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第三十四話「パンデモニウムタワー」

視点:カルメン・ロドリゲス・エスピノーサ、享年不明。スペイン、マドリード。元・刑事弁護士。現在:パンデモニウムタワー永久社員棟・第九億三千万層、勤続・計測不能。




窓がない。


第九億三千万層に窓はない。その上の層にも、下の層にも、どこの層にも窓はない。カルメンはこの層に来てから一度も外を見ていない。外が何かを知らない。「外」という概念がこの建物に存在するかどうかさえ、もう自信がない。


タワーの総層数は、誰も知らない。数えようとした者は数え始めた瞬間に作業効率が低下したとして、タンクに送られた。以来、誰も数えない。


あるのはデスクと、書類と、ペンと、電話だ。


電話は鳴らない。鳴ったことがない。だがカルメンはいつでも電話が鳴った時に取れるよう、受話器に手を添えたまま仕事をしている。「受話器に手を添えたまま作業すること」がこの層の規定だからだ。規定はどこにも書いていない。来た時から体が知っていた。


書類は無限に来る。


左側の受け取りトレイに積み上がり、カルメンがそれを処理すると右側の送出トレイに移る。送出トレイが自動的に空になる。また受け取りトレイに積み上がる。


書類の内容は毎回違う。


バーガー一個の品質証明書。世界線一本の消滅許可書。魂三百七十二個の移送申請書。宇宙全体の廃棄決定通知書。全て同じ書式で、全て同じペンで署名する。カルメンは弁護士だったから書類の読み方は分かる。だからこそ、読むのを途中でやめた。


読んでも読まなくても、署名する。


署名しなければどうなるかを、一度だけ確認した。


カルメンは三十一日目に署名を拒否した。書類一枚を、受け取りトレイに戻した。


翌朝、その書類が十倍の枚数になって受け取りトレイに戻ってきた。


カルメンはそれを全部署名した。一枚一枚署名しながら、内容を読んだ。


二十九万三千個の魂の永久収容許可書だった。


カルメンは右手の感覚を確かめた。サインを繰り返しすぎて、どこまでが自分の意志でどこからが反射なのかわからなくなっていた。




第九億三千万層には、他に四十七億人いる。


全員がデスクに座っている。全員が受話器に手を添えている。全員が書類を処理している。


この層の面積は計測不能だ。地平線がある。デスクがどこまでも続いている。端を見たことがない。端が存在するかどうかも知らない。四十七億という数字は、来た時から体が知っていた——自分が何人目かを、この場所では皆が「わかる」。


全員が透けている。


透けている、というのは比喩ではない。物理的に透明度が増している。カルメンは来た当初はそうではなかったが、今は自分の手が透けているのが分かる。デスクの木目が、手の向こうに薄く見える。


透け方は書類の処理量に比例するらしい、とカルメンは推測している。証明する方法はない。


四十七億人の中で最も透けているのは、カルメンから三つ隣のデスクの人物だ。名前は知らない。名前を聞いたことがない。この層では誰も話さない。地平線の向こうまで、四十七億人が、沈黙している。聞こえるのはペンの音だけだ——四十七億本のペンが、同時に、書類を走る音だけだ。


三つ隣の人物は、ほとんど見えない。


デスクの上に書類を処理している動作の痕跡だけがある。ペンが動く。書類が移動する。だがそれをしている人物の姿が見えない。完全に透明だ。


カルメンは一度、三つ隣のデスクに歩いていって確認しようとした。


歩くほど、デスクが遠ざかった。


カルメンは自分のデスクに戻った。




ある日、扉が開いた。


四十七億人全員が、一瞬だけ動作を止めた。


それだけだった。誰かが入ってきた気配があった。カルメンは弁護士として三十年、法廷で人の気配を読んできた。入ってきたものは——人間ではなかった。人間の形をした何かだった。その「何か」が層を歩く間、空気の質が変わった。デスクとデスクの間を通り過ぎる時、通り過ぎられたデスクの前の人物が、わずかに縮んだ。


縮む、というのも比喩ではない。


物理的に、少し小さくなった。


「何か」は地平線の向こうまで歩き続けた。歩き続けながら、四十七億人の間を、笑顔で通り過ぎた。通り過ぎた全員が、縮んだ。


やがて気配が消えた。


翌日、三つ隣のデスクから動作の痕跡が消えた。


書類だけが残った。積み上がった。


二日後、その書類がカルメンの受け取りトレイに移ってきた。量が倍になった。


カルメンは署名を続けた。


自分の透け方が、また少し進んだ気がした。




この層の規定が一つ増えた日があった。


どこにも書いていないが、体が知った。


「透明度が100%に達した社員は昇格する」


カルメンは弁護士として、「昇格」という言葉の定義を考えた。


昇格の内容は書かれていない。どこへ行くかも書かれていない。ただ「昇格」とだけ、体が知っている。


三つ隣のデスクの人物は、昇格した。


デスクは空だ。書類が積み上がっている。


カルメンは自分の手を見た。


デスクの木目が、はっきりと透けて見えた。


署名を続けた。




【パンデモニウムタワー永久社員棟管理記録——秩序、記録係】


>第九億三千万層欠員発生:一名。透明度100%達成につき完全統合処理済み。

>補充要員の割り当て:次の世界線崩壊時に確保予定。崩壊規模次第では数十億単位での補充が見込まれる。

>既存社員への書類配分:均等割り付け済み。

>備考:当層の平均透明度は現在61.4%。

>透明度が100%に達した社員は上位管理システムに吸収される。

>「昇格」という語を使っているのは、知っていても知らなくても署名の速度が変わらないからだ。

>変わらないなら、穏やかな語を使う方が効率的だ。

>これは配慮ではない。最適化だ。

>タワーの現在の総層数:計測中(収束の見込みなし)。




【グリマス博士・品質管理記録補遺】


>第九億三千万層の運用は安定している。

>問題があるとすれば一点——「昇格の内容を知った社員」と「知らない社員」の署名速度に、差が出ていないことだ。

>つまり、知っても意味がない。

>知っても、署名を続ける。

>それがここの設計だ。

>

>I'm lovin' it.

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