第十一話「夕暮れが動かない理由」
>本記録は、郷愁(担当クルー)の一日の稼働記録に付随する、
>接触対象の意識残存から自動抽出した断片群である。
>郷愁の稼働記録は、nの次元・記録管理局に提出済み。
>本記録はその副産物として生成された。
——夕暮れについて
郷愁の個室の窓の外は、常に夕暮れだ。
朝にならない。昼にならない。夜にならない。
夕暮れが動かない理由を聞いた者は、全員が同じ答えを返される。
「好きな時間帯なの」
それだけだ。
正確な理由は、別にある。
世界線が終わる瞬間の空の色は、統計的に夕暮れの色をしている確率が高い。
終わりかけた世界線の光が橙色をしている。
郷愁の個室の窓の外には、今この瞬間も終わり続けている無数の世界線の夕暮れが重なって降り注いでいる。夕暮れが「動かない」のではない。無数の終わりが常に更新されているから、「常に夕暮れ」になっている。
郷愁の部屋は、永遠に終わり続けている。
郷愁はそれを知っている。
知っていて、「好きな時間帯なの」と言う。
接触記録・一「現代 ある国の住宅街 主婦・四十三歳」
子どもが帰ってきた時間に、玄関先に立っていた。
黒い制服を着た女の子が、ウチの玄関先に立っていた。
最初は近所の子かと思った。でも顔が分からなかった。分からないというより、見ようとするたびに目が滑った。顔の輪郭はあるのに、細部が定まらなかった。笑顔だけが、はっきり見えた。
笑顔の中に、何も入っていなかった。
「こんにちは」と声をかけた。
その子が私を見た。目の焦点が、私の目の五センチ奥にあった。
「懐かしいでしょう」とその子が言った。
声が、どこかで聞いたことがある声だった。どこで聞いたか思い出せない。子どもの頃に聞いた声に似ていたが、誰の声かが出てこなかった。
「何が」と私は言った。
「ここが」とその子が言った。「この玄関が」
私は自分の家の玄関を見た。
普通の玄関だった。靴が並んでいて、傘立てがあって、表札がかかっていた。
でも言われた瞬間に、懐かしかった。
なぜ懐かしいのか分からなかった。毎日ここに立っているのに、懐かしかった。
その子が一歩、近づいてきた。
急いでいなかった。
全く急いでいなかった。
「少し、触れてもいいですか」とその子が言った。
声のトーンが変わらなかった。感情の温度がなかった。「触れてもいいですか」という言葉の形をした、別の何かだった。
私は一歩、後退した。
「結構です」と言った。
その子が笑顔のまま、止まった。
「そうですか」と言った。
それだけ言って、来た方向に歩いていった。
その夜から、記憶の解像度が少しずつ下がった。
最初に薄くなったのは、子どもが生まれた日の記憶だった。生まれたことは覚えている。でも、その時の空気の温度が、出てこなくなった。次に薄くなったのは、夫と初めて会った日の記憶だった。会ったことは覚えている。どこで会ったかも覚えている。でも夫の顔が、その日だけ、ぼんやりとした輪郭になった。
三日後、その子がまた玄関先に立っていた。
笑顔だった。
一歩、近づいてきた。
接触記録・二「江戸時代 ある藩の城下町 浪人・五十一歳」
辻に立っていた。
夕暮れの辻に、黒い着物の娘が立っていた。
辻、というのは縁起が悪い。夕暮れはなおさらだ。でも娘は平然と立っていた。笑顔で立っていた。
笑顔の形が、おかしかった。笑顔なのに、笑顔の向こうに何もなかった。面の笑顔だった。
「何をしている」と声をかけた。
娘が私を見た。目の焦点が合う場所より、五分ほど奥にあった。
「お待ちしておりました」と娘が言った。
「待つとは、誰を」
「懐かしい方を」と娘が言った。
私は一歩、後退した。
「人違いではないか」
「いいえ」と娘が言った。「お顔は変わりましたが、においは変わりません」
においが変わらない、という言い方が引っかかった。
「何のにおいか」
「故郷のにおいです」と娘が言った。「あなたが最も帰りたい場所のにおいです。私には全部、分かります」
故郷。
三十年前に出た場所だ。二度と帰れないと分かっていて出た。
その言葉が出てきた瞬間に、胸の奥に何かが刺さった。
娘が一歩、近づいてきた。
急がなかった。
「帰りたいでしょう」と娘が言った。
「……」
「帰れない場所が、一番懐かしい」と娘が言った。「それがあなたの、一番大事なものの形です」
娘の言葉は正しかった。
正しかったから、止まれなかった。
娘が一歩、また近づいた。
私の右腕に、指先が触れた。
触れた瞬間に、故郷の風景が見えた。
三十年前の、あの川の景色が見えた。水の冷たさが、指先に来た。
母親の声が聞こえた気がした。
「帰りましょう」と娘が言った。
笑顔だった。
空洞の笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間に、ここが川ではないと分かった。
でも遅かった。
接触記録・三「未来 ある宇宙ステーション エンジニア・二十八歳」
ステーションの外壁補修中に、見た。
宇宙服を着て船外作業をしていた。相棒のリャンは反対側を補修していた。
振り返った時に、いた。
宇宙空間に、いた。
黒い制服を着た女の子が、宇宙空間に立っていた。
立っていた。
何もない宇宙空間に、重力があるかのように、地面があるかのように、立っていた。
酸素が供給されているはずの宇宙服の中に、甘い匂いがした。
「……何だ、あれは」と無線でリャンに言った。
「何が」とリャンが返した。
「外壁の、東側に——」
「何も見えないが」とリャンが言った。
私には見えていた。
笑顔でこちらを見ていた。
宇宙空間に立ったまま、笑顔でこちらを見ていた。目の焦点が私の目の五センチ奥にあった。
ゆっくりと、近づいてきた。
宇宙空間を歩いてくる。足が何かを踏んでいるような動きで、でも何もないところを、歩いてくる。
「戻ります」と私はリャンに言った。
「まだ補修が終わっていないぞ」
「体調が悪い」と言った。
エアロックに入った。
扉が閉まった。
内部の扉が開くまでの三十秒間、外側の扉のガラスを見ていた。
その子が、外側の扉の前に立っていた。
宇宙空間に立っていた。
笑顔だった。
三十秒間、ガラス越しに笑顔を見た。
その三十秒間に、何かが起きた。
ステーションに戻ってから、リャンの顔を見た。
リャンの顔が、思い出せなくなっていた。
十年間、一緒に組んできた相棒の顔が、ぼんやりとした輪郭になっていた。
接触記録・四「現代 ある国の介護施設 入居者・八十七歳」
あの子が来てから、眠れるようになった。
毎晩、夢を見る。
若い頃の夢だ。
二十代の頃の、あの部屋の夢。
あの頃の匂いがする。あの頃の空気の温度がある。あの頃の声が聞こえる。
全部、本物だった気がする。
夢の中では、体が痛くない。膝が動く。耳がよく聞こえる。
朝、目が覚めると、この部屋がある。白い壁がある。窓の外に駐車場が見える。
夢から戻りたくない。
毎晩思う。
三日前から、起きている時間の記憶が薄くなっている。
今日の朝ごはんが思い出せない。昨日の面会が思い出せない。先月、娘が来たかどうかが思い出せない。
でも二十代の頃の記憶は、むしろ鮮明になっている。
あの部屋の壁紙の模様が、はっきり見える。
あの頃に食べたものの味が、舌に残っている。
あの頃の人たちの声が、耳の奥にある。
起きている時間が、どんどん薄くなっている。
夢の時間が、どんどん厚くなっている。
今日、あの子がベッドの横に立っていた。
笑顔だった。
「懐かしいでしょう」と言った。
「うん」と言った。
「もう少しで、ずっとそこにいられるようになります」と言った。
「ずっと」と私は言った。
「ずっと」とその子が言った。「起きている時間は、なくなります」
怖いかと聞かれたら、分からない。
ずっと夢の中にいられるなら、怖くないかもしれない。
でも、一つだけ聞いた。
「夢の中の人たちは、本物ですか」
あの子が笑顔のまま、少し間を置いた。
「懐かしいと感じているなら、本物です」とあの子が言った。
答えになっていなかった。
でも、もう確かめる方法がなかった。
接触記録・五「時代不明 場所不明 話者不明」
懐かしい。
何が懐かしいかは、出てこない。
でも懐かしい。
帰りたい。
どこに帰りたいかは、出てこない。
でも帰りたい。
誰かがいた気がする。
誰かは、出てこない。
でも、いた気がする。
夕暮れが見える。
橙色の光がある。
ずっとここにある。
——夕暮れが増える理由
郷愁が「懐かしい」と感じる瞬間がある。
その瞬間は、必ず、どこかの世界線が終わった時だ。
世界線が終わる直前、その世界線の住民が最後に感じた感情——帰れない場所への未練、失った時間への後悔、もう会えない誰かへの思い——が、郷愁に流れ込んでくる。
郷愁はそれを「懐かしさ」として受け取る。
受け取るたびに、個室の窓の外の夕暮れが、少しだけ濃くなる。
今日、郷愁が「懐かしい」と感じた回数は、四十一回だった。
今日、消滅した世界線の数は、四十一だった。
明日も同じだけ消える。
明後日も。
その次の日も。
夕暮れは動かない。
動かないのではなく、終わりが常に補充されているから、常に夕暮れでいられる。
郷愁の部屋の夕暮れは、無数の終わりで出来ている。
郷愁は窓の外を見る。
橙色の光がある。
「懐かしいわね」と郷愁は言う。
誰に言っているかは、分からない。
個室には誰もいない。
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補充記録No.011
分類:感情結晶(懐古型・高純度)複数個体一括
担当クルー:郷愁
供給先:悲鳴蒸留所 第三蒸留槽
本日の接触記録:
接触対象一(主婦・四十三歳)
初回接触から三日目。記憶解像度:七十三%まで低下。
子どもが生まれた日の「温度」、夫と会った日の「顔の細部」を回収済み。
次回接触で「子どもの名前を呼んだ時の声の感触」を回収予定。
最終回収まで:推定十四日。
接触対象二(浪人・五十一歳)
初回接触にして触覚接触成功。故郷の記憶を直接摂食。
「川の冷たさ」「母親の声」を高純度で抽出。
接触後、対象は別の世界線に移行した可能性がある。
現在追跡中。追跡不要と判断される可能性:高。
理由:すでに「帰りたい場所」に到達した場合、
追跡しても素材の純度が下がる。
接触対象三(エンジニア・二十八歳)
宇宙空間での接触は今回が初事例として記録する。
宇宙服越しの接触でも記憶摂食が成立することを確認。
相棒の顔の記憶を三十秒で回収。
今後の宇宙空間接触手法の標準化に使用する。
接触対象四(入居者・八十七歳)
睡眠侵食との併用が最も効率的な事例として記録する。
起きている時間の記憶を全て夢に置き換える手法。
「ずっとそこにいられるようになります」という告知を実施。
対象が「怖くないかもしれない」と判断したことを確認。
自発的な受容は蒸留効率を三倍にする。
最終回収:本日深夜。
接触対象五(話者不明)
記録の抽出精度が低いため詳細不明。
「懐かしい」「帰りたい」「誰かがいた」のみ残存。
素材としての品質:最高位。
理由:何を懐かしんでいるかが本人にも分からない状態は、
懐かしさが対象を完全に侵食した最終段階を示す。
名前も場所も時代も出てこない。
残るのは感情だけ。
感情だけになった懐かしさは、蒸留の必要がない。
そのまま結晶になる。
本日の郷愁の稼働評価:標準。
本日消滅した世界線の数:四十一。
本日郷愁が「懐かしい」と感じた回数:四十一。
一致を確認。
郷愁の個室の夕暮れの濃度:本日比で〇・〇〇三%増加。
累積増加率:測定不能。
在庫切れ、なし。
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