第五十話「在庫にない人」
朝、
ミアの靴が消えた。
黄色い方。
昨夜、
ソフィが貸した片方。
ミアはベッド代わりにした長椅子の下を覗き込み、
机の脚を回り、
カーテンまでめくった。
「ない」
ソフィは自分の足を見る。
こちらも片方だけ。
「持ってったんじゃないの?」
「持ってない」
俺は床を見た。
昨日まで、
黄色い靴が歩いた跡だけ、
埃が薄く途切れていた。
途中で消えている。
扉の手前。
そこで、
足跡が終わっていた。
俺は端末を開いた。
【物品検索】
黄色い靴。
所有者:
ソフィ・フェルド。
数量:
2。
「二足あることになってる」
ソフィが俺の画面を覗く。
「一個しかないけど」
「二個だ」
「ないじゃん」
「記録上はな」
ミアが、
裸足で足跡の終点を踏んだ。
端末が鳴った。
【該当位置:空白】
「……空白?」
しゃがんで床へ触れる。
普通の床だ。
冷たい。
少し埃っぽい。
何もない。
だが、
指先に一瞬だけ、
革みたいな感触があった。
掴もうとする。
ない。
もう一度。
今度は、
靴紐が指へ引っかかった。
見えない。
「ここにある」
引く。
何かが床を擦った。
ずず、と音だけする。
ソフィが目を丸くした。
ミアが笑った。
「靴!」
見えない靴を、
履いた。
裸足だった片足が、
数センチ浮く。
存在しない靴底の厚み。
歩く。
こつ。
こつ。
音はする。
靴は見えない。
*
午後には、
人間が消え始めた。
石にはならない。
死にもしない。
ただ、
管理端末から消える。
最初は十九人。
次に百三人。
夕方には、
六百四十二人。
街では普通に歩いている。
喋る。
食べる。
眠る。
なのに、
人口表示には含まれない。
【総人口:15,981】
俺は数え直した。
昨日より減っている。
だが窓の外は、
むしろ人が多い。
旧人口。
補充人口。
そして、
第三の人間。
俺は一覧を開いた。
【未登録個体:0】
「ゼロ?」
すぐ横で、
誰かが咳をした。
振り向く。
男が立っていた。
「すみません」
施設の職員服。
見覚えはない。
「入館許可が通らなくて」
「名前は」
「ダニエル」
端末。
検索。
0件。
「フルネーム」
「ダニエル・クロウ」
0件。
「生年月日」
答える。
0件。
「住所」
答える。
その住所は存在する。
部屋もある。
家具もある。
冷蔵庫には食料。
洗面所に歯ブラシ。
ベッドには寝た跡。
だが、
住人はいない。
記録上は。
「昨日までは?」
「妻と暮らしてました」
「妻は?」
ダニエルは少し笑った。
「昨日、初めて会いました」
意味が分かった。
昨日までの妻を、
妻として選び直さなかった。
二人で、
新しく関係を作った。
その結果。
ダニエル・クロウは、
既存履歴ではない人間になった。
補充履歴でもない。
保存履歴でもない。
全部から外れた。
「奥さんは?」
「家にいます」
「名前は」
男の口が止まった。
「……あれ」
「名前」
「知ってます」
「言え」
額に皺。
唇だけ動く。
出ない。
男は、
急に顔を上げた。
「写真がある」
端末ではなく、
財布を出す。
写真。
男。
女。
二人とも、
笑っている。
裏。
何も書かれていない。
「昨日撮った」
そう言った。
俺は写真を持った。
女の顔を見ているのに、
目を逸らすと、
もう思い出せない。
*
「会わせろ」
家へ行った。
ドアは開いていた。
テーブルに、
カップが二つ。
一つから、
まだ湯気。
ダニエルが呼ぶ。
「いるか?」
奥から返事。
「いるよ」
女が出てきた。
その顔を、
見た。
瞬きをした。
顔が分からなくなった。
目の前にいる。
輪郭もある。
髪も。
口も。
なのに、
顔だけ記憶へ入らない。
もう一度見る。
分かる。
目を閉じる。
消える。
ダニエルが手を握る。
「この人です」
女が笑う。
「昨日から妻です」
妙な言い方だった。
「名前は?」
女は口を開いた。
止まる。
ダニエルを見る。
ダニエルも、
女を見る。
二人とも、
何も言えない。
それでも、
手は離さなかった。
端末。
【対象なし】
【関係なし】
【在庫なし】
俺は最後の表示だけ、
何度も見た。
在庫なし。
今まで一番怖かった言葉。
なのに、
二人はいる。
*
施設へ戻る。
ソフィが、
紙を増やしていた。
昨日の一枚だけではない。
壁。
机。
床。
《ミア》
《靴をくれた》
《ソフィ》
《パンを焦がした》
《Fry.G》
《朝から機嫌悪い》
「最後のいらないだろ」
「いる」
「消せ」
「やだ」
ミアが横で笑う。
「機嫌悪い」
「お前まで言うな」
その声で、
少しだけ肩の力が抜けた。
ソフィはペンを置く。
「こうしとけば忘れないでしょ」
俺は壁を見る。
数十枚。
記録ではない。
正式な履歴でもない。
ただの紙。
「名前が書けなくなる」
そう言うと、
ソフィの手が止まった。
「誰が?」
「新しい関係を作ったやつから」
ミアが自分の紙を見る。
《ミア》
文字はまだある。
「私、消える?」
「分からない」
ソフィがすぐ言った。
「じゃあ書く」
「何を」
「いっぱい」
壁へもう一枚。
《ミアは今日、砂糖を二個入れた》
ミア。
「三個」
「二個」
「三個」
「見てたから二個」
「三個!」
二人が言い合う。
俺は端末を見た。
【未登録個体:0】
壁を見る。
確実に、
二人いる。
*
その夜、
最初の事故が起きた。
救急車が来なかった。
正確には、
来られなかった。
道路上に倒れた男がいる。
通行人には見える。
血も出ている。
呼吸もある。
だが通報システムに、
患者が登録されない。
位置情報。
空白。
対象人数。
0。
救急要請。
取消。
俺たちは走った。
ミアが先に男の手を握った。
ソフィは、
道路の中央で両腕を広げた。
「車!」
タイヤが鳴る。
俺は男を抱え上げる。
重い。
確かに重い。
「これでもゼロかよ」
端末。
【搬送対象:0】
男が薄く目を開けた。
「俺……」
「喋るな」
「名前……」
言えない。
俺も聞かなかった。
施設まで運んだ。
診療設備は、
対象を認識しない。
ベッドの重量センサーだけが沈む。
心拍計は0。
体温計もエラー。
なのに、
男の胸は上下している。
ソフィが言った。
「紙」
ミアが走る。
紙。
ペン。
俺は男を見る。
「何でもいい。今日あったことを言え」
唇が動く。
「……犬」
「犬?」
「朝……犬に吠えられた」
書く。
《朝、犬に吠えられた》
「他」
「パン……落とした」
《パンを落とした》
「他」
男が、
少し笑った。
「知らない女の子が……助けた」
ソフィを見る。
書く。
《ソフィが車を止めた》
端末。
ぴ。
【新規関係を検出】
心拍計。
0。
一秒。
二秒。
73。
数字が出た。
ソフィが声を上げる。
「戻った!」
違う。
登録されたのだ。
今できた出来事によって。
*
俺は街の全端末へ、
一つだけ送った。
名前を書け。
ではない。
過去を書け。
でもない。
今日のことを書け。
誰と会った。
何を食べた。
転んだ。
喧嘩した。
笑った。
失敗した。
何でもいい。
今から作れ。
街中で、
紙が使われ始めた。
壁。
窓。
服。
道路。
手の甲。
レシート。
段ボール。
誰かが誰かを、
現在形で書く。
端末の数字が狂い始める。
【未登録個体:0】
【総人口:算定不能】
【在庫:算定不能】
初めて、
管理画面全体が赤くなった。
警告。
【在庫管理対象外の活動を検出】
【対象数:増加中】
その下。
【補充不可】
さらに。
【保存不可】
俺は笑った。
「それでいい」
ソフィが横から、
俺の紙へ勝手に書いた。
《Fry.G、今日笑った》
「余計なこと書くな」
「事実」
ミアが下へ付け足す。
《機嫌悪かった》
「消せ」
二人が逃げた。
追う。
施設の廊下を、
黄色い靴の音が二つ鳴る。
片方は見える。
片方は見えない。
それでも、
二つ。
────────────────────────────────
【補充記録 No.050】
分類:
新規状態・在庫管理離脱型
確認事項:
保存履歴、
補充履歴、
既存社会関係、
いずれにも由来しない状態は、
在庫管理上の識別対象とならない。
結果:
新規関係を一定以上蓄積した個体について、
人口、
戸籍、
医療、
交通、
住居、
人物検索、
その他管理系統からの脱落を確認。
当該現象を、
消失とは判定しない。
対象は存在する。
ただし、
在庫ではない。
対処として、
Fry.Gが非公式な現在記録を大量生成。
これにより、
複数個体について再識別を確認。
ただし、
同記録は過去の復元ではない。
新規生成された、
その時点以降の履歴である。
現在、
対象世界線の標準人口算定不能。
余剰人口算定不能。
不足人口算定不能。
在庫総数算定不能。
補充判定:
不能。
保存判定:
不能。
備考:
世界線管理系統より、
緊急照会。
【質問】
在庫ではないものを、
何と呼称するか。
回答:
未入力。
────────────────────────────────
夜。
ソフィとミアは、
同じ毛布を取り合っていた。
俺は新しい紙を一枚出した。
少し考えて、
書いた。
《いる》
それだけにした。




