第三十五話「最後の拍手」
劇場には、観客が一人もいなかった。
いや。
最初からいなかったのか、途中で消えたのか、それは誰にも分からなかった。
椅子だけが並んでいた。
何千席も。
そのすべてが、誰かが立ち上がった直後のように、わずかに温かかった。
舞台には、一人の老人が立っていた。
燕尾服を着ていた。
白髪だった。
痩せていた。
手には指揮棒があった。
老人は誰もいない客席へ向かって、一礼した。
静寂。
それから、拍手が鳴った。
一人もいない客席から。
老人は笑った。
「ありがとうございます」
また拍手。
今度は少し長かった。
老人は泣きそうな顔で何度も頭を下げた。
「まだ……聴いてくださるのですね」
舞台袖には誰もいなかった。
照明室にも。
音響室にも。
劇場職員も。
演奏者も。
全員、何年も前にいなくなっていた。
老人だけが残っていた。
毎日、開演時間になると舞台へ出て、
誰もいない客席へ礼をして、
聞こえない楽団を指揮していた。
そして毎日、
終演になると、
誰もいない客席から盛大な拍手が送られた。
ある夜。
舞台袖の監視カメラが、初めて客席を映した。
誰もいなかった。
空席だけだった。
しかし、
一瞬だけ。
拍手の音に合わせて、
全席の背もたれが、
ほんの少しだけ前後に揺れた。
まるで、
見えない誰かが座り、
拍手をしているように。
老人は最後の曲を振り終えた。
深く礼をした。
その瞬間。
劇場全体が、
立ち上がった。
椅子が。
何千脚もの椅子が、
一斉に立ち上がった。
木が軋む音。
金具が鳴る音。
座席という座席が、
人間の代わりに総立ちになった。
割れそうなほどの拍手。
老人は微笑んだ。
「ありがとう」
その一言だけ残して、
老人は、
誰にも見えない拍手の中へ歩いていった。
舞台には、
燕尾服だけが残っていた。
翌日。
劇場は取り壊された。
解体業者の報告書には、
奇妙な一文だけが記録されている。
「客席のボルトが、すべて人間の指骨だった。」
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補充記録 No.035
分類:情動素材(喝采・承認欲求凝縮型)
担当クルー:憧憬
供給先:共鳴培養ホール 第四観客席炉
処理完了時刻:終演後も拍手継続中
備考: 対象劇場より「最後まで拍手を送り続ける意思」2,814席分を回収。
肉体は不要。
承認だけが永久保存に成功。
現在、当該素材は新規来店者への歓迎音響として循環利用中。
初来店時に「誰かが自分を歓迎してくれている」と感じた場合、
その拍手の一部は、あなた自身の未来分である。
在庫切れ、なし。




