第十九話「地獄のダウンタウン住民記録」
>視点座標:nの次元 NCity 地獄のダウンタウン地区
>話者:複数
>記録取得方法:各種手段による自動抽出
——一「迷入者・男性・二十六歳 一日目」
NCityに迷い込んだ。
最初に気づいたのは、空気の重さだった。
空気が重かった。普通の空気より密度があった。呼吸するたびに、何かが肺に入ってくる気がした。甘い匂いがした。
次に気づいたのは、重力がおかしいことだった。
右足より左足の方が重かった。歩くたびに、左半身だけ引力が強かった。ビルの壁が、地面より強く私を引いていた。ビルの壁の方向に体が傾いた。倒れそうになりながら歩いた。
広場に出た。
広場の中心に、何かがいた。
最初は建物だと思った。
大きかった。高さがビル二十階分はあった。
でも動いていた。
動いていた、というより、それ自体が空間をゆがめながら存在していた。
それの周囲の空気が、渦を巻いていた。渦は見えなかった。でも私の体が、それの方向に少しずつ引っ張られていた。
近づいた。
近づいてはいけなかった。でも足が止まらなかった。引力があった。
十メートルまで近づいた時に見えた。
それの表面は、表面ではなかった。
皮膚のようなものが、複数の層で重なっていた。一番外の層が、ゆっくり動いていた。動きながら、剥がれていた。剥がれた表面が、空気の中で消えた。消えた場所から、新しい層が生えてきた。
目があった。
それの全表面に、目があった。
大きさが全部違った。直径一センチのものから、直径三メートルを超えるものまであった。全部の目が、別々の方向を向いていた。
それが私を見た。
全部の目が、一瞬、私の方を向いた。
その瞬間、私の周囲の重力が消えた。
浮いた。
地面から三メートル浮いた。
三秒後、重力が戻った。
落ちた。
倒れた。
それはもう私を見ていなかった。
——二「迷入者・同一人物 二日目」
昨日浮いた理由を考えた。
考えながら、住人たちを観察した。
住人たちは、それぞれが異なる種類の異形だった。
一体が近くを通った。
腕が体の全面から生えていた。
腕の数が、数えられなかった。
数えようとした。三十本を超えたところで、腕が増えた。五十本を超えたところで、腕が減った。数えている間も、腕の数が変動していた。
腕の先端が全部違った。
鉤状のもの。吸盤で覆われたもの。骨格が露出したもの。先端が炎になっているもの。先端が何かを放射しているもの。放射されたものが地面に当たった場所で、地面の素材が変わった。石が金属になった。
その一体が歩いた。
歩いた場所の後ろで、空間が歪んだ。
歩いた跡に、歪みが残った。
歪んだ空間の中を、別の住人が通った。
通った住人の体が、歪みの中で一瞬、別の形になった。別の形が元に戻った。
歪みが消えた。
——三「迷入者・同一人物 四日目」
台の上のバーガーを住人たちが食べる様子を見た。
食べる、という言葉が正確かどうか分からなかった。
最初の一体を観察した。
人型に近い輪郭をしていたが、頭部がなかった。頭部があるべき場所に、直径一メートル近い開口部があった。開口部の縁に、無数の細い突起が並んでいた。
台に近づいた。
バーガーを掴まなかった。
開口部から、何かが放出された。
見えない何かがバーガーに当たった。バーガーの包み紙が剥がれた。中身が露出した。露出した中身が、分解されていった。パティが層ごとに剥離した。バンズが繊維単位でほぐれていった。ほぐれたものが空気中を漂いながら開口部に吸い込まれた。
十秒で全部が消えた。
その一体は台から離れた。台の上に、金色の包み紙だけが残った。
次の一体を観察した。
腕が全身から生えていた。体の前面だけで三十本以上確認できた。後面はそれ以上あった。腕の長さが全部違った。腕の先端が全部違った。
台に近づいた。
複数の腕がバーガーに向かって伸びた。
先端が鉤状の腕がバーガーの中心に刺さった。刺さったまま引いた。バーガーが縦方向に引き裂かれた。
先端が管状の腕が、引き裂かれた断面に接触した。
吸い始めた。
断面から、バーガーの内部が管に吸い上げられていった。吸い上げられたものが体内を移動するのが、体表を通して確認できた。体表の皮膚が一時的に透けた。透けた皮膚の下で、吸い上げたものが体全体に分散した。分散した後、体積が増えた。
先端が平たく広がった腕が残骸を押しつぶした。押しつぶした残骸を体表に押し当てた。体表が開いた。残骸が中に入った。体表が閉じた。
三十秒でバーガー三個を処理した。
三個目を処理した後、体から音が出た。頭蓋骨を直接振動させる周波数だった。台の周辺の地面が、その周波数に反応して素材を変えた。
次の一体を観察した。
形状が動物にも機械にも属さなかった。
外見上の輪郭は不定だった。見るたびに輪郭が変わっていた。
台に近づいた。
近づくにつれて、台の周辺の空気が変質した。空気中の分子が一定方向に整列し始めた。整列した分子がバーガーを取り囲んだ。
バーガーが圧縮された。
バーガーが徐々に小さくなった。元のサイズの半分になった。四分の一になった。針の頭ほどの大きさになった。
その点がその一体の体内のどこかに吸収された。
吸収された直後、その一体の体積が一時的に二倍になった。
二倍になった体積が元に戻った。
それだけだった。
さらに別の一体が台に近づいた。
この一体の摂食方法は確認できなかった。
バーガーがあった。
次に確認した時、なかった。
その間に何が起きたかが、観測できなかった。
——四「迷入者・同一人物 七日目」
バーガーを食べた。
食べないと死ぬと思った。
七日間、何も食べなかった。
限界だった。
食べた。
翌朝、右目の色が変わっていた。
右目で見える色が、昨日と違った。
昨日、肉眼では見えなかったものが見えた。
NCityの住人たちが、今まで見えていたものとは別の層で、別の何かとして存在していることが見えた。
見えた、というのは正確ではない。
認識できた。
住人たちの体積が、物理的な体積だけではないことが分かった。
一体の住人の体積が、周辺の空間数百メートルに及んでいた。
物理的な体の大きさは人間に近かった。
でも、その住人の「存在」が、数百メートルの空間に分散していた。
存在が希薄に広がっていた。
広がった存在の端が、私の体に触れていた。
触れたままだった。
——五「迷入者・同一人物 一ヶ月後」
毎日バーガーを食べている。
食べるたびに見える範囲が変わる。
今日見えているものを書く。
広場の中心にいる最大個体の存在範囲を確認した。
物理的な体の高さ:推定三十メートル以上。
体から伸びる腕の総数:数えることができない。腕が伸びるたびに空間を引き裂いている。引き裂かれた空間の向こうから、別の何かが伸びてくることがある。伸びてきた何かが腕に合流する。合流した後、腕の数が増える。
体の周囲五十メートルで、重力が安定していない。
方向が毎秒変わる。
壁が床になる。天井が地面になる。
この個体の近くを通る住人たちは、重力の変化に従って壁や天井を歩いている。
誰も驚いていない。
体表の目が一斉に動く瞬間がある。
全部の目が同じ方向を向く。
その方向で、何かが起きている。
私には、何かが起きているということまでしか分からない。
声があるかどうかは分からない。
音を出すことがある。
出した音で、周辺の建物の素材が変化する。
今日は出した音で、二棟のビルが肉の質感に変わった。
変わったビルの中で、別の住人が普通に業務をしていた。
——六「壁面の刻み文字 採取記録」
広場の外縁部の壁に、文字が刻まれていた。
刻まれた時期:不明。
刻んだ者:不明。
内容:
はじめは人間だった
何年食べたか分からない
食べるたびに何かが増えた
増えた分だけ何かが溶けた
今は何が残っているか分からない
でも空間の味が分かる
重力の温度が分かる
世界線の終わりの音が分かる
別の宇宙の呼吸が分かる
それが嬉しいかどうかは
嬉しいを感じる場所が
どこにあったか
分からなくなったので
分からない
でも
まだ
何かが
ここに
ある
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補充記録No.019
分類:NCity住民観察記録(長期在住個体・超越変容型)
記録管理:NCity市民台帳管理局
長期在住個体の実態:
異常バーガーを数年単位で継続摂取した個体は、
以下の状態に至ることが確認されている。
物理的規模:
体積が物理的制約を超える。
重力・空間・素材変換などの物理現象が、
意図の有無に関わらず体の周囲で常時発生する。
存在範囲が物理的な体の外側に分散する。
能力の累積:
摂取したバーガーに含まれる世界線の特性が
体内に蓄積される。
蓄積量が増えるほど、発現する現象の種類と規模が増加する。
現在最長在住と思われる個体(DC001)の確認済み能力:
局所重力の多方向同時変動(半径五十メートル)
空間引き裂きによる別次元への接続
音波による物質変換
視線による対象の浮遊・落下制御
存在範囲の数百メートルへの分散
体表からの素材放射(放射物により接触対象の素材変換)
腕の自律分裂と他次元個体との合流
他の世界線の終焉の「感知」
(以上は観測された現象の一部に過ぎない)
意識の残存:
長期在住個体に意識が残存するかどうかは確認困難。
壁面の文字刻みなど、意識活動の痕跡は存在する。
ただし残存する意識が元の個体のものかどうかは不明。
「空間の味が分かる」「重力の温度が分かる」という記述は、
人間の感覚系では処理できない情報を
処理できるようになったことを示す。
迷入者(男性・二十六歳)の現在:
一ヶ月経過。バーガー継続摂取中。
視覚的認識範囲の拡張を確認。
現時点での外形変容:軽微(右目の変色のみ)。
ただし知覚系の変容が先行している点に注意。
知覚が変容した後に物理的変容が加速する傾向がある。
次回観測予定:一年後。
一年後の推定状態:現在と同じ個体である確率:低い。
在庫切れ、なし。
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