第三話 「在席確認」
> 視点座標:パンデモニウム・タワー 管理局 第38階層 第19執務室
> 話者:幽霊社員(旧識別コード:GL7741) 在籍年数:測定不能
> 記録取得方法:意識残存領域からの直接採取
今日も出勤した。
出勤した、という表現が正確かどうかは分からない。昨日も同じ場所にいた。一昨日も、その前も、もっと前も、全部同じ場所にいた。「出勤した」というより「いつの間にかまた始まっていた」という感じに近い。でも記録上は毎朝九時に出勤したことになっている。僕は自分の出勤時刻が記録される音を、今日も朝九時に聞いた。
チャイムが鳴った。始業だ。
椅子に座った。モニターがついた。書類が来た。
第19執務室は白い部屋だ。
天井が高い。照明は白くて均一で、一日中同じ明るさだ。窓は一つもない。外がどんな状態かは分からない。というより、外があるのかどうかも分からない。
机が並んでいる。三列で、一列に八台ずつ。二十四台の机に二十四人の社員が座っている。
全員、今日も出勤している。
僕の隣の席は林田さんという人で、十年来の同僚だ——十年来、という表現も正確ではないかもしれない。ここに来てからずっと隣にいる、という意味だ。林田さんは毎朝同じ時刻に来て、同じ姿勢で書類を処理している。口数が少ない。でも丁寧な人だ、と思う。なぜそう思うかというと、消しゴムのかすを自分の側に落とすように気をつけているからだ。それが丁寧さの証拠になるかどうかは分からないが、そう感じている。
林田さんの手が、今日は少し透けている。
昨日より透けている気がする。
でも何も言わなかった。言うべきことかどうか分からないし、言って何かが変わるとも思えなかった。
今日の業務は「全宇宙カロリー収支報告書の第七千四百二十一次改訂版の修正作業」だ。
報告書は現時点で八万二千ページある。一日に処理できるのは平均で十二ページだ。終わる見込みがないことは、計算しなくても分かる。終わる見込みがないことを三年前に上司に報告したら、「続けてください」と言われた。続けている。
報告書の内容は、全ての世界線で消費されたカロリーの総量の計算だ。計算の対象になる世界線が毎日増えるので、計算が終わらない。終わらない計算を毎日続けている。
これが何に使われるのかは、知らない。
知ろうとしたことが一度だけある。上司に聞いた。上司は「記録の精度を維持するためです」と言った。「何の記録ですか」と聞いた。「この報告書の記録です」と言われた。
それ以降、聞いていない。
昼休みがある。
十二時から十二時四十五分まで、業務を止めていい時間だ。最初のうちは、食事をしていた。どこから来るのか分からないが、金色の包み紙に包まれたバーガーが机の上に置かれていた。食べると、体が動いた。食べ続けた。
いつからか、食べなくなった。
正確には、食べる必要がなくなった。体が動くために食べることが必要なくなった。体が動いているのかどうかも、よく分からなくなってきたからかもしれない。
今の昼休みは、何もしない。
椅子に座って、モニターを消して、手を膝の上に置いている。
四十五分が経つと、モニターが自動でつく。書類が来る。続ける。
三時に、廊下を歩く足音が聞こえた。
足音が聞こえるのは珍しいことだ。この階層にいる人間のほとんどは、足音を立てない。体の密度が薄くなると、床への圧力が下がって、音が出なくなる。だから足音がするということは、まだ密度が高い、つまりここに来てあまり時間が経っていない人間がいる、ということだ。
扉が開いた。
二人が入ってきた。
一人は黒いスーツを着た女性で、書類の束を抱えていた。目の下に疲労の色がある。もう一人は若い女性で、黒いスーツとは違う服装だった。私服に近い格好だ。こちらは普通の人間のにおいがした——食事のにおい、外の空気のにおい、生きているにおい。
この階層では、そういうにおいはしない。
スーツの女性が二十四番の窓口カウンターに向かった。そこには主任がいる。主任だけが、この階層でわずかに重さのある存在だ。
僕は書類を処理しながら、会話を聞いていた。
「ぱんでむから世達です。今月分の書類の提出と署名をお願いします」
主任が書類を受け取った。ペンを持って署名した。何十年もやってきた動作で、手の動きだけがなめらかだった。
それだけで終わるはずだった。
「……コーヒーが好きですか」
若い方の女性が言った。
僕の手が止まった。
部屋の中の全員の手が止まった気がした。気がした、というのは、正確に確認できなかったからだ。でも、止まった気がした。
主任が止まった。
「……コーヒー」と主任がかすれた声で言った。「……どこかで、飲んだことが、あります」
若い女性が何かを言おうとした。
スーツの女性が彼女の腕をつかんだ。「好代さん」と小声で言った。「行きましょう」
「でも」
「行きましょう」
二人が出ていった。
主任が三十秒ほど動かなかった。
それから署名を終えて、書類を戻した。何事もなかったように。
でも僕は見ていた。
主任の手が、一瞬だけ震えた。
署名したペンを持ったまま、手が一瞬だけ震えた。
コーヒー、という言葉を聞いた後に。
コーヒーのことを、僕も考えた。
飲んだことがあるかどうか。
ここに来る前に、飲んでいたかどうか。
分からなかった。
飲んでいた記憶が、あるような気がした。温かいものを、白いカップで飲んでいた。朝に飲んでいた。何かをしながら飲んでいた。何をしていたかは出てこなかった。でも、温かかったことは覚えていた。
温かい、という感触の記憶だけが残っていた。
それが何なのかが分からなかった。
でも、残っていた。
夕方、終業チャイムが鳴った。
帰宅する社員はいない。この階層に、帰る場所を持っている社員はいないからだ。
照明が少し暗くなる。それだけだ。
林田さんが書類を片付けた。机の上を整えた。それから椅子に座ったまま目を閉じた。眠っているのかどうかは分からない。体が薄すぎて、眠りが体に降りていかないかもしれない。でも目を閉じている。
僕も目を閉じた。
コーヒーの温かさを、もう一度思い出そうとした。
温かかった、ということだけが出てくる。それ以外は何も出てこない。
それで十分だ、と思おうとした。
思えなかった。
翌朝、チャイムが鳴った。
林田さんの席が、空だった。
椅子が残っていた。書類が残っていた。林田さんが今日整理しかけていた報告書が、机の上に残っていた。林田さんだけがいなかった。
消しゴムのかすが、林田さんの側に落ちていた。
最後まで、気をつけていたんだな、と思った。
昼休みに、誰かが林田さんの机を片付けた。書類がどこかに運ばれた。椅子が別の場所に移動した。机だけが残った。
午後、新しい社員が来た。
スーツを着た、三十代くらいの男性だった。目が少し怯えていた。案内されてきた女性に何か聞いていた。声は聞こえなかったが、口の動きで分かった。「ここは何をする場所ですか」と言っていた。
女性が何かを答えた。
男性が頷いた。
彼は林田さんの机に案内された。椅子に座った。モニターがついた。書類が来た。
彼の手は、まだ透けていない。
しばらくは透けないだろう。
でもいつかは透ける。
この部屋にいれば、全員そうなる。全員そうなってきた。
それが何年かかるかは、その人による。早い人は半年で透ける。遅い人は十年かかる。でも必ず透ける。透けきったら、消える。消えた場所に、新しい人が来る。
ずっとそれが繰り返されている。
繰り返しがいつから続いているかは、誰も知らない。
翌日の昼休み、僕は主任のカウンターに行った。
用事はなかった。ただ行った。
主任は書類を処理していた。顔を上げた。表情がない顔が、僕の方を向いた。
「何か」と主任が言った。
「昨日の女性が言ったこと」と僕は言った。「コーヒーのこと、覚えていますか」
主任が少し間を置いた。
「覚えています」
「どんなコーヒーでしたか」
主任がまた間を置いた。長い間だった。
「……缶コーヒーです」と主任が言った。「自動販売機で買った。百二十円でした。冬に買ったので、温かかった。どこかの帰り道でした。どこからの帰り道かは、出てきません」
「百二十円」と僕は言った。
「はい」
「それだけ覚えているんですね」
「それだけ残っています」と主任は言った。「他は全部、なくなりました」
僕は少し考えた。
「百二十円のコーヒーが一番大事なものだったんですか」と聞いた。
主任が首を横に振った。
「違います」と主任は言った。「一番大事なものだから残っているわけじゃない。どこかの帰り道に、百二十円のコーヒーを飲んだ。それだけのことが、残っています。理由は分かりません」
それだけ言って、主任は書類に戻った。
僕は自分の席に戻った。
モニターを見た。報告書の第七千四百二十一次改訂版の、続きがある。
僕には何が残っているか、考えた。
温かいもの。白いカップ。朝。何かをしながら。
コーヒーかもしれない。コーヒーではないかもしれない。
でも、温かかった。それだけは残っている。
続きを処理した。
翌朝、チャイムが鳴った。
新しい社員の手が、少しだけ透けていた。
半年は経っていないはずだが、早い方だと思った。
彼はまだ気づいていない。
気づく前に言うべきかどうか、考えた。
考えているうちに、昼休みになった。
昼休みが終わった。
言えなかった。
言って何かが変わるとも思えなかったし、言って変わらなかった場合の方が、何も言わなかった場合より、何かが悪い気がした。
一つだけ確かなことがある。
いつかこの話が、誰かに読まれるかもしれない。
読まれても、何も変わらない。
僕はまだここにいる。主任もまだいる。新しい社員もいる。林田さんはいない。林田さんの代わりの誰かがいる。
でも、読まれるかもしれない、と思ったことだけを書いておく。
百二十円のコーヒーを飲んだことのある人が、ここにいる。
それだけを書いておく。
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補充記録 No.003
分類:幽霊社員(意識残存・タワー第38階層・永久在籍)
供給先:パンデモニウム・タワー 管理局 永久稼働プール
備考:GL7741、意識残存率〇・〇〇七%を確認。
残存意識が業務精度に寄与しているため廃棄判断:否。
「コーヒー」に関する記憶断片が想起されたことを確認。
当該記憶断片は感情結晶として微量析出。回収済み。
主任(GL0003)の手の震えを確認。
当該反応が稼働効率に影響しないと判断。処置:なし。
隣接ユニット(GL7740、林田)の稼働停止を確認。
解体済み。感情成分は悲鳴蒸留所に送付。
新規補充(GL7742)の透明化進行速度:想定より四十七%速い。
原因:不明。対応:なし。補充は十分に確保済み。
在庫切れ、なし。
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