道化遊戯 正義しか見なかった刑事と正義の味方になれなかった探偵の回想 前藤正一 その3
地下鉄東西線竹橋駅。
皇居のそばにあるこの駅では複々線化工事が進められていたが、同時に地下鉄駅と周辺ビルを地下街で結ぶ工事も進められていた。
そんな周辺ビルの一つが、桂華グループ四大企業の一つである桂華商会の本社ビルである。
そこの地下警備室は通常警備ではあったが、警戒を緩めることなく前藤正一樺太道監察官と蒼水ハンナ警部を出迎え、中に居た男と面会する事になった。
警備室の中は、地上の桂華ホテル九段下の華やかさとは無縁だった。
蛍光灯の白い光。壁に並んだ監視モニター。出入りする警備員たちの短い報告。
そこに一人、場違いなほど疲れ切った男が椅子に座らされていた。
花嫁の昔の男。
ホームから落ち、引き込み線脇を這い、騒ぎに紛れて竹橋駅側まで逃げ延びたその顔は、もはや香港で派手に暮らしていた頃の面影をほとんど残していない。
煤けた上着、擦り切れた靴、脂汗を浮かべた額。
それでも目だけは死んでいなかった。
あれこれと値踏みをする目だ。まだ売れる。まだ助かる。そう信じようとする人間の目だけは前藤を睨んでいた。
「……随分とご大層なお迎えだな」
乾いた声で男が言う。
前藤はその強がりを鼻で笑うでもなく、ただ正面の椅子に腰かけた。
「樺太からの腐れ縁でね。
君が東京まで流れてくるとは思わなかったが、驚きはしない」
蒼水ハンナは前藤の背後に立ったまま、無言で男を見下ろす。
その視線が警官のものというより、獲物の値踏みをする猟犬に近いことを、男も悟ったらしい。肩がわずかにこわばった。
「で?」
男が唇を舐める。
喉が乾いているのだろう。だが水を求めるほど素直でもない。
「俺をどうするつもりだ?」
「保護する」
「……公安か?」
「外事筋が一枚噛んでいる。米露にも恩を売りたい人間が上には多い。
その意味では、君は思っている以上に高く売れる」
男の口元が、かすかに歪んだ。
安堵か、あるいはまだ交渉の余地があると見た笑みか。
「だったら話は早い。
こっちも売るもんはある。洗濯機の中身、樺太のライン、香港の逃がし先――」
「あるだろうね」
前藤はあっさりと頷いた。
その拍子抜けするほど平坦な声音に、男の眉が動く。
「だが、先に一つ確認しておこうか。
君は、自分がまだ条件を出せる立場にいると思っているのか?」
空気が少しだけ冷えた。
男は前藤を睨む。
睨み返されても前藤は微動だにしない監察官の顔。
人の言い分を聞く顔ではなく、供述の値段を決める顔である。
「俺が持ってるものが欲しいんだろ?」
「欲しいとも。
だから保護する。ここで殺されると面倒だからね」
「だったら――」
「勘違いするな」
前藤の声が初めて相手を切った。
静かに、だが低い声に男の椅子が引く音が大きく響いた。
手を出す必要も価値もないと暗に告げていた。
「君が生き残れるのは、君が大事だからじゃない。
君を生かしておいた方が、まだ使い道があるからだ」
男の顔に怒りの色が浮かび、わずかな笑みが消える。
蒼水ハンナ警部がしらじらしく、かつ丁寧な口調で水を差す。
「ちなみに、花嫁さんの名前を切り札にするのはおすすめしません」
「……何?」
「もう切れている縁に縋るのは自由です。
でも、それをこちらが価値として認めるかは別問題なので」
男の目が険しくなる。
それは怒りというより、図星を指された人間の反応だった。
そこで、ハンナはこの男の値打ちを見切った。
「切れてる、だと?」
「ええ」
ハンナはさらりと言う。
警察口調でない事が、男の価値を見透かしているのを男は理解できない。
「少なくとも向こうはそう整理しています。
今日ここまで来たのも、貴方に会いたいからではなく、貴方が周囲に迷惑をかけるからです」
あえて男に餞別とばかりにハンナは情報をくれてやる。
それが男の価値を一層傷つけるのを理解した上で丁寧にかつ容赦なく。
「何しろ花嫁さん。
式の後、総理や都知事、公爵令嬢とお話しするそうなので」
お前の脅しなどもはや意味がない。
お前の過去も我々には価値がない。
だが、お前と言う『餌』には価値がある。
それが理解できないほど男は馬鹿でも愚かでもなかった。
「……チッ!」
男は舌打ちした。
だが否定はしなかった。否定できるほど自信がないからだ。
前藤はその様子を見て、小さく息を吐く。
大したことない仕事だが、人に任せる訳にも行かない。
「君の感情などどうでもいい。
昔の女がどうした、情が残っているはずだ、助ける理由がある――そういう理屈を君はこれからいくつも並べるのだろうが、こちらにとって必要なのは情報だけだ」
「……俺を舐めるなよ」
男が低く唸る。
「俺が口を閉じたら、そっちだって困るだろうが」
「困るね」
「だったら」
「だから生かすと言っている」
前藤はそこでわずかに身を乗り出した。
静かに睨みつけつつ、この手の男にはこのような仕草がよく効く。
「だが、君が今日ここで学ぶべきことは一つだ。
生き残りたいなら、しがみつく相手を間違えるな。
昔の女に縋るのは勝手だが、今後君を生かすのは彼女の情ではなく、こちらの都合だ」
男はしばらく何も言わなかった。
視線だけが揺れる。
愛夜ソフィアの名を出せば何とかなると、心のどこかで思っていたのだろう。
あるいは、そう思わなければ自分が完全に終わったと認めることになる。
男の口から、掠れた声が漏れた。
「……俺を売るつもりか」
「君は最初から売り物だよ」
前藤の返答は容赦がなかった。
「違うのは、君が自分で値札を付けるか、こちらが付けるかだけだ。
そして今の君には、もう自分で決める権利はあまり残っていない」
蒼水ハンナが机の上でスーツケースを開く。新しい身分証と衣服に札束が入っているのを見せると、ケースを閉じて前藤の足元に置く。
脅し、価値を下げさせたが、取引そのものは誠実に。
それを男に見せつけた後で前藤に声をかける。
「では、監察官。
そろそろお仕事を始めましょうか」
前藤は頷く。
ここで、手のひらを返すような男ならこんな所に来てはいないと分かっているからだ。
「そうだな。
まずは簡単な所から聞こう。
香港で君を匿っていた連中の名前だ」
男は目を閉じた。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、ここで黙り通す未来を考えたようにも見えた。
だが彼は、英雄でも義士でもなく、生き延びるために昔の女にも縋る男でしかない。
安値。だが、取引そのものは本物。
ならば、縋る相手を変えた所で非難される謂れもない。
ゆっくりと目を開けた男は、前藤を見る。
「……紙と煙草をくれ」
「煙草はない」
「ちっ」
「だが紙はある。
喋るならな」
前藤の言葉に、男はようやく観念したように背もたれへ沈んだ。
こうして男は、己を売って生き延びた。
誰に讃えられることもなく、誰に裁かれることもなく。




