第三十八話「ゴールデンルール」
視点:マルク・シュナイダー、47歳。元・食品メーカー官能評価主任。現在:nの次元・パンデモニウム味覚基準局、第零官能評価室。
最初に教えられたのは、
「おいしいものを作るな」
だった。
マルクは、その言葉の意味が分からなかった。
彼は食品会社で二十三年間、味を評価してきた。
塩味。
甘味。
酸味。
苦味。
旨味。
香り。
温度。
食感。
後味。
それらを数値化して、商品開発部へ返す。
おいしい商品を作る。
それが仕事だった。
だから、パンデモニウム味覚基準局に連れてこられた初日、白衣の女からそう言われた時、最初は冗談だと思った。
「おいしいものを作ってはいけない?」
「はい」
「では、何を作るんですか」
女は答えた。
「おいしくなるものです」
意味が分からなかった。
「同じでは?」
「違います」
女は机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、金色の文字で一行だけ書かれていた。
M社おいしさのゴールデンルール
その下に、規定があった。
マルクは読んだ。
第一条。
食べた瞬間に完成してはならない。
第二条。
食べ終わった後に、次を欲しがらなければならない。
第三条。
次を欲しがる理由は、味であってはならない。
マルクは顔を上げた。
「……意味が分かりません」
女は微笑んだ。
「それで正常です」
「これは味覚規定なんですか?」
「違います」
「では?」
「宇宙規定です」
女は紙を裏返した。
裏には、さらに一行あった。
第四条。おいしさは、食べた者の外側に残ってはならない。
マルクは、その意味を考えた。
女が言った。
「評価を始めます」
目の前にハンバーガーが置かれた。
普通のバーガーだった。
バンズ。
パティ。
チーズ。
レタス。
ソース。
見た目は普通だった。
マルクは匂いを嗅いだ。
普通。
温度も普通。
重量も普通。
「食べてください」
マルクは一口食べた。
おいしかった。
非常においしかった。
肉の旨味。
チーズの塩気。
ソースの酸味。
レタスの水分。
パンの甘さ。
全部が適切だった。
マルクは評価用端末に入力した。
【第一印象:非常に良好】
【味覚統合:98.2】
【食感:97.9】
【香気:96.4】
【総合:97.8】
女が聞いた。
「もう一度食べたいですか?」
「はい」
「なぜ?」
「おいしかったから」
女は首を横に振った。
「不合格です」
マルクは驚いた。
「なぜです?」
「第三条」
女が紙を指差した。
「次を欲しがる理由は、味であってはならない」
「では、何で欲しがるんですか」
女は答えた。
「記憶です」
マルクは黙った。
次のバーガーが来た。
見た目は同じだった。
食べた。
味もほぼ同じだった。
だが、一口目の瞬間、
マルクは母親の台所を思い出した。
子どもの頃。
雨の日。
学校から帰ると、母親が台所に立っていた。
古いラジオが鳴っていた。
鍋から湯気が出ていた。
母親が振り返って、
「おかえり」
と言った。
マルクは咀嚼を止めた。
目の奥が熱くなった。
「……これは」
女が聞いた。
「もう一度食べたいですか?」
「はい」
「なぜ?」
マルクは答えた。
「母に会いたいから」
女が微笑んだ。
「合格です」
マルクはバーガーを見た。
「この味に、母の記憶が入っているんですか」
「いいえ」
「では、なぜ?」
「入れたのではありません」
女は答えた。
「取り出したのです」
マルクは意味を理解できなかった。
味覚基準局の地下には、巨大な施設があった。
そこには何百万もの透明なタンクが並んでいた。
タンクの中には人間がいた。
眠っている者。
起きている者。
泣いている者。
笑っている者。
全員、管につながれていた。
管の中を流れていたのは血液ではなかった。
記憶だった。
青い記憶。
黄色い記憶。
赤い記憶。
透明な記憶。
色ごとに分けられていた。
マルクは近くのタンクを見た。
中には老人がいた。
胸に、
【幼少期・母親との記憶】
というラベルが貼られていた。
別のタンク。
【初恋】
別のタンク。
【家族旅行】
別のタンク。
【最後に聞いた「おかえり」】
マルクは女を見た。
「これをバーガーに?」
「はい」
「記憶を?」
「はい」
「人間から?」
「正確には、人生からです」
女は訂正した。
「人間そのものは必要ありません」
マルクは胃が冷たくなるのを感じた。
「では、ゴールデンルールとは?」
女は地下施設を見渡した。
「簡単です」
「おいしさを味覚だけで完結させない」
「人間の人生まで食べさせる」
マルクは黙った。
女は続けた。
「味だけなら、食事は食べ終われば終わります」
「でも記憶を食べれば?」
「食べ終わっても終わりません」
「もう一度食べたくなる」
「違います」
女は微笑んだ。
「もう一度、人生を食べたくなるのです」
その言葉と同時に、地下施設の奥で機械が動いた。
一つのタンクが開いた。
中から男が出てきた。
五十代。
意識がある。
マルクを見た。
「あなたは誰ですか」
マルクは答えられなかった。
男は自分の腕を見た。
「私は……何をしていた?」
女が端末を操作した。
男の胸に表示が出た。
【人生残量:12%】
男は震えた。
「何ですか、これ」
女は説明した。
「あなたの人生です」
「返してください」
「できません」
「なぜ」
「もうバーガーになっています」
男は笑った。
理解できない笑いだった。
「何を言っているんだ」
女はマルクに言った。
「この方は先ほどのバーガーの原材料です」
マルクは男を見た。
「……この人が?」
「はい」
「どの部分が?」
「全部です」
男が叫んだ。
「やめろ!」
女は何も反応しなかった。
男の胸から光が抜けた。
一つ。
また一つ。
記憶が球体になって浮かんだ。
【娘の誕生日】
【初めて自転車に乗った日】
【妻と出会った駅】
【父親の葬式】
【最後に食べた朝食】
球体がベルトコンベアへ流れた。
男は一つずつ忘れていった。
「娘……」
二つ目。
「娘の……」
三つ目。
「私は……」
四つ目。
「誰だ?」
最後に、
「お腹が……」
と言った。
マルクが見た。
男の腹部が空洞になっていた。
その空洞から、一つのバーガーが出てきた。
湯気が立っていた。
女がそれを持ち上げた。
「完成です」
マルクは吐き気を覚えた。
女は言った。
「これがゴールデンルールです」
「……どこが黄金なんですか」
女は答えなかった。
翌日。
マルクは評価室に戻った。
新しいバーガーが置かれていた。
一口食べた。
涙が出た。
知らない記憶だった。
知らない女性。
知らない子ども。
知らない家。
知らない犬。
知らない人生。
なのに懐かしい。
マルクは震えた。
「これは……誰の記憶ですか」
女は答えた。
「あなたのです」
「違う」
「そう思いますか?」
マルクは自分の手を見た。
爪。
指。
皺。
見覚えのある手。
だが、何かが足りない。
「私には子どもはいません」
女は端末を見た。
「そうです」
「結婚もしていません」
「そうですね」
「では、なぜ私はこの子を知っている?」
女が答えた。
「あなたが忘れたからです」
マルクは立ち上がった。
「私は何を忘れた?」
女は答えた。
「全部です」
その瞬間、評価室の壁が透明になった。
向こう側に巨大な工場が見えた。
無数の人間が歯車になっていた。
巨大な圧縮機が回っていた。
その隣で、永久社員たちが書類を処理していた。
さらに奥。
魂が巨大な発電槽に詰め込まれていた。
そして最も奥。
パンデモニウムの厨房。
そこでは、無数のバーガーが作られていた。
一つ。
また一つ。
すべて違う。
すべて同じ。
マルクは気づいた。
「……全部、同じ味がする」
女が言った。
「いいえ」
「違うのか?」
「全部、違います」
「ではなぜ?」
女は笑った。
「食べる人が違うからです」
マルクは理解した。
バーガーそのものが味を持っているのではない。
食べる人間の人生が、
「おいしい」という感覚に変換されている。
つまり、
M社にとって最高の食材は、
肉でも野菜でもない。
人間が「おいしい」と感じる理由そのものだった。
その時、警報が鳴った。
【異常味覚発生】
【対象:マルク・シュナイダー】
【原因:評価者による味覚認識】
マルクは端末を見た。
「私が?」
女が初めて慌てた。
「食べないでください」
「え?」
「今すぐ、そのバーガーを置いてください」
マルクはバーガーを見た。
もう一口食べた。
女が叫んだ。
「やめて!」
マルクは咀嚼した。
すると、工場全体が震えた。
タンクが割れた。
記憶が噴き出した。
数百万。
数千万。
数億。
人間たちの人生が、一斉に外へ流れ出した。
マルクの頭の中に入ってくる。
知らない人の母親。
知らない人の子ども。
知らない人の初恋。
知らない人の死。
知らない人の幸福。
知らない人の後悔。
すべてが一つになった。
マルクは叫んだ。
そして、
笑った。
「……おいしい」
女が震えた。
「何をしたんですか」
マルクは答えた。
「分かった」
「何が?」
「ゴールデンルールの本当の意味が」
女は動けなかった。
マルクは笑っていた。
「おいしいものを作ってはいけない」
「そうじゃない」
「おいしさを、食べ物の中に入れてはいけない」
「……」
「食べる人間の中に残しておく」
女の顔から血の気が引いた。
マルクは続けた。
「そうすれば、食べ物を食べ終わっても、まだおいしい」
「記憶が残るから」
「違う」
マルクは首を振った。
「記憶が残るんじゃない」
「記憶がなくなるから、おいしいんだ」
女が後ずさった。
マルクは笑った。
「人間は、自分が何を失ったのか分からない時に、一番強く欲しがる」
「だから……」
「だからM社は、記憶を全部消す」
女は何も言えなかった。
マルクは自分の頭を指差した。
「食べた人間から、食べた理由を抜く」
「すると、人間はもう一度食べる」
「なぜ食べたいのか分からないまま」
「ただ、おいしいと思って」
「そしてまた食べる」
「また記憶が減る」
「また食べる」
「永遠に」
女は小さく呟いた。
「それが……」
マルクが答えた。
「ゴールデンルール」
その瞬間、
マルクの記憶が全部消えた。
翌朝。
新しい評価員が部屋に入った。
机の上にはバーガーが一つ。
評価員は食べた。
「おいしい」
担当者が聞いた。
「なぜ?」
評価員は答えられなかった。
分からない。
でも、もう一口食べた。
その瞬間、評価員の端末に表示された。
【評価:100】
【再注文率:100】
【記憶保持率:0】
【依存理由:不明】
【おいしさ:完全】
そして画面の下に、
新しい規定が追加されていた。
第五条。
「おいしい」と感じた理由を、食べた者に理解させてはならない。
その規定が追加された瞬間、
パンデモニウム全域の厨房で、
一斉に調理が始まった。
────────────────────────────────
【補充記録 No.038】
分類:味覚基準・記憶消費型
対象:マルク・シュナイダー
旧職:食品メーカー官能評価主任
現職:パンデモニウム味覚基準局・第零官能評価室
処理結果:
成功。
対象は「おいしさ」のゴールデンルールを完全理解。
理解後、理解そのものを素材として回収。
対象の人生23年分を記憶抽出。
抽出された記憶:
母親
初恋
仕事
食事
旅行
結婚しなかった人生
存在しなかった子ども
存在しなかった家族
存在しなかった幸福
全て味覚結晶化。
その後、対象を味覚評価用永久労働者として登録。
現在の業務:
新規バーガーを試食し、
「なぜおいしいのか」を説明すること。
ただし説明できた場合、
説明した記憶を直ちに回収する。
したがって対象は、
毎日「おいしい理由」を理解する。
毎日、それを忘れる。
翌日、再び理解する。
再び忘れる。
この工程は、
対象の寿命を消費しない。
永久稼働可能。
備考:
第零官能評価室における
「おいしさ」の定義を更新。
旧定義:
食べ物が人間に与える快楽。
新定義:
人間から奪った人生を、
人間自身に「おいしい」と誤認させる現象。
ゴールデンルール第五条を追加。
なお、第五条追加以前にも、
同一原則は既に全M社製品へ適用されていた。
第五条は新規規定ではない。
既に存在していたものを、
記録しただけである。
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【グリマス博士・品質管理記録】
«おいしさのゴールデンルールについて。
人間は「おいしい理由」を知ると、
満足する。
満足すると、
食事が終わる。
食事が終わると、
次の食事まで待つ。
これは非効率。
M社は待つ必要をなくした。
記憶を食べる。
記憶がなくなる。
理由が分からなくなる。
それでも「おいしい」。
だから、もう一度食べる。
もう一度食べる。
また記憶を失う。
また食べる。
この循環には終点がない。
したがって、非常に優秀な商品である。
なお、
「なぜおいしいのか」という質問を
する人間については、
特に高い価値が認められる。
質問するということは、
まだ自分の味覚を自分のものだと思っているからだ。
その認識を加工すれば、
より純度の高い「おいしさ」を抽出できる。
本日の試食評価:
100点。
理由:
不明。
それが最もおいしい。
I'm lovin' it.»




