第四十九話「余剰在庫」
悲鳴は、
一軒の家から聞こえた。
俺が着いた時、
玄関には靴が四足あった。
男物が二足。
女物が二足。
どちらも、
同じ大きさではない。
中では、
女が二人、
一人の少年の腕を引いていた。
「ママは私でしょ!」
「離して!」
少年は泣いていた。
右の女は三十代くらい。
左はもう少し若い。
顔は似ていない。
服も違う。
なのに、
壁の家族写真には、
右の女が写っていた。
冷蔵庫に貼られた絵には、
左の女の名前が書いてあった。
《ママ エリン》
「どっちが母親だ」
俺が聞いた。
二人が同時に、
「私です」
と言った。
少年がしゃくり上げた。
「分かんない」
その瞬間、
俺の端末が鳴った。
【重複関係を検出】
【母親:2】
【必要数:1】
嫌な表示だった。
「誰も選ぶな」
右の女が俺を見る。
「何を」
「いいから」
少年の肩を掴む。
「名前を呼ぶな。ママとも言うな」
左の女が怒鳴った。
「この子を怖がらせないで!」
「今は怖がらせた方がましだ」
端末。
【関係識別待機】
右の女が、
少年へ手を伸ばした。
「ルイ」
少年が、
反射的にそちらを見た。
ぴ。
短い電子音。
【識別成立】
【母親:エリン・ハース】
【余剰:1】
左の女の顔から、
色が消えた。
「え?」
指先。
爪。
手。
灰色が、
濡れた紙へ染みるように腕を上がる。
「待って」
俺は女の腕を掴んだ。
硬い。
皮膚の下から、
ざらついた石の感触が浮いてくる。
「私も」
女が少年を見る。
「私も、この子を産んだ」
少年が叫んだ。
「ママ!」
どちらへ向けたのか、
分からなかった。
だが、
もう遅かった。
女の口だけが、
最後まで動いた。
「覚えてるのに」
石になった。
床へ倒れる。
鈍い音。
少年の泣き声だけが、
やけに高く残った。
*
街中で、
同じことが始まっていた。
一つの会社に、
同じ役職が二人。
一つの部屋に、
住人が二人。
一人の老人を、
二人の娘が迎えに来る。
病院では、
同じ患者番号を持つ別人が、
同じベッドを奪い合っていた。
戸籍だけではない。
思い出まで競合している。
「昨日、一緒に夕飯食べた」
「私も食べた」
「誕生日にこれをもらった」
「私も持ってる」
証拠を出すたび、
端末が鳴る。
誰かが名前を呼ぶたび、
片方が石になる。
交差点の中央で、
男が二人、
互いの胸ぐらを掴んでいた。
「俺が本物だ!」
「俺だ!」
周囲の女が、
震えながら一人を指した。
「あなた」
ぴ。
もう一人の男が、
足元から固まった。
それを見た瞬間、
俺は走った。
「見るな!」
遅い。
通行人が振り向く。
見る。
区別する。
選ぶ。
ぴ。
ぴ。
ぴ。
あちこちから、
電子音が重なった。
*
旧観測施設。
端末を中央卓へ叩き置いた。
ソフィが後ろから入ってくる。
ミアもいた。
ミアは、
石から戻ってから裸足だった。
床の冷たさが嫌なのか、
金属部分を避けて歩く。
ソフィが自分の靴を片方脱いだ。
「これ履く?」
「片方だけ?」
「ないよりいいでしょ」
ミアは少し考え、
履いた。
黄色い靴。
ソフィは右足だけ靴下になった。
俺は端末から目を上げた。
「外に出るな」
「なんで」
「名前を呼ばれる」
ソフィの口元から、
さっきまでの笑いが消えた。
「私も?」
答えなかった。
管理画面。
【総人口:16,824】
【標準人口:8,412】
【余剰:8,412】
【自動棚卸し:進行中】
停止。
押す。
反応なし。
前に止めたのは補充。
これは補充後の処理だった。
画面下部。
【整理基準】
被観測量。
関係密度。
社会的参照数。
継続利用率。
「利用率?」
俺は声に出した。
その横で、
ソフィが端末を覗き込む。
「人を物みたいに」
「物なんだろ」
言ってから、
まずかったと思った。
ソフィは何も言わなかった。
ミアが、
片方だけの黄色い靴を見ている。
しばらくして、
ソフィが椅子を一つ引いた。
俺から離れた場所へ座った。
*
夕方。
整理率は十二%。
石になった数、
二千を超えた。
止める方法が一つだけあった。
【識別不能状態へ復帰】
全員が、
互いを認識できなくなればいい。
保存状態へ戻す。
石ころの世界へ。
誰も誰かを選ばない。
誰も誰かを失わない。
ただし、
誰も誰かを見つけられない。
俺は画面を見たまま、
指を置いた。
ミアが、
横から覗いた。
文字は読めないらしい。
「何するの」
「元に戻す」
「石に?」
「たぶん」
ミアは黙った。
ソフィは離れた椅子に座ったままだった。
「それなら」
顔を上げない。
「私はお父さんのこと忘れる?」
「……分からない」
「ミアも?」
「分からない」
「お父さんは?」
「俺は前は見えてた」
ソフィが笑った。
小さく。
「ずるい」
その一言で、
指が止まった。
正解かもしれない。
八千四百十二人を守れる。
そのために、
全員を再び石ころへ戻す。
安全だ。
保存できる。
誰も消えない。
誰も、
人間として生きられない。
*
ミアが突然、
施設の奥へ走った。
「おい」
追う。
裸足の片方が、
ぺた、ぺた、と床を打つ。
黄色い靴だけが、
一歩ごとに硬い音を混ぜる。
廊下。
食堂。
旧記録室。
ミアは、
床に積まれていた観測記録を引っ張り出した。
紙が散った。
「何してる」
答えない。
紙を一枚持つ。
そこには、
俺が以前記録した声。
《誰か》
別。
《ここにいる》
別。
《見えてる?》
ミアは自分の名前を探していた。
見つけた。
《ミア》
その紙を胸へ押しつける。
「これ、私」
「そうだ」
「これがあったから?」
俺は答えなかった。
ミアは紙を持って、
ソフィのところへ戻った。
そして、
何も書かれていない裏側を向けた。
「書いて」
「何を?」
「ソフィ」
ソフィが瞬きをした。
「私?」
ミアが頷く。
ソフィはペンを取った。
《ソフィ》
その下に、
少し迷って。
《靴をくれた》
端末が鳴った。
ぴ。
俺は身構えた。
だが、
誰も石にならなかった。
表示。
【新規関係を検出】
【既存枠との競合なし】
ソフィがミアを見る。
ミアも見る。
もう一度。
ぴ。
【関係数:1】
俺は画面を開いた。
保存人口と補充人口。
二つに分かれていた表の間に、
細い線が一本できていた。
ミア。
ソフィ。
これまで存在しなかった関係。
元の世界にもない。
補充された履歴にもない。
今、
二人が作ったもの。
*
俺は中央卓へ戻った。
【自動棚卸し:18%】
停止ボタンは効かない。
なら。
記録方式を変えた。
既存関係ではなく、
新規関係を優先。
エラー。
もう一度。
エラー。
三度目。
警告。
【既存保存形式との互換性なし】
「知るか」
承認。
【新規状態は補充対象外です】
指が止まった。
もう一度読んだ。
新しく作ったものは、
補充できない。
つまり、
重複しない。
「ソフィ」
少女が振り向く。
ぴ。
俺は歯を食いしばった。
端末。
【エリック・フェルド → ソフィ・フェルド】
【既存関係】
違う。
「ソフィ」
もう一度。
「俺はお前の父親かどうか分からない」
ソフィの顔が強張る。
「でも」
机を回り込む。
床に散った記録紙を踏まないように避けた。
「今日、お前がミアに靴を貸したのは見た」
端末。
ぴ。
【Fry.G → ソフィ】
【新規関係を検出】
ソフィの目から、
ぽろっと涙が落ちた。
「……それだけ?」
「今はな」
「少な」
それでも、
笑った。
*
夜。
街では、
知らない者同士が名前を聞き始めた。
昨日までの夫婦が、
初めて会ったみたいに話す。
二人いる店員が、
担当時間を分ける。
同じ家を持つ二家族が、
床にテープを引く。
うまくいかない場所もある。
殴り合いも。
石になる者も。
それでも、
棚卸し率は、
二十三%で止まった。
────────────────────────────────
【補充記録 No.049】
分類:
余剰在庫・社会関係競合型
初期余剰:
8,412。
整理方式:
既存関係による識別。
問題:
識別された一方を必要在庫、
非選択側を余剰在庫として処理。
余剰対象は保存形式へ再圧縮。
処理中、
未登録関係の大量発生を確認。
当該関係は、
保存済履歴に存在しない。
補充履歴にも存在しない。
したがって、
重複判定不能。
現在状態:
棚卸し停止。
理由:
標準在庫数を算定不能。
備考:
新規関係について、
補充可否を照会。
回答:
【補充不能】
理由:
【まだ失われていないため】
────────────────────────────────
夜明け前。
ミアは片方だけ黄色い靴を履いて眠っていた。
ソフィは、
もう片方を枕元に置いていた。
俺は二人の名前を、
新しい紙に書いた。
その下は、
まだ空けておいた。




