1章四節半
「……っ、そこは……!」
今度の声には、整える時間がなかった。
社長のシャツを掴んでいた指へ思わず力が入り、それに気づいたのか、すぐ近くで小さく笑う気配がする。
若葉は息を止めた。
自分の身体に、そんなふうに反応する場所があることも、そこへ触れられればこんな声が出てしまうことも知らなかった。何より、自分自身も知らなかった場所を、先に他人へ見つけられてしまうことがあるなんて考えたこともなかった。
「若葉ちゃん。」
名前を呼ばれ、若葉はようやく浅く息を吸った。
顔が熱い。恥ずかしいのか、怖いのか、それともただ予想できなかったことに動揺しているだけなのか、自分でもうまく区別できなかった。
けれど、その混乱の中へ、いつもの考えが少しずつ戻ってくる。
使えばいい。
今の反応も、思わず零れた声も、自分ですら知らなかった表情も、相手が満足して今夜の仕事が無事に終わるのなら、全部使ってしまえばいい。
そうやって一つずつ「若葉」に戻していけばいい。
そのはずなのに、さっき自分の意思より先に零れた声だけは、どうしても仕事のものには思えなかった。
「若葉ちゃん……もう少し。」
「……はい。」
返事は思ったより掠れていた。
若葉は社長の首へ腕を回し、その肩口へ顔を寄せる。香水に混じる酒の匂い、耳の近くで繰り返される息、頬へ貼りついた髪。それらが一度に近くなり、目を閉じているのに、部屋の狭さだけがやけにはっきりした。
そして、その奥には、まだ別の言葉が残っている。
次のシングルは来月。
その事実だけは、今ここにいる自分とは切り離せなかった。
嬉しかった。
本当に。
だからこそ、何を喜んでいるのか考えてはいけない気もした。
やがて社長の腕に大きく力が入り、若葉もそれに合わせるように息を詰めた。
「あっ……っ、ん……!」
喉へ残った声を、ほんの少し長くする。腕に力を込め、離れたくないように見えるほど強く抱き寄せる。
それは若葉が選んだ反応だった。
けれど、その下に入り混じっていたものまで、全部を作ったわけではない。
演技と反射が重なり、どこからが自分で、どこまでが「若葉」なのか、もう輪郭は曖昧になっていた。
なら、そのままでいい。
わからなくなるくらいで、ちょうどいい。
少しずつ部屋が静かになっていく。
若葉はすぐには腕を解かなかった。目を閉じたまま、まだ近くにいる相手へと合わせるように息を整え、相手が満足するまでのわずかな時間を待つ。
それも、いつの間にか覚えていた。
しばらくして社長が隣へ身体を横たえると、急に広くなった場所に冷房の空気が入り込んだ。
若葉はそこで初めて、大きく息を吐いた。
ゆっくり身体を起こし、ベッド脇に置かれていたティッシュで額と首筋の汗を押さえる。それからスカートを整え、ストッキングの皺を一本ずつ指先で伸ばしていった。
乱れたものを戻していく。
肩口を直す。
髪を整える。
ひとつ元へ戻すたび、鏡に映しても構わない「若葉」が作り直されていく。
最後に胸元を確認し、若葉は社長へと振り返った。
「……気持ちよかったです。」
少し掠れた、柔らかな声。
社長が満足そうに手を伸ばしてくる。
若葉は迷わずその手を取り、ベッドの縁へ腰を下ろした。
「次のシングル、本当にありがとうございます。」
「いやいや、若葉ちゃんが頑張ってるからだよ。」
頑張っている。
胸の奥へ、小さな棘が入った。
何を。
どこまで。
誰のために。
そこから先を考えれば、たぶん今の顔を保てなくなる。
「……ありがとうございます。」
だから若葉は微笑んだ。
そして社長へ顔を寄せ、短く唇を重ねる。
恋人へ贈るものではなかった。
今日という仕事が終わったことを確認するための、小さな判子のようなキスだった。
離れたあと、社長の腕がもう一度腰へ伸びかける。
若葉はその動きを先に読み、拒絶に見えない程度の自然さで身体を引いた。
「……お時間、大丈夫ですか?スタッフにも、もう一度連絡しなきゃいけないので。」
「ああ、そうだったな。お疲れ。」
「はい。お疲れさまでした。」
立ち上がり、バッグを手に取る。
鏡の前へ行くと、髪を指で整え、頬へ貼りついていた細い毛束を耳へ掛けた。少し落ちたリップも、残った色を指先で薄く伸ばせば、それほど目立たない。
鏡の中には、ここへ来たときとほとんど変わらない若葉がいた。
メイクも大きくは崩れていない。
衣装も元へ戻っている。
髪さえ整えれば、そのまま、また他の誰かの前へ出られる。
笑おうと思えば、笑える。
何もなかったように見える。
「また、よろしくお願いします。」
振り返って笑うと、社長も満足そうに片手を上げた。
若葉はドアを開けた。
廊下の冷えた空気が首筋に触れ、その温度でようやく、部屋の中にあったものと外の世界が切り離された。
静かにドアを閉め、エレベーターへ向かう。
バッグの中でスマートフォンが振動した。
たぶんスタッフからだろう。
けれど若葉は、取り出さなかった。
人気のない廊下へ、ヒールの音だけが一定の間隔で響いていく。
次のシングルは来月。
その事実だけを胸の中へ残し、若葉は誰にも聞こえないほど小さく息を吐いた。




