道化遊戯 正義しか見なかった刑事と正義の味方になれなかった探偵の回想 ???
「あとどれぐらい東西線が止まっているのか聞いてきてくれませんか?
こちらもお客様に、具体的な時間を返答できなくて困っているのですよ」
困っている。
その言葉は嘘ではなかった。
実際、困っているのだ。
目の前の騒ぎそのものにではない。
騒ぎというものは、いったん起きてしまえば後はそれに合わせて人が動く。駅員は客をなだめ、警官は規制線を張り、救急導線が空けば誰かがそこを通る。現場はいつだってそういうものだ。
問題は、想定していた筋書きから、一人だけ外れていることだった。
あの男だ。
ホームから落とした時点で終わるはずだった。
終わらせねばならなかった。
監視カメラの死角、混乱の最中、ホーム端。条件は揃っていた。警戒していた男だが、警戒していたからこそ、駅員の顔で近づけば一瞬だけ身構えが遅れる。その一瞬で十分だった。
だが、死体はない。
線路内を見た。
引き込み線側も確認した。
それでも、ない。
客が落下した時用にホームには隙間がある。
そこに逃げ込んだのかと確認したいが、ホームには男を轢きかかった列車が止まっていて確認が取れない。
ならば生きている。
そして生きているなら、あの男は逃げるだけでは終わらない。自分を売る。そういう男だ。死んだことになって一度逃げおおせたからこそ、今度も値札を付けて誰かの手に乗るつもりでいる。
その誰かに届く前に、消す。
それだけだ。
視線の端で、パワードスーツ姿の大男とメイド二人が遠ざかっていく。
異様な取り合わせだった。
あれが駅の外、飯田橋の方へ向かって歩いていく光景は滑稽ですらある。通行人が振り返るのも無理はない。
だが、その滑稽さがありがたかった。
人は大きく、珍しいものに目を奪われる。
その陰で、小さく自然な人間は消える。
だから先に外した。
飯田橋に行ったかもしれない。
その可能性自体は嘘ではない。
嘘ではないから、動く。
合理的な人間ほど、合理の罠にかかる。
もっとも、あの男――花嫁の昔の男が、本当に飯田橋で保護を待つとは最初から思っていない。
公的な顔の大男など、あの手の人間が信用するはずがない。
だからこそ、九段下へ戻る。
売れる場所へ。
花嫁の上にいる誰か、釣り堀を見張る誰か、あるいはもっと別の誰かへ。
そういう算盤だけは早い男だ。
そして、戻るなら導線は限られる。
駅員に向ける顔を作ったまま、彼は周囲を見回す。
客はまだ苛立っていた。
東西線の遅延に舌打ちし、駅員に詰め寄り、携帯で誰かに遅れると伝えている。
誰も、彼個人を見ていない。
駅員というものは、そういう時に風景へ溶ける。
都合がいい。
『九段下交番の夏目です。
落ちた人間の確保の為、警官を送り出します。
東西線ホームに居る警備員は非常事態警護から要人警護シフトに戻ってください。
現場検証の為に送り出す警官と駅員は一緒に行動するように。
以上です』
足早にホームへ戻る。
途中、同じ制服を着た別の駅員とすれ違う。軽く会釈を交わす。相手は彼を見ていない。制服と足取りだけを見ている。それで足りるのが現場だった。
ホームの空気は、さきほどよりも薄く張りつめていた。
列車が止まったままの駅というのは、音が少ないくせに落ち着かない。アナウンスの声、遠くの話し声、靴音、苛立ちの鼻息。そういうものが断続的に耳に入る。
だが、今このホームの端までは人が寄らない。
規制が入っており、彼にとって必要なのは、その規制の向こう側だった。
「お疲れ様でーす。
この後の現場検証の人ですか?」
「ええ。まぁ」
「あとお願いしますね。
我々は九段下桂華タワーの警備に戻りますんで。何かあったら無線で連絡を」
規制を敷いていた警備メイド二人が軽く敬礼して去ってゆく。
こちらを、現場検証の駅員と勘違いしてくれたのはありがたい。
誰も見ていない事を確かめるのではない。
見ていても不自然ではない瞬間を選ぶのだ。
ホームドアの管理盤の前で、彼はしゃがみ込む。
点検の顔。
確認の顔。
急なトラブル対応に追われる駅員の顔。
男がこちらに来ることを考えて、鍵は開けられていた。こういう手の仕事は、ためらわないことが大事だ。
ためらいは視線になる。視線は他人を呼ぶ。
カチリと乾いた音がして、ホームドアの一部が人一人通れるだけ静かに開く。
その向こうは、本来ならば地下鉄しか通らないトンネル。
その端に人が歩くためではなく、点検と故障など異常時のために用意された細い導線があった。
彼は一度だけ、背後のホームを振り返る。
客の視線はない。同僚の気配もない。警官も警備員もいない。
よし、と心の中でだけ呟く。
元男が本当にこちらへ戻ってくるなら、最後はここだ。
九段下駅の喧騒から半歩だけ外れたこの場所なら、保護にも見せられるし事故にもできる。
足を滑らせた、錯乱して逃げた、線路下へ迷い込んだ――報告書の文言はいくらでも選べる。
事故は、報告書で完成する。
そして報告書は、現場を押さえた人間のものだ。
彼は身を滑り込ませるようにホームドアの向こうへ入り、静かにそれを閉めた。
駅の音が一枚隔てられる。
暗さと湿気が一気に近くなる。
線路脇の狭い通路を一歩、また一歩と進む。足裏に伝わる感触が変わり、ホームの上とは別の世界に降りたことを身体が知る。
引き込み線の方角は暗い。
だが、暗いだけで見えない訳ではない。
知っている人間には十分だった。
あとは、来る相手を待てばいい。
カツンと靴音がした。
自分のものではない。
こちらにやってくる音が二つ。
……二つ?
足を止め、反射で息を殺し、耳を澄ます。
元男なら、一人で来る。
いや、来るなら来るで、もっと迷う。
線路脇の狭い導線を、こんなふうにまっすぐ踏んでくるような足取りではない。もっと用心深く、もっと怯えた歩き方になるはずだった。
だが、近づいてくる靴音には妙な迷いがない。
慎重だが、逃げてきた人間の音ではない。
片方の足音は堂々としている人間の音だ。
男は舌打ちを飲み込む。
口の中だけで悪態をついたところで、状況が変わる訳ではない。
誰だ?
警官か?
いや、警官ならもっと人数がいる。無線は伝えていない。
駅員か?
だったら無線連絡が届くはずだ。
それに堂々としている足音が軽い。片方は確かに女だ。
その時、暗がりの向こうで小さく声がした。
「へー。こうなっているんだ」
「何でこんな所を歩く事になるんだか……こういう事を本人が使わない事を祈るよ」
聞き覚えのない声だった。
男は目を細める。
非常用電灯に照らされた男は妙に着飾っていたが、着慣れていないのが遠目にも分かる。
女の方も若くどこかの学校の制服を着ている。
ああ、と胸の奥で何かが冷えた。
結婚式を行う花嫁側の知人か。
警察ではない。
だからこそ厄介だ。
警察なら手順で縛れる。駅員なら役目で動かせる。
だが、こういう連中は違う。役目の外から首を突っ込んでくる。しかも、自分が何を見ているのか分からないまま、一番見られたくない瞬間に辿り着く。
ならば、まだ間に合う。
そう判断した時には、もう声を作っていた。
「危ないですよ」
駅員としての声だった。
困ったようで、しかし落ち着いていて、現場を知っている人間だけが出せる声。
「ここは立入禁止です。
ホームに戻ってください」
言いながら、男は二人の目を見る。
どこまで知っている。
何を見て来た。
何に気づいている。
それを測るには、一言目が肝心だった。
けど、その一言目をしくじったと察したのは目の前の男の一言目を聞いたからである。
「違いますよね」
違う?
何が違うというのか?
動揺するとかえってボロが出るので黙ると、男は探偵のように学生服の女を見て種明かしをする。
「九段下桂華タワーの警備マニュアルには、主が通っている帝都学習館学園のご学友についての記述があるんですよ。
『九段下桂華タワーの主がご学友と共に地下秘密通路を用いて脱出した場合、そのご学友は必ず保護するように』と」
九段下桂華タワーに直結する地下秘密通路だと!?
その言葉が口を突いて出た瞬間、男は自分で自分の失策を悟った。
駅員の顔を作るより先に、知らないはずの情報へ反応してしまったからだ。
三田守はそこで初めて、少しだけ肩の力を抜いた。
当たった、と顔には出さずに。
「ですよね」
静かな声が耳に触った。
「九段下の人間なら、今の話は驚きません。
知っているか、知らないふりをするかのどちらかです。
でもあなたは、いま初めて聞いた顔をした」
男は即座に表情を消した。
さきほどまでの“困った駅員”の顔ではない。
だが、開き直るにはまだ早い。
ここで沈黙すれば、それはそれで認めることになる。
「……何の話をしているのか分かりませんね。
こちらは後から来る警官の現場検証の確認をしていただけです」
「へえ」
横から神奈水樹が覗き込むように首を傾げる。
「現場検証の確認なのに、誰かがここに来ると思ってたんですか?」
男の視線が一瞬だけ水樹へ流れる。
その一瞬で十分だとばかりに三田が続ける。
「ゲオルギーさんを飯田橋へ飛ばして、
ホームの方は“現場検証”の顔で抜けて、
そのうえでここへ来た。
保護のつもりなら、ずいぶん都合がいい動きですね」
「証拠でも?」
低く返した声には、もう駅員の柔らかさがなかった。
これこそが本当な証拠とばかりに三田守が肩をすくめた。
「この件、なかった事にされるそうですよ」
何を言っているのか分からない顔をする男に、三田守は丁寧にとどめを刺してゆく。
「貴方を拘束するのは、精々勤務規定違反程度です。
だから、すぐ釈放されますよ。警察だけでなく、米露の諜報機関からのお話の後で。
何もしていなければの話ですが」
「え?」
間抜けな声が出ると同時に後ろのドアが開けられ、帰ったはずのメイドたちがいい笑顔でこちらを見ていた。
無線が聞こえなかったという事は、意図的に避けてこちらを罠にハメたのだ。間抜けがドアを開けるように。
同業者だからこそ分かる。
元CIAの現北樺警備保障のメイドたちは、拘束した自分を決して逃さないという事を。
そして、ようやく男は理解した。
事故にするつもりで踏み込んだこの暗がりが、自分の言い逃れを潰す為の現場になったのだと。
なかった事にされるのは、もう自分の方だった。




