第四十八話「見られる側」
「エリック」
店の外から、
誰かがそう呼んだ。
俺は振り向かなかった。
Fry.Gではない。
知らない名前だった。
「エリック」
もう一度。
女の声。
近い。
自動ドアの向こうに、
一人の少女が立っていた。
見える。
石じゃない。
輪郭でもない。
顔がある。
髪がある。
汚れた黄色い上着。
片方だけ靴紐がほどけている。
俺を見ると、
泣きそうな顔になった。
「やっと見つけた」
俺は、
抱えていたミアの石を少し強く抱いた。
「誰だ」
少女の顔が止まった。
「……何言ってるの?」
「俺を知ってるのか」
「知ってるよ」
一歩近づく。
「お父さん」
背後で、
レジが鳴った。
*
「違う」
俺は言った。
少女は、
何も答えなかった。
その沈黙が、
妙に痛かった。
俺には子どもはいない。
少なくとも、
覚えていない。
少女がポケットから写真を出した。
三人。
少女。
知らない女。
そして、
俺。
写真の俺は、
今より少し太っていた。
笑っている。
裏面。
《エリック、リナ、ソフィ》
俺は写真を返した。
「加工だ」
「何が?」
「俺はFry.Gだ」
少女。
ソフィは、
写真を胸へ抱いた。
「それ、仕事の名前でしょ」
店の外に、
別の足音。
男が一人。
老婆が一人。
小さな男の子。
みんな見える。
男が俺を見て言った。
「主任」
老婆。
「先生」
少年。
「お兄ちゃん」
さらに来る。
十人。
五十人。
百人。
全員、
俺を知っている。
全員、
違う呼び方をした。
*
管理端末を開いた。
【観測対象補充:開始】
【不足項目:被観測関係】
意味を確認する暇はなかった。
ソフィが俺の袖を引く。
「帰ろ」
「どこへ」
「家」
「俺の家は観測施設だ」
「違う」
初めて、
強く言った。
「昨日も帰ってきたじゃん」
端末。
【エリック・フェルド】
年齢:41。
職業:保険調査員。
配偶者:リナ・フェルド。
子:ソフィ・フェルド。
俺は39歳だ。
次。
【エリック・フェルド】
年齢:67。
元大学教員。
次。
【エリック】
年齢:24。
兄。
次。
【主任F.G】
年齢:39。
世界線観測員。
それだけが、
俺の知っている俺だった。
ただし。
写真がない。
家族なし。
出生記録なし。
学歴なし。
観測施設へ配属される以前の履歴、
空白。
俺は画面を閉じた。
ソフィが言った。
「ねえ」
「なんだ」
「私のこと、本当に分からない?」
「……分からない」
少女は泣かなかった。
代わりに、
ほどけていた靴紐を結び直した。
それから言った。
「じゃあ、思い出すまで一緒にいる」
*
二十四日目。
街に人が戻った。
そう見えた。
昨日まで石ころだった道に、
人間が歩いている。
母親が子どもの手を引いている。
会社員が電話をしている。
犬の散歩。
買い物袋。
笑い声。
俺は走った。
「戻ったのか」
石がない。
人がいる。
人が、
互いを見ている。
ぶつかれば謝る。
名前を呼ぶ。
笑う。
俺は、
久しぶりに街の喧騒を聞いた。
ソフィが隣で、
アイスを食べていた。
「だから言ったじゃん」
「何を」
「みんないるって」
その時は、
少しだけ、
信じた。
*
公園のベンチ。
老人が鳩へパンを投げている。
昨日、
そこには石があった。
声を記録した。
《妻を待ってる》
俺は老人へ近づいた。
「奥さんは?」
老人が笑った。
「独身ですよ」
喉が乾いた。
駅前。
若い女性。
昨日の記録。
《子ども迎えに行かなきゃ》
「子どもは?」
「いませんけど」
住宅街。
あの家。
母親を呼んでいた子ども。
玄関の前に、
若い夫婦がいた。
子どもはいない。
俺は端末を開く。
記録が書き換わっていた。
八千四百十二件。
全部、
別人。
声も違う。
名前も違う。
人生も違う。
人間は戻っていなかった。
補充されていた。
*
走った。
店へ。
ミアを置いてきた。
カウンター。
菌糸の店員。
その奥に、
石がある。
「ミア」
亀裂。
小さな声。
「……いる」
まだいた。
俺は石を抱き上げた。
「よかった」
それだけ言った。
その時、
ソフィが店へ入ってきた。
息を切らしている。
「急に走らないでよ!」
俺は振り向く。
「お前は誰だ」
「またそれ?」
「本当に答えろ」
「ソフィ」
「誰の?」
怒った顔。
「お父さんの娘!」
「その父親はいつからいる」
「何言ってるの」
「生まれた時からか」
「当たり前でしょ!」
「俺が生まれた時は?」
ソフィが止まった。
「……え?」
「俺はどこで生まれた」
答えない。
「母親の名前は」
答えない。
「俺の子どもの頃の話をしてみろ」
ソフィの口が開いた。
閉じた。
また開いた。
「お父さんは……」
声が震えた。
「お父さんは、私のお父さんだよ」
それしか、
出てこなかった。
*
端末が鳴る。
【補充進捗:61%】
【被観測者:正常化中】
【人物関係:補充中】
【過去履歴:補充中】
街の人間が増えていく。
石の声が、
減っていく。
一人補充されるたび、
一つ消える。
俺はミアを抱えた。
「止めるぞ」
ソフィが袖を掴む。
「待って」
「離せ」
「止めたらどうなるの」
「知らない」
「私も消える?」
答えられなかった。
ソフィは、
袖を離さなかった。
「私、お父さんの偽物なの?」
「分からない」
「じゃあ」
涙が落ちた。
「分からないまま助けてよ」
端末。
【進捗:72%】
窓の外で、
誰かが笑う。
その足元から、
小さな石の声。
「ここにいる」
補充された男は、
気づかず踏んだ。
俺は端末を床へ置いた。
電源を切ろうとする。
反応なし。
叩く。
反応なし。
ソフィが、
横から端末を奪った。
「これ?」
補充停止。
赤いボタン。
俺が見落としていた。
「押すな」
自分でも驚いた。
ソフィの指が止まる。
「なんで」
押せば止まる。
たぶん。
そして、
ソフィも消えるかもしれない。
目の前にいる。
泣いている。
俺を父親と呼ぶ。
記憶は偽物かもしれない。
人生は後から追加されたのかもしれない。
それでも、
今はいる。
ミアの石から、
小さな声。
「……Fry」
ソフィ。
「お父さん」
二つの名前。
俺は、
ソフィの手ごと、
ボタンを押した。
*
街から、
音が消えた。
一秒。
二秒。
誰も消えなかった。
ソフィもいる。
補充された人々もいる。
石もある。
端末だけが、
表示を変えた。
【観測対象補充:中断】
【補充済対象:保持】
【未補充対象:保持】
俺は笑った。
「雑だな」
ソフィが鼻をすすった。
「何が」
「どっちも残した」
「いいじゃん」
「よくねえよ」
「私はいい」
妙に即答だった。
その時、
ミアの石が割れた。
今度は、
手だけではなかった。
肩。
顔。
黒い髪。
幼い女の子が、
石の中から転がり出た。
咳をした。
床へ手をつく。
俺を見る。
次に、
ソフィを見る。
「……誰?」
ソフィは、
しゃがんだ。
「ソフィ」
ミアは少し考えた。
「私はミア」
二人が、
握手した。
その瞬間。
端末に、
新しい表示。
【同一座標に二つの人口を検出】
俺は画面を見た。
数字が二段あった。
【保存人口:8,412】
【補充人口:8,412】
合計。
16,824。
そして、
街のあちこちで、
石が割れ始めた。
────────────────────────────────
【補充記録 No.048】
分類:
観測対象・関係履歴補充型
対象:
No.046世界線
処理目的:
石ころとして保存された対象群に対し、
「人間として観測可能な対象」を補充。
処理結果:
補充対象は、
保存対象の復元ではなく、
それぞれ独立した人物履歴を持つ新規個体として生成。
元保存対象:
維持。
補充個体:
維持。
処理中断により、
双方が同時存在状態へ移行。
例外個体:
ソフィ・フェルド。
補充履歴上、
Fry.Gを父親として登録。
Fry.G側に対応記憶なし。
ただし、
補充中断時、
Fry.G自身の判断により保存対象から除外されず。
追加例外:
ミア。
石ころ保存状態より、
自発的人型復帰を確認。
現在人口:
保存人口 8,412。
補充人口 8,412。
重複判定:
不能。
備考:
今回初めて、
「補充された存在を廃棄せず、
元の存在も回復させる」
状態が発生。
在庫管理上、
不足は解消された。
ただし、
在庫数は二倍となった。
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翌朝。
ソフィが、
俺の隣で眠っていた。
ミアは床で丸くなっていた。
俺は二人分の毛布を掛けた。
窓の外では、
昨日まで一人だった人間たちが、
二人ずつ歩いていた。
片方は、
もう片方を見ていた。
そして、
街のどこかで、
最初の悲鳴が上がった。




