1章5節
タクシーの窓ガラスに、若葉の吐いた息が淡く曇りを作った。
運転手は何も尋ねず、ただ前を向いている。車内には小さなラジオの音とエンジンの振動だけがあり、さっきまでいた部屋の音はもう、どこにもなかった。
若葉は膝の上にバッグを置くと、中を確かめるように指を入れた。
触れたのはアフターピルのシート──中身は、空。
スタッフから初めて「念のため」と渡されたときは、そんなものまで準備するのかと、どこか現実味のないまま受け取った気がする。それが今ではバッグにあることを確認しないほうが落ち着かない。
若葉はシートから手を離すと、素早くファスナーを閉じた。
窓の外では、コンビニや飲食店の明かりが流れていく。
歩道には笑いながら歩く人たちがいて、信号が変わるのを待つ会社員がいて、誰かの日常がいくつも横切っていた。
若葉は背もたれへ身体を預ける。
疲労が、ようやく輪郭を持ちはじめていた。
衣装の内側へ残るわずかな違和感も、ホテルの部屋でまとっていた匂いも、車内の冷えた空気の中では少しずつ遠ざかっていく。
スマートフォンが振動した。
スタッフからだ。
『お疲れさま。今日の分、ちゃんと伝えておいたから。明日は午前中フリーだから、ゆっくり休んでね。』
若葉は画面を見た。
ゆっくり。
その言葉だけが、ひどく軽く見えた。
明日の午前中は確かに空いている。けれど午後からは別の仕事があり、新しいシングルのプロモーションが始まる前に、入れられる予定はできるだけ入れておくよう言われている。
信号が赤になり、タクシーが止まった。
若葉は窓へ額を軽く寄せる。
ガラスは冷たかった。
その冷たさが気持ちよくて、しばらく離したくなかった。
やがてマンションが見えてくる。
「ここでお願いします。」
運転手へ告げ、料金を払う。
外へ出ると夜風が首筋を撫で、車内よりさらに低い温度が、ぼんやりしていた意識を少しだけ現実へ戻した。
エントランスを抜け、エレベーターへ乗る。
自分の部屋の鍵を開けると、中は真っ暗だった。
明かりを点ける。
キッチンのテーブルには、朝に置いたままの未開封のペットボトルが一本残っていた。
若葉はそれを手に取り、蓋を開けて何口も水を飲んだ。
思った以上に喉が渇いていた。
バッグを床へ置き、ソファへ沈む。
スマートフォンを開き、スタッフからのメッセージへ返事をする。
言葉は打たなかった。
犬が大きな「OK」のバッジを掲げている、いつものスタンプを一つだけ送る。
画面が暗くなった。
若葉はそのままスマートフォンを胸の上へ置き、目を閉じる。
明日の予定が頭の片隅へ浮かんだ。
午後の集合時間。
衣装合わせ。
打ち合わせ。
それから、新曲。
今は考えなくていい。
夜の街を走る車窓の向こうへ置いてきたものが少しずつ冷えていくように、身体に残った疲労も、今だけは静かに薄くなっていけばいい。
若葉はソファへ深く沈み、長く息を吐いた。




