第十話 「蒐集の記録・十二の手口」
> 本記録は、nの次元への蒐集が完了した個体の、最終意識から採取した断片記録である。
> 蒐集手口は多岐にわたる。
> 以下はその一部である。
> 一部、という言葉が正確かどうかは、読者の判断に委ねる。
手口・一「鏡」
視点座標:第4,441番世界線 現代 ある国の地方都市 個人宅
洗面台の鏡に、自分の顔が映っていた。
朝の六時だった。歯を磨こうとして鏡を見た。
鏡の中の自分が、歯ブラシを持っていなかった。
私は歯ブラシを持っていた。
鏡の中の私は、両手を下ろして、こちらを見ていた。
瞬きをした。鏡の中の私も、瞬きをした。タイミングが同じだった。
首を左に傾けた。鏡の中の私は右に傾けた。反転しているから当たり前だ。
右に傾けた。鏡の中の私は左に傾けた。
正面に戻した。鏡の中の私は正面に戻した。
何かがおかしいと思って、三秒経ってから分かった。
鏡の中の私の後ろに、洗面台があった。タオルがかかっていた。ドアがあった。
全部、左右反転していた。
全部正しかった。鏡だから、左右反転している。全部正しかった。
でも鏡の中の私の後ろのドアが、少し開いていた。
実際のドアは閉まっていた。
鏡の中だけ、ドアが開いていた。
その隙間から、光が漏れていた。
黄色い光だった。
甘い匂いが、鏡の向こうからした。
鏡の中の私が、黄色い光の方に向かって歩き始めた。
私は動いていなかった。
鏡の中の私だけが、歩いていた。
鏡の枠の向こうに消えた。
鏡に、誰も映っていなかった。
その後、洗面台の前に立っているのに鏡に何も映らなくなった。
三日後、私は存在していなかった。
手口・二「エレベーター」
視点座標:第8,892番世界線 近未来 高層ビル
エレベーターに乗った。
ボタンを押した。十七階を押した。
扉が閉まった。
上昇が始まった。
表示が変わった。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六——
十七が来なかった。
十八になった。
私は十七階のボタンを押した。
表示が十九になった。二十になった。
このビルは二十三階建てだった。二十三になった。二十四になった。
二十四階は存在しないはずだった。
でも上昇が続いた。
四十二になった。
四十二階も存在しなかった。
百になった。
窓がないエレベーターの中で、上昇の感覚だけが続いた。
千になった。
扉が開いた。
廊下があった。
廊下の先に、光があった。
黄色い光だった。
甘い匂いがした。
扉が閉まった。
また上昇した。
手口・三「子どもの頃の家」
視点座標:第11,003番世界線 現代 ある国の住宅地
引っ越した先が、子どもの頃に住んでいた家だった。
偶然だと思った。
間取りが全く同じで、廊下の長さも、窓の位置も、台所の向きも、全部同じだった。本当の偶然だと思った。
でも押し入れの中に、自分の名前が書いてある落書きがあった。
子どもの頃に書いた字だった。
この家に住んだのは、七歳から十二歳までだった。
二十年以上前の話だった。
落書きが、新しかった。
インクが乾いていなかった。
触ったら指についた。
次の日の朝、台所に行ったら、子どもの頃に使っていたコップが棚に並んでいた。
引っ越しの荷物に入れた覚えがなかった。
そのコップは、実家の引っ越しの時に捨てたはずだった。
コップを手に取った。
重さが正しかった。あの頃使っていたコップの重さだった。
台所の窓の外を見た。
子どもの頃に見ていた風景があった。
隣の家の塀。その向こうの木。木の上の空。
ここは引っ越してきたばかりの新しい街のはずだった。
窓の向こうの景色が、子どもの頃の風景だった。
後ろを振り返ったら、台所が違っていた。
子どもの頃の台所になっていた。
母が立っていた。
後ろを向いていた。
「お母さん」と呼んだ。
振り返らなかった。
振り返りかけた時、目が合いそうになった時、私は扉を開けた。
扉の向こうに廊下があった。
廊下の先に光があった。
黄色い光だった。
振り返れなかった。
手口・四「地図」
視点座標:第19,774番世界線 中世相当期 商人
地図を買った。
旅商人から買った地図だった。次の街までの道が書いてあった。
その道を歩いた。
三日間歩いた。
次の街に着かなかった。
地図を確認した。地図には道が書いてあった。地図の道の上を歩いていた。
四日目も歩いた。
五日目も歩いた。
六日目に、道の前方に建物が見えた。
次の街の建物だと思って近づいた。
違った。
黄色い建物だった。
この地方に、黄色い建物はなかった。
看板があった。
読めない文字で書いてあった。
でも何と書いてあるか、なぜか分かった。
「ぱんでむ」と書いてあった。
扉があった。
開いた。
甘い匂いがした。
後ろを振り返った。
来た道がなかった。
砂漠があった。
砂漠の向こうに、地平線があった。
手口・五「電話」
視点座標:第23,001番世界線 現代
深夜に電話が鳴った。
見知らぬ番号だった。
出た。
「もしもし」と言った。
「もしもし」と返ってきた。
自分の声だった。
「誰ですか」と聞いた。
「あなたです」と自分の声が言った。
「私は今、電話をかけていません」と言った。
「かけています」と自分の声が言った。「少し前に、かけました」
「少し前というのは」
「三十年後です」と自分の声が言った。
電話越しの自分の声が、少し疲れていた。
「なぜ電話してきたんですか」と聞いた。
「警告しようと思っていました」と電話の向こうの自分が言った。「でも今日の私には、警告できません」
「なぜですか」
「警告したら、あなたが来なくなります。来なくなると、私も来ていません。来ていないと、この電話はかかっていません。この電話がかかっていないと、あなたに警告できていません」
沈黙があった。
「何が来るんですか」と聞いた。
「笑顔が来ます」と電話の向こうの自分が言った。
「笑顔というのは」
「笑顔の中に、何も入っていない笑顔です」
それだけ言って、電話が切れた。
翌朝、玄関のドアを開けたら、外に黄色い光があった。
手口・六「本」
視点座標:第31,882番世界線 現代 図書館
図書館で、背表紙に自分の名前が書いてある本を見つけた。
フルネームが書いてあった。
本を開いた。
自分の人生が書いてあった。
生まれた日。最初に覚えている記憶。初めて転んで泣いた日。友達の名前。失恋した日。就職した日。
全部書いてあった。
まだ起きていないことも書いてあった。
最後のページまで読んだ。
最後のページに、今日の日付が書いてあった。
今日の出来事が書いてあった。
図書館で本を見つけた。
自分の人生が書いてあった。
最後のページを読んだ。
最後の一文が書いてあった。
「本を閉じた後、立ち上がって、図書館の一番奥の扉を開けた。黄色い光の中に入った。本棚の間に消えた。本は棚に戻った。翌日、本の背表紙の名前が消えていた。別の名前が、浮き上がってきた」
本を閉じた。
立ち上がった。
図書館の一番奥の扉を開けた。
黄色い光があった。
甘い匂いがした。
手口・七「双子」
視点座標:第44,119番世界線 現代
私に双子の兄弟はいない。
いないはずだった。
でも街で、私と全く同じ顔の人間とすれ違った。
止まって見た。
向こうも止まって見た。
全く同じ顔だった。全く同じ体型だった。服装だけが違った。
「誰ですか」と聞いた。
「あなたです」と言った。
私と全く同じ声だった。
「どういう意味ですか」と言った。
「別の経路で来た、あなたです」と言った。「私は三ヶ月前にここに来ました。あなたはまだ来たばかりです」
「ここというのは」
「nの次元です」とその人間が言った。
「私はまだ元の場所にいます」と言った。
「そう思っています」とその人間が言った。
「実際には違うということですか」
「実際には」と言いかけて、そのまま止まった。
笑顔が近づいてくる音が聞こえた、と言った。
その人間が走り出した。
走り去った。
後ろを向いたら、笑顔があった。
黒い制服を着ていた。
金色のバッジが光っていた。
笑顔の中に、何も入っていなかった。
ゆっくりと、近づいてきた。
手口・八「においの道」
視点座標:第52,007番世界線 現代
ある朝から、甘い匂いがした。
どこにいても、甘い匂いがした。
食べ物の匂いに似ていたが、何の匂いかは分からなかった。
匂いが強い方向に歩くと、匂いが弱くなった。
匂いが弱い方向に歩くと、匂いが強くなった。
逆だった。
逃げる方向に、匂いが強くなった。
一週間で匂いの強さが三倍になった。
二週間で、起きている間中、強い匂いがした。
三週間で、眠っている時も匂いがした。
四週間目に、目を覚ましたら匂いが消えていた。
消えたのではなかった。
慣れた。
匂いが空気と同じになった。
匂いがある状態が普通になった。
その日から、匂いがない場所に行くと、何かが足りない気がした。
一ヶ月後、玄関を出たら、黄色い建物があった。
扉が開いていた。
中から甘い匂いがした。
足が動いた。
自分で動かした記憶はない。
でも中に入っていた。
手口・九「写真」
視点座標:第67,340番世界線 現代 ある家族
古いアルバムを整理していたら、知らない写真があった。
家族写真だった。
両親と、兄と、私が写っていた。
知らない場所で撮った写真だった。
どこにも行った記憶がない場所で、家族全員が笑顔で写っていた。
両親に聞いた。
「覚えていない」と言った。
兄に聞いた。
「見たことない」と言った。
でも全員の笑顔が、本物の笑顔だった。
知らない場所で、全員が笑っていた。
写真の背景を見た。
黄色い建物があった。
建物の看板が写っていた。
読めない文字で書いてあった。
でも何と書いてあるか、分かった。
写真の中で家族が向いている方向に、扉があった。
扉が開いていた。
その扉の向こうに、家族が続きを歩いて行きそうだった。
写真の中の私が、こちらを見ていた。
写真の中の他の三人は全員、扉の方を見ていた。
写真の中の私だけが、こちらを見ていた。
写真の中の私が、口を開いていた。
何かを言いかけていた。
読み取れなかった。
翌朝、写真が消えていた。
アルバムから、四人分の笑顔が消えていた。
写真のあった場所に、黄色い光の跡があった。
手口・十「夢の続き」
視点座標:第78,221番世界線 現代
同じ夢を毎晩見た。
夢の中で、廊下を歩いていた。
廊下の先に扉があった。
扉の前で、毎晩目が覚めた。
一ヶ月間、毎晩同じ場所で目が覚めた。
五十日目に、扉を開けた。
扉の向こうに、部屋があった。
部屋の中に、机があった。
机の上に、食べかけのバーガーがあった。
バーガーを見た。
甘い匂いがした。
夢だと思った。
手を伸ばした。
バーガーに触れた。
冷たかった。
夢の中のものが冷たかった。
目が覚めた。
手に、冷たさが残っていた。
次の夜も同じ夢を見た。
部屋があった。机があった。バーガーがあった。
食べかけの続きが、そのままあった。
食べかけの部分が、昨夜より少し進んでいた。
自分が夢の中で食べていた。
覚えていないのに食べていた。
六十日目の朝、目が覚めたら自分の部屋ではなかった。
廊下だった。
夢の中の廊下だった。
夢の廊下に、起きた状態でいた。
扉の前に立っていた。
扉が開いていた。
部屋の中に、机があった。
机の上のバーガーが、なくなっていた。
完食されていた。
手口・十一「声」
視点座標:第89,004番世界線 現代
誰かが名前を呼んでいた。
最初は聞こえなかった。
気のせいだと思っていた。
一週間後から、はっきり聞こえた。
声は遠かった。どこから来ているか分からなかった。
壁の向こうから来ていた。でも壁の向こうは隣の部屋で、誰もいなかった。
床から来ていた。でも床の下は基礎だった。
天井から来ていた。でも天井の上は屋根だった。
名前だけを呼んでいた。
他には何も言わなかった。
ただ名前を呼んでいた。
呼ばれるたびに、名前を呼ばれる感触が変わっていった。
最初は知らない声だった。
二週間後には、亡くなった祖父の声になっていた。
三週間後には、子どもの頃の友人の声になっていた。
四週間後には、自分の声になっていた。
自分の声で、自分の名前を呼ばれていた。
呼ばれる方向に、少しずつ近づいていった。
気づいたら、声の方に歩いていた。
歩き続けた。
廊下に出た。
廊下の先に扉があった。
扉の向こうから、自分の声で自分の名前を呼ばれていた。
扉を開けた。
黄色い光があった。
甘い匂いがした。
声が止まった。
手口・十二「読んでいる人へ」
視点座標:不定
これを読んでいるあなたに、一つ確認がある。
この記録を読み始めてから、甘い匂いがしていないか。
ここ数日、同じ夢を見ていないか。
鏡の中の自分の動きが、一瞬だけ遅れることはないか。
名前を呼ばれた気がして振り返ったが、誰もいなかったことはないか。
ないなら、問題ない。
あるなら——
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補充記録 No.010
分類:蒐集記録(複数手口・一括)
供給先:各施設(個体の状態に応じて自動振り分け)
担当蒐集手口の概要と効率評価:
手口一(鏡):接触コスト極低。対象が鏡を見る習慣を持つ個体に有効。
誘引から回収まで三日。効率:高。
手口二:密閉空間利用。逃走経路ゼロ。
誘引から回収まで即時。効率:最高。
手口三(子どもの頃の家):郷愁ちゃんの能力と連動した手口。
記憶の再現により対象の防衛機能を低下させる。
対象が自発的に扉を開けるケースが多い。効率:高。
手口四(地図):移動中の個体に対して有効。
物理的に目的地を書き換える。到達不能地点化。効率:中。
手口五(電話):時間軸操作を伴う高度な手口。
対象が警告を受けても来ることが確定している点が特徴的。
自己言及的ループにより回避不能。効率:最高。
手口六(本):対象の人生記録を先読みさせる。
最後の一文を読んだ個体は自発的に扉を開ける。
自発性が高いため蒐集コストゼロ。効率:最高。
手口七(双子):nの次元に先着した個体を警告役として配置。
警告が機能しない構造を利用。先着個体が回収前に逃走したことを確認。
追跡中。
手口八(においの道):長期接触型。期間:平均四週間。
回収率:ほぼ百%。依存性形成による自発的回収。
コストは高いが失敗率が低い。効率:中(安定性:最高)。
手口九(写真):家族単位での蒐集に有効。
家族の笑顔を先行して見せることで、対象の抵抗を低下させる。
写真の中で対象が「言いかけた言葉」の内容:記録しない。
必要ないため。
手口十(夢の続き):睡眠侵食型。夢境侵食ラボと連携。
対象が夢と現実の境界を認識できなくなった時点で回収完了。
完食を確認したことが蒐集の完了条件。
手口十一(声):死者の声を模倣する手口は郷愁の記憶操作と連動。
対象が自分の声で自分を呼ぶ段階まで到達した場合、回収成功率百%。
手口十二(読んでいる人へ):
本記録を読んだ個体への事後確認である。
甘い匂い・繰り返す夢・鏡のズレ・名前を呼ばれる感触——
これらは蒐集プロセスが既に開始されていることを示す初期症状である。
本記録を読み終えた時点で、初期接触は完了している。
次のステップは自動的に進行する。
対象の行動に関わらず、進行する。
在庫切れ、なし。
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