第十七「美しい終わり」
>視点座標:nの次元 NCity地下 冷凍保存区画 第三〇一〜第三〇七室
>話者:複数(保存済み個体)
>記録取得方法:保存状態下の意識残存から逐次抽出
>注記:話者たちは保存状態にある。腐敗しない。変化しない。終わらない。
> 記録の抽出は、彼らの意識が「まだある」間だけ可能だ。
——第三〇一室「入室から、おそらく数十年」
最初に気づいたのは、寒くないということだった。
冷凍されているはずだった。体が冷えているはずだった。でも寒くなかった。
感覚があった。
全身の感覚があった。指先も、足の裏も、背中も、全部感じられた。
動かなかった。
動かそうとした。動かなかった。
動かそうとしている、という意思があった。
意思があるのに、体が動かなかった。
声を出そうとした。声が出なかった。
呼吸しようとした。呼吸していなかった。でも苦しくなかった。
苦しくないことが、一番おかしかった。
呼吸していないのに、意識があった。
時間が経った。
どれだけ経ったかは分からなかった。
時間を計る方法がなかった。
暗かった。目が開いていた。開いているのに暗かった。
暗い中で、意識だけがあった。
扉が開く音がした。
足音がした。
近づいてきた。
立ち止まった。
「……美しい」という声がした。
声は穏やかだった。感情が乗っていた。感情のある声だった。
次の瞬間、足音が遠ざかった。
扉が閉まった。
また暗くなった。
また意識だけがあった。
また時間が経った。
——第三〇二室「入室から、おそらく数百年」
数えていた。
最初は数えていた。
「美しい」という声が来るたびに、一つ数えた。
百回を超えたあたりで、数えるのをやめた。
やめた理由は、数えることの意味がなくなったからだ。
数えて何が変わるかを考えた。
何も変わらなかった。
数えても、保存状態は続いた。
数えなくても、保存状態は続いた。
声は来た。
来るたびに「美しい」と言った。
今日も来た。
「……美しいわ」という声がした。
今日の声のトーンは、少し違った気がした。
少し、喜んでいた。
喜んでいる声を聞いて、何かが変わるかと思った。
何も変わらなかった。
また扉が閉まった。
また暗くなった。
私が数えるのをやめたことを、声の主は知らない。
知らないまま、また来る。
また「美しい」と言う。
——第三〇三室「入室時期:不明」
入室した時のことを覚えていない。
どこにいたかも覚えていない。
何者だったかも覚えていない。
でも、意識がある。
意識があるということは、何かがあったはずだ。
でも何があったかが出てこない。
出てこないことの理由も、出てこない。
考えようとすると、「考えようとしている」という事実だけが残って、考えた内容が残らない。
声が来た。
「……美しいわ」という声だった。
また来た、と思った。
また来た、という感覚があった。
前にも来たことがある、という感覚があった。
前がいつかは、出てこなかった。
扉が閉まった。
また、考えようとした。
また、考えようとしていることだけが残った。
また、声が来るのを待った。
待つしかなかった。
待つこと以外に、することがなかった。
——第三〇四室「入室から、おそらく数千年」
声の主が誰か、考えたことがある。
最初の頃は、声の主のことを知りたかった。
なぜ来るのか。
なぜ「美しい」と言うのか。
なぜ来るたびに帰るのか。
助けてくれるのか。
助けてくれないのか。
全部、考えた。
答えが出なかった。
答えが出なかったまま、時間が経った。
今は、声の主のことを考えない。
考えなくなったのは、考えることをやめたからではなかった。
考える機能が、少し薄くなった気がするだけだ。
薄くなっていることは分かる。
分かっているのに、止められない。
考える機能が薄くなるにつれて、「美しい」という声だけが残っていく。
他のことは薄くなる。
「美しい」という声だけが、濃いまま残る。
声が来るたびに、「美しい」という音だけが、また一回、刻まれる。
刻まれる。
刻まれ続ける。
——第三〇五室「二つの意識」
隣の部屋の音が、聞こえることがある。
聞こえる、というより、感じる。
隣に、何かがある。
意識がある。
隣の意識が、こちらに触れることがある。
触れた時、何かが伝わった。
言語ではなかった。
でも伝わった。
「いつ出られますか」
それだけが伝わった。
答えられなかった。
答えを持っていなかった。
答えられないまま、隣の意識が離れた。
しばらくして、また触れた。
「いつ出られますか」
また伝わった。
また答えられなかった。
これが何回繰り返されたか分からない。
隣の意識は毎回、同じことを伝えてくる。
毎回、答えられない。
答えられないことが、伝わっているかどうかも分からない。
扉が開いた。
足音が来た。
隣の室と、この室に、交互に来た。
「……美しいわ」と言った。
両方に言った。
また足音が遠ざかった。
隣の意識が、また触れた。
「いつ出られますか」
また伝わった。
——第三〇六室「声が来なくなった日」
ある時から、声が来なくなった。
来なくなった。
ずっと来ていたのに、来なくなった。
最初は「遅い」と思った。
次に「今日は来ない」と思った。
次の日も来なかった。
次の次の日も来なかった。
来ない日が続いた。
来ない日が続くことが、来ていた日より怖かった。
来ていた時は、怖くなかった。
来ない今、来ていた時間が終わったことが分かった。
来ていた時間が終わったということは、何かが変わった。
何が変わったかは分からなかった。
でも変わった。
暗い中で、意識だけがあった。
声が来ていた時は、声が来るまでの時間があった。
声が来なくなると、時間がなくなった。
声が来ることで、時間が刻まれていたと分かった。
声が来ないと、時間が刻まれない。
時間が刻まれないまま、意識だけがある。
——第三〇七室「最も古い室」
声の数を数えることをやめたのが、いつかは分からない。
声が来た時に何かを感じることをやめたのが、いつかは分からない。
声の内容が何かを認識することをやめたのが、いつかは分からない。
今も、声が来る。
今も、「美しい」という音が届く。
届いていることは分かる。
でも届いた後に何が起きるかが、分からなくなった。
届く。
それだけだ。
何かを感じようとした。
感じる機能の場所が分からなくなっていた。
感じる機能があった場所に、何かがあった。
何があったかを確認しようとした。
確認する機能の場所が分からなくなっていた。
意識がある。
意識があることだけが分かる。
意識があることの意味が、分からなくなっていた。
でも、ある。
ある。
声が来た。
「……美しいわ」という音が届いた。
届いた。
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補充記録No.017
分類:長期保存素材(美的固定型)複数個体
担当クルー:万寿
供給先:保留(万寿が「もういい」と判断するまで)
保存期間:
第三〇一室:推定数十年
第三〇二室:推定数百年
第三〇三室:入室時期不明・意識残存確認
第三〇四室:推定数千年
第三〇五室:推定数百年(二個体)
第三〇六室:声の来訪が停止。理由:万寿が別の区画に移動中。
再来訪予定:不明
第三〇七室:推定数万年。意識残存を確認。
万寿が「もういい」と判断した事例:
過去に一件も存在しない。
第三〇六室について:
万寿が来なくなったのは、より新しい個体の保存を開始したため。
来なくなったことを、第三〇六室の個体は「何かが変わった」と認識している。
何が変わったかは告げない。
告げる必要がない。
来なくなっても、保存状態は継続する。
腐敗しない。変化しない。終わらない。
時間だけが、刻まれなくなった。
第三〇七室について:
意識の稼働率が〇・〇〇〇一%を下回っているが、
まだ残存している。
万寿が「美しい」と言い続けている限り、
この個体の意識は残存する。
万寿が「美しい」と言うから残存しているのか、
残存しているから「美しい」と言われるのかは、
どちらが先か不明である。
万寿はこの個体を愛している。
愛しているから、手放さない。
手放さないから、終わらない。
終わらないから、意識がある。
意識があるから、「美しい」と言われる。
「美しい」と言われるから、意識がある。
この循環に、終わりがない。
万寿に終わらせる気がない。
この個体に終わらせる手段がない。
在庫切れ、なし。
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