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第四十六話「石ころの向こう側」


最初に、人がいなくなったと思った。


それが間違いだった。


人はいる。


いるのに、見えない。


もっと正確に言えば、


互いに、相手を「人間として認識できない」。


その世界で、俺だけがまだ、


人のいる場所と、


人のいない場所を、


区別できた。





俺の名前は、


Fry.G。


少なくとも、記録端末にはそう表示されている。


本名だったのか。


職員番号だったのか。


研究用の識別子だったのか。


今となっては分からない。


以前は世界線観測業務に就いていた。


「以前」という言葉も怪しい。


何日前まで仕事をしていたのか、


今日が何日なのか、


そもそも「今日」という単位がまだ有効なのか。


端末には日付が表示されている。


だから、それを使っている。


それだけだ。





観測開始一日目。


朝。


街を歩いた。


車が走っていた。


運転席には誰もいない。


最初は自動運転だと思った。


違った。


ハンドルが動く。


ウインカーが出る。


信号が赤になると止まる。


交差点を曲がる時、


運転席の座面が人間一人分沈んでいる。


誰かが運転している。


見えない。


その車の横を、


別の車が通った。


二台の運転手は、


互いに相手が無人車だと思っているらしかった。


クラクションが鳴った。


「危ねえだろ!」


声がした。


別の車から、


「誰だよ!」


という声が返った。


二人ともいる。


二人とも相手が見えない。


信号が青になった。


二台とも走っていった。





駅へ行った。


改札が開いた。


誰もいない。


なのに、


十数個の改札が同時に反応していた。


電子音。


電子音。


電子音。


人間が通過している。


ホームへ下りた。


電車が来た。


車内には誰もいなかった。


乗った。


座ろうとした。


座れなかった。


何かがいた。


「すみません」


と言った。


返事はなかった。


別の席へ行った。


そこにも何かがいた。


車内は、


ほぼ満員だった。


見えない人間で。


吊り革が揺れている。


新聞が宙に浮いている。


スマートフォンの画面だけが移動している。


イヤホンから音漏れがする。


咳払い。


鼻をすする音。


衣擦れ。


誰かが眠っている寝息。


全部ある。


人だけがない。





俺は試しに言った。


「誰か聞こえるか」


反応はなかった。


もう一度。


「俺が見える人、いるか」


車内のどこかで、


小さく、


「……何?」


という声がした。


振り向いた。


誰もいない。


「聞こえたのか?」


返事はなかった。


俺が聞いた声の持ち主も、


自分が誰に返事をしたのか分からなかったのかもしれない。


次の駅で、


大量の足音が降りた。


人影は一つもなかった。





観測開始三日目。


スーパーへ行った。


商品が減っていた。


レジは動いていた。


無人レジではない。


有人レジだった。


バーコードを読み取る音。


袋を開く音。


「二千四百八十七円です」


店員の声。


客の声。


「カードで」


二人とも見えない。


たぶん、


互いにも見えていない。


それでも商売が続いている。


習慣だけで。


人間関係が壊れた後も、


生活の形だけが動いている。


それを見て、


少し気持ち悪くなった。





観測開始五日目。


住宅街。


一軒の家の前で、


子どもの泣き声を聞いた。


「お母さん」


何度も呼んでいる。


家の中から、


女性の声がした。


「誰?」


子どもが泣いた。


「僕だよ」


「誰なの?」


「お母さん」


「怖いからやめて」


玄関の向こうに、


二人ともいる。


俺には、


輪郭だけ見えた。


人間というより、


空気の密度が少し違う。


それだけ。


子どもの輪郭が、


玄関へ近づいた。


「僕だよ」


母親らしい輪郭が後退した。


「来ないで」


子どもが止まった。


その後、


しばらく何も言わなかった。


俺は記録した。


助けようとはしなかった。


何をすれば助けられるのか分からなかった。





観測開始七日目。


道端に石が増えていることに気づいた。


最初は瓦礫だと思った。


建物は壊れていない。


道路も壊れていない。


なのに、


石だけが増えている。


灰色。


茶色。


白。


黒。


大きいもの。


小さいもの。


歩道。


公園。


駅。


建物の中。


机の下。


椅子の上。


病院のベッドにもあった。


奇妙だった。


一つ拾った。


温かかった。


耳に当てた。


音がした。


ごく小さい。


振動。


石の内部から。


人間の声に似ていた。


「……まだ」


そう聞こえた。


落とした。


石は道路を少し転がって、


止まった。





観測開始九日目。


石の音を録音した。


増幅した。


ノイズを除去した。


人間の声になった。


一つ目。


「今日、会社行かなきゃ」


二つ目。


「誰もいない」


三つ目。


「お腹すいた」


四つ目。


「聞こえてる?」


五つ目。


「ここにいる」


六つ目。


「誰か」


七つ目。


「誰か」


八つ目。


「誰か」


九つ目。


「誰か」


以降、


百七十三個まで同じだった。





人間が石になった。


そう考えた。


だが、


すぐに違うと思った。


石を解剖した。


内部は普通の鉱物だった。


生体組織はない。


DNAもない。


脳もない。


なのに、


声がする。


それに、


石が存在しない場所からも人間の呼吸音は聞こえる。


つまり、


人間が石に変わったわけではない。


おそらく逆だ。


人間が、石ころと同程度の認識優先度まで落ちた。


道端に石がある。


誰もいちいち見る必要はない。


名前を付けない。


覚えない。


昨日そこにあったか確認しない。


なくなっても気づかない。


世界が人間を、


その程度の存在として処理し始めている。





観測開始十二日目。


旧観測施設へ戻った。


職員は誰もいなかった。


正確には、


誰も見えなかった。


端末は動いていた。


ログインした。


職員総数。


0名。


生体反応。


214名。


二つの数値が同時に表示されている。


正常判定。


エラーなし。


食堂へ行った。


二百人分近い食事が減っている。


給湯室。


カップが浮いた。


コーヒーが注がれた。


一口分減った。


カップが机へ戻った。


誰かがいる。


「誰だ」


返事なし。


「俺が分かるか」


少しして、


机の向こうから声がした。


「……そこに誰かいるのか?」


俺は答えた。


「いる」


長い沈黙。


「俺もいる」


声が震えていた。


俺は机を回り込んだ。


何も見えない。


「名前は?」


「……」


「名前」


「思い出せない」


「職員か?」


「たぶん」


「俺はFry.G」


「そうか」


「お前は?」


しばらくして、


そいつは言った。


「誰でもいい」


それが、


その職員と交わした最後の会話だった。


翌日、


同じ場所へ行った。


声はなかった。


机の下に、


新しい石が一つ増えていた。





観測開始十五日目。


世界線管理端末にアクセスした。


異常だった。


通常、


世界線には識別番号がある。


発生。


分岐。


侵食。


崩壊。


回収。


保存。


各段階が記録される。


この世界線にも記録があった。


しかし、


途中から消えていた。


人口。


不明。


国家数。


不明。


文明レベル。


不明。


観測対象。


不明。


世界線座標。


不明。


そして、


最下部にだけ、


見慣れない表示があった。


> 補充判定:不要




俺は画面を見た。


意味が分からなかった。


もう一度読み込んだ。


同じ。


> 補充判定:不要




これまでの記録では、


都市が消えれば都市を補充する。


人間が消えれば人間を補充する。


記憶が失われれば記憶を回収する。


世界線が崩壊すれば、


保持可能な形式へ圧縮する。


それが補充だ。


だから、


世界中の人間が認識不能になっているなら、


最大級の補充対象になるはずだった。


なのに。


不要。





ログの詳細を開いた。


一行だけ残っていた。


> 欠損を検出せず。




俺は笑った。


声が出た。


こんな世界のどこに、


欠損がない。


人間は互いを見失っている。


家族は家族を忘れた。


名前は意味を失っている。


文明は習慣だけで動いている。


それなのに、


欠損なし。


端末を殴った。


画面が揺れた。


表示は変わらない。


> 欠損を検出せず。







観測開始十六日目。


理由が分かった。


いや、


仮説に過ぎない。


だが、


これ以外に説明できない。


人間は消えていない。


全員いる。


認識されていないだけだ。


記録から消えても、


呼吸している。


歩いている。


食べている。


泣いている。


石ころとして扱われても、


存在そのものは失われていない。


だから、


補充するものがない。


このシステムは、人間を「人間の形」で保存する必要がない。


存在してさえいればいい。


見えなくても。


名前がなくても。


他人と触れ合えなくても。


誰にも覚えられなくても。


変化できなくても。


そこに情報として残っているなら、


在庫はある。





俺は、


初めて「在庫切れ、なし」という言葉が怖くなった。


今までも怖かった。


だが意味が違った。


在庫切れがないということは、


いくらでも補充対象がいるという意味だと思っていた。


違う。


もしかすると。


補充する必要すらない状態まで加工されれば、それも「在庫切れ、なし」なのだ。





観測開始二十日目。


旧市街へ向かった。


そこで、


店を見つけた。


最初は普通のファストフード店に見えた。


ただし、


看板の文字が読めなかった。


読めないというより、


見るたび違った。


M。


P。


何かの顔。


またM。


入口には、


白いキノコが生えていた。


一本ではない。


壁。


屋根。


窓。


看板。


無数に。


キノコは、


建物の形を真似しているように見えた。


近づく。


自動ドアが開いた。


店内には、


誰もいなかった。


カウンターの奥に、


人型のものが立っていた。


制服。


帽子。


笑顔。


だが、


顔の表面から細い菌糸が伸びていた。


目の縁。


口角。


耳。


首。


白い糸が壁へ続いている。


人間ではない。


人間のふりをしている。


俺を見ると、


そいつは言った。


「いらっしゃいませ」


声だけは自然だった。


俺は動かなかった。


「ご注文は?」


カウンターのメニューを見る。


商品画像は全部、


石ころだった。


一番上。


文字が読めた。


石ころバーガー


その下に、


小さく書かれていた。


> 補充不要







「これは何だ」


俺は聞いた。


店員らしきものは笑っていた。


「商品です」


「誰が作った」


「商品です」


「この世界で何が起きた」


「商品です」


「人間はどこにいる」


「商品です」


同じ答え。


口の中から、


白い胞子が少し落ちた。


床に落ちた胞子から、


小さなM字型の菌糸が伸びた。


俺は後退した。


店員は笑顔のまま言った。


「在庫はございます」


「どこに」


「ございます」


「どこだ」


店員は、


窓の外を指した。


道路。


公園。


ビル。


車。


そして、


無数の石。


「すべて」


と言った。





その時、


店の外から声がした。


「聞こえる?」


俺は振り向いた。


石ころ。


「ここにいる」


別の石。


「見えない」


別。


「助けて」


別。


「誰か」


別。


「俺は人間だ」


別。


「私はここにいる」


一斉に。


街中から。


数百。


数千。


もっと。


声が重なった。


道路が鳴った。


建物が鳴った。


地面が鳴った。


世界全体が、


低い人間の声で震えていた。


店員だけが、


笑っていた。


「在庫切れ、なし」


と言った。





俺は走った。


旧観測施設へ戻った。


記録端末を起動した。


世界線管理画面。


> 補充判定:不要




その下に、


新しい項目が増えていた。


> 保存状態:継続中




俺は手を止めた。


保存。


この世界は、


滅びているのではない。


まだ保存されている途中なのかもしれない。


人間が、


人間として変化できる状態から。


石ころのように、


ただ「在る」状態へ。





その時、


別のログが自動で開いた。


作成者欄。


空欄。


受信元。


不明。


本文。


一行。


> 観測者一名を確認。




俺は画面を見た。


更新。


> 観測者が存在するため、保存処理を完了できません。




更新。


> 例外個体を識別。




更新。


> Fry.G




俺は椅子から立った。


誰かが、


俺を見ている。


この世界で、


俺だけが他者を見ていると思っていた。


違った。


俺もまた、見られている。





画面が更新された。


> 対象世界線:保存率 99.999999%




> 未処理項目:1




> 項目名:観測




> 補充判定:




数秒、


空欄。


そして。


> 不要




俺は笑った。


「俺までかよ」


返事はない。


だが、


画面の向こうで何かが動いた気がした。





その日から、


俺は記録を残すことにした。


理由は単純だ。


俺が見ている間だけ、


あの声は、


石ころの音ではなく、


人間の声として存在できる。


俺が、


「あそこに人がいる」と思っている限り、


少なくとも一人は、


それを人間として認識している。


なら、


見る。


記録する。


誰がいたか分からなくても。


名前が分からなくても。


顔が見えなくても。


「いた」と書く。


それだけはできる。





観測開始二十一日目。


今日も、


石ころの声を記録した。


八千四百十二件。


昨日より増えた。


新しい声が一つあった。


「見えてる?」


俺は答えた。


「見えてる」


本当は見えていない。


それでも答えた。


少しして。


石の中から、


小さく、


「よかった」


と聞こえた。





────────────────────────────────


補充記録 No.046


分類:世界線単位・存在認識欠損型


対象世界線:識別不能

推定人口:算定不能

物理的死亡数:確認不能

存在反応:継続

社会活動:継続

相互認識:ほぼ消失

保存工程:99.999999%


補充対象:


なし


補充不能ではない。


欠損していない。


対象世界線に存在した人間・文明・記憶・生活活動は、 認識可能性を喪失した状態で現在も保存されている。


したがって、


新規補充の必要なし。


未処理例外:


観測者 Fry.G 一個体。


当該個体が観測を継続する限り、 対象世界線は「完全保存状態」へ移行できない。


処理方針:


未定。


観測価値が高いため、 現時点では処理を留保する。


備考:


当該世界線より取得された保持核候補に、 以下の感情成分を検出。


> 「忘れられたくない」




感情保有者:


不明。


当該感情を保持していた個体の記録は存在しない。


ただし、


感情そのものは保存済み。





補充判定


不要。


在庫状態


在庫切れ、なし。


────────────────────────────────


記録終了後、


管理端末に存在しないはずの追記が一行だけ発生。


> 観測者がいる限り、石ころはまだ石ころではない。




追記者:


Fry.G


本人による入力記録:


なし。


そして次の瞬間、


世界線保存率が、


99.999999%から、


99.999998%へ低下した。


初めてだった。


保存が、


わずかに後退した。


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