十二日目——住民・男性・六十二歳
地区の中で、「それ」を見ても何も起きなかった人間がいると聞いた。
会いに行った。
四十代の男で、地区の端に住んでいた。
「目が合ったんですよ」とその男は言った。「ずっと見てました。向こうも笑顔でこっちを見てた。でも何も起きなかった」
「何も起きなかったのは本当ですか」と聞いた。
「はい、普通ですよ。ほら」と言って、両腕を上げて見せた。
話しながら、男の目が少しおかしいと思った。
焦点が、合う場所の三センチくらい奥にあった。
でも男は普通に話していた。普通に動いていた。普通に笑っていた。
「また見に行けますよ」と男が言った。「今朝も公園にいましたよ。案内しましょうか」
断った。
早足で帰った。
翌日、その男が死亡したという話を聞いた。
夜中に公園で倒れているのを発見されたらしかった。
発見した警官が、公園のベンチに「黒い制服の女の子が座っていた」と証言したが、翌日には「記憶違いだった」と言い直した。
警官の目の焦点が、三センチ奥になっていた。
侵食八十八日目——救急隊員・男性・二十九歳
この地区の出動件数が、先月比で六倍になっている。
ほとんどが「意識不明」か「突然死」だ。
共通点を上司に報告した。「精神的な集団パニック」と判断された。
出動するたびに、地区の様子がおかしくなっていた。
空き家が増えた。逃げた人間が多いのかもしれない。でも逃げた形跡がない空き家もあった。荷物が全部残っていた。食事が途中のまま残っていた。飼い猫が鳴き続けていた。住人だけがいなかった。
ある夜、出動先のマンションの廊下で、「それ」と正面から鉢合わせた。
廊下の突き当たりから歩いてきた。笑顔だった。
体を壁に押しつけて、目を閉じた。
笑顔が脳裏に焼きついていた。目を閉じても見えた。網膜に書き込まれた何かがあった。
通り過ぎる気配がした。
冷たい何かが横を通り過ぎた。冷たいというより、温度がなかった。体温がある何かが通り過ぎる時の、空気の押し退けられる感触がなかった。何も押し退けずに通り過ぎた。
三十秒待ってから目を開けた。
廊下に誰もいなかった。
その夜から、眠るたびに廊下の夢を見る。
廊下の突き当たりに「それ」が立っている。
笑顔でこちらを見ている。
近づいてくる。
近づいてくる速度が毎回少し速くなっている。
今夜の夢では、廊下の半分まで来ていた。
侵食百三十日目——小学校教員・女性・三十一歳
学校が休校になった。
子どもが十三人、先週から欠席している。そのうちの五人が「意識不明」で入院している。三人が死亡した。
死亡した三人の共通点を探した。
全員が「下校中に見た」と話していた。先週欠席するまでの間に、友達や親に話していた。「黒い服の人に笑いかけられた」と。
子どもの方が早い、と気づいた。
大人は目が合ってから数日かかる。子どもは数時間で意識を失う。
理由が分からなかった。
ある教員が「子どもの方が抵抗が少ないからじゃないか」と言った。
抵抗、という言葉が引っかかった。
何に対する抵抗か。何が何に対して抵抗しているのか。
考えるのをやめた。考えていると、考えていること自体が何かに使われている気がした。
根拠はなかった。でも気がした。
侵食百七十一日目——警察官・男性・四十五歳
地区の封鎖を要請した。
上から却下された。「根拠が不十分」とのことだった。
根拠、と言われても困る、と同僚に話した。
目に見えない何かに接触した人間が順番に死んでいる、という事象を、書類に書ける根拠として提出できる形にする方法が分からなかった。
写真を撮ろうとした同僚がいた。
スマートフォンのカメラを向けた瞬間に、画面が真っ白になった。
真っ白なままで、静止した。
同僚がスマートフォンを下ろした後、画面が戻った。
保存されていた写真を確認した。
「それ」が立っていた場所に、制服姿の輪郭が映っていた。
輪郭だけがあった。
顔の部分だけが、完全に白く塗りつぶされていた。
でも笑顔の形だけが残っていた。
白い塗りつぶしの中に、笑顔の形の空白があった。
その写真を見た同僚が、三日後に意識を失った。
写真を見ただけで足りた。
写真を見たわたしは、今のところ生きている。
今日で侵食百七十一日目だ。
今のところ、という言葉が正確かどうか分からなくなってきた。
侵食二百四十日目——地区外・研究者・女性・三十八歳
地区の外から観察している。
地区の境界付近に機材を設置して、電磁波・音波・熱量の変化を記録している。
データを見ると、地区内の生体反応が着実に減っている。
最初の観測時点では、地区内に推定二千三百人の生体反応があった。
今日の時点で、六百一人になっている。
死亡が確認されているのは百九十二人だ。
残りの千五百人以上はどこにいるのか分からない。
地区から出た記録がない人間が、いなくなっている。
境界付近に「それ」が立っているのを観測した。
機材越しに見た。直接は見なかった。
機材の画面の中で、笑顔がこちらを向いた。
画面越しに目が合った気がした。
機材の電源を切った。
翌日、機材を回収した。
データを確認した。
電源を切った後の時間帯にも、データが記録されていた。
電源を切った後に記録されたデータの内容を確認しようとした。
ファイルが開けなかった。
開こうとするたびに、画面が一瞬だけ白くなった。
白くなった画面の中に、笑顔の形の空白があった。
一瞬だけ。
ファイルを削除した。
削除しても、削除フォルダに入らなかった。
存在しない場所に保存されていた。
侵食三百二十一日目——地区外・通行人・男性・年齢不明
廃墟になった地区の前を通り過ぎた。
立ち入り禁止のテープが張られていた。
地区の中は静かだった。
風が吹いていたが、地区の中の木が揺れていなかった。
地区の入り口に、「それ」が立っていた。
笑顔だった。
こちらを見ていた。
目が合った。
目を逸らした。
早足で通り過ぎた。
この先の記録は存在しない。
この男性の記録が、本記録における最後の取得データである。
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補充記録 No.006
分類:地区単位・集団回収(夢境侵食型)
供給先:悲鳴蒸留所 第十二蒸留槽 および 因果律プレス工場 第七圧縮区画
備考:第22,04,779番世界線・当該地区における夢境侵食作戦、完了。
投入クルー:夢幻(担当:睡眠侵食・初期接触)
憧憬(担当:視認誘導・恐怖拡散)
回収結果:
地区住民・推定二千三百名のうち
死亡確認:百九十二名(悲鳴蒸留所へ)
意識回収(生存のまま):千八百七十一名(因果律プレス工場へ)
逃亡:二百三十七名
逃亡者のうち追跡中:二百三十七名
逃亡者のうち回収済み:〇名
逃亡者のうち回収不要と判断:〇名
「写真を見ただけで回収可能」という手法の有効性を確認。
視覚的接触の媒体として画像・映像が機能することを確認。
今後の作戦への応用を推奨。
「抵抗が少ない対象(年少者)の方が回収速度が速い」
という観測データを取得。
次回作戦では年少者密集地域を優先選定することを推奨。
逃亡した二百三十七名については追跡中。
追跡担当:憧憬(視認誘導の継続)
推定回収完了:九十日以内。
地区は消滅。
在庫切れ、なし。
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